【三題噺】影に日向に。
「影に日向に」と彼は言ったけれど、それはどんな意味を含んでいたのだろう。
その続きはどこにももう見えない。
病室のドアが開く音に顔を上げる。
つい先ほど、3時の回診があったからそろそろだと思っていた。
少し肌蹴ていた襟元をそっと直して、ひとつ息を吸い込む。
狙うのは彼が一言目を言うその瞬間だ。
「げ」
「元気じゃないわよ!」
やった。成功。心の中でガッツポーズをする。
私に面会に来る彼の一言目はいつも「元気か?」。
もう聞き飽きてしまった。
「入院してるんだから、元気なわけでしょー」
「十分、元気だと思うが」
「少しでも楽しまなきゃ損でしょ? どう、びっくりした? した?」
「……先読みされると、困る」
何を言うかと思えば、彼はぽつりとそれだけ返した。
正直、拍子抜け。もっとオーバーなリアクションを期待していたのに。
私がむくれたのがわかったのだろうか。
彼がふいに私の頭にそっと手を載せる。
少しびっくりして、思わず声が出た。
「ちょっと! いきなり触るとびっくりする!」
「え、あ、すまん、つい」
慌てたように離れていった手に少し、あっと思う。
でも、それを顔に出さないよう努めて、何気ない風を装って尋ねる。
「ねぇ、もう外は秋らしくなった?」
季節は秋。10月を過ぎて、窓から入ってくる風はほのかに秋を感じさせるような気がしていた。秋は好きだ。世界が少しピンボケしたような、くすりと笑ってしまう色合いの景色になる気がするから。
「秋らしいというのは紅葉か? それともイチョウ?」
「あんたの秋はその二択なの? 発想が貧困よ、秋なら他にもいろいろあるでしょ。ないの? 秋の思い出」
「…………パン喰い競争?」
「よろしい。あんたの秋は食欲の秋一択よ」
わざと芝居がかった風に言えば、彼はなんだか馬鹿にされている気がすると呟く。
馬鹿にはしていないけれど、可愛いとは思っているとは言わないでおく。
そんなふうだからつい、無意識のうちに言ってしまった。
「はー、私も綺麗な紅葉並木とか見に行きたいなー」
口にした瞬間に、失敗したと理解する。彼がどんな顔をしているかはわからない。
それでも彼の纏う空気が、病室の温度が、変わる。
病室を満たす沈黙の上に降る、窓の外から聞こえる遠い子供たちの声。
今日は温かいからきっと鬼ごっこ日和なんだろう。
そんな逃避的な思考はそれでも窓の外を見て、それを確かめようとすらしない。
「重そうな荷物、何もってきたの?」
沈黙に耐え切れなくなって、彼が病室に入る時から気になっていたことを聞いてみる。
重いものが下ろされる音がしたから、何を持ってきたのかと思っていたのだ。
口元が歪みそうになるのを必死で堪えて、笑みを保つ。
だって、これがきっと彼の望みで、私の最後の意地。
「……トランクケース」
「いまから旅行にでもいくの? 彼女をおいて、ひっどいなー」
「お前に渡したいものがあって」
椅子から立ち上がった彼はどうやらここでトランクケースを開けるようだ。
「――――待って」
声を掛けてしまったのはどうしてだろう。
でも、もう笑顔は剥がれてしまった。
「だめだよ、なにもいらないよ」
「……どうして」
「だって、」
声が震える。掛布を握りしめた手が痛い。
でも、だって、
「私には、なにも見えない」
その言葉とともに涙が溢れた。
『交通事故による失明』それが、私の現実だった。
紅葉もイチョウも、秋の景色も、そして彼の顔も私には見えない。
「……だから、これじゃなきゃだめだった」
トランクケースのロックを開ける音。
その瞬間――――光のない世界に色がついた。
鼻腔をくすぐる香りに目を見開く。
「金木犀……?」
「そう、これが秋だろ」
見えないはずなのにそっと彼が笑った気がした。
「触れてもいいか?」
「え、あ、うん」
申し出に頷けば、掌にふわりと柔らかいものが落とされる。
「影に日向に」
「え?」
「日の当たる場所でも、日の当たらない場所でも、という意味だ」
それは私が彼に告白した時に聞いた言葉。
その続きを私は何度も聞こうとして、でも聞けなくて。
そして、とうとう彼の目を見て聞く機会は永遠に失われた。
「私はずっと、その続きが聞きたかったんだよ」
「……すまん」
「あんたの目を見て聞きたかった、どんな顔で、どんな風に言ってくれるのか」
「……すまん」
「でも、これが答えだって思っていいの?」
さっきとは違う涙が零れていく。
握り直された手に、今度こそ嗚咽が止まらなくなる。
金木犀の香りが、手の温もりが、彼の力強い声が、目に映らないもの全てで彼は私に続きをくれた。
金木犀の花言葉は、初恋、陶酔。
それから、真実の愛。
Twitterで行っていた一時間で三題噺を書く企画で書いた一作目。
お題は、金木犀、陰日向、トランクケース。