爆発する老人
ある晴れた休日の事である。
一人の老人が、自宅にて胸の痛みに襲われていた。
締め付けられるような強い痛みを受け、老人は呻き声を上げながら戸棚に近づいていった。
戸棚から取り出したのは、一つの小さな瓶。中にはいくつかの小さな白い粒が入っている。どうやら錠剤のようだ。
老人はそのうち一粒を手に取り、口の中へ放り込んだ。そのまま飴を舐めるように舌で転がしていると、やがてその粒はなくなった。
それから数秒後、胸の痛みは嘘のように消え去り、老人は整った呼吸で大きくため息をついた。
老人が手に持つ瓶には、無機質な文字で「ニトログリセリン」と表記されていた。
『ニトログリセリン』
この物質がイタリアのアスカニオ・ソブレロという科学者に発見されたのは一八四六年。黒色火薬の七倍の爆発力があり、非常に敏感な物質であるため、ソブレロは爆薬として使い物にならないと切り捨てた。
その後一八六四年、アルフレッド・ノーベルらの工夫により実用化されたニトログリセリンの爆薬、ダイナマイトはあまりにも有名である。
今日、この危険な物質は医薬品としても使用されている。
高齢者に多い狭心症という病気―心臓の筋肉に酸素を供給する冠動脈の異常による虚血状態からくる、胸部圧迫感などの症状―に対し、ニトログリセリンの血管拡張作用は効果てきめんなのだ。
実際、ソブレロがこの物質を合成したものを舌全体で舐めてみたところ、こめかみがズキズキしたという記録がある。これは彼自身の毛細血管が拡張された故の現象である。この話から分かるように、摂取の仕方は舌の粘膜から吸収させる事だ。
医薬品として用いられるニトログリセリンには添加剤が加えられているので、爆発する事は当然ない。
ため息をついた老人の前に、隣の部屋から老婦人が現れた。
まだ若々しさの残る肌をこれ以上ないほど歪め、目の前の夫に詰め寄った。
「ちょっとアナタ!さっきから気持ちの悪い声出して、やかましいのよ。こっちはテレビを見ているんだから、あまり騒がないでちょうだい」
老婦人は、夫を心配する素振りすら微塵も見せない。
「そ……そこまで騒いでいないじゃあないか。俺だってずっと胸が苦しくて、死にそうな思いだったんだ。お前も俺が狭心症だって知っているだろう」
「ええ知っているわよ。だからってアタシの暮らしを邪魔する権利なんてないわ。その年になってから、そんな厄介な病気にかかるなんて、本当に迷惑だわ。別れてもいいのをわざわざ置いてあげているんだから、静かにしてちょうだい!」
勢いよくまくし立てると、老婦人は隣の部屋に引っ込んだ。
「やれやれ」
理不尽な妻に抗議の声も上げられない夫の口からは、その一言が漏れるだけだった。
長年の夫婦生活の果てに互いの愛情も薄れ、それどころか元々勝気だった妻が夫を邪険に扱うようになった。その上狭心症を患った夫には反抗する気力すら無くなり、あと少しの辛抱だからと自らに言い聞かせ、大人しく暮らしていた。
リビングでソファに座り、煙草を取り出そうとした老人の耳に、玄関のチャイムの音が聞こえてきた。
「息つく暇も与えてもらえんのか、俺は……」
愚痴を呟きながら老人が玄関へ向かうと、そこに立っていたのは一人の青年だった。
「どうもこんにちは。毎朝新聞の森という者です」
青年ははきはきと自己紹介をした。
「何ですかね。新聞なら間に合っていますよ」
「いいえ、今日は勧誘に来たのではありません。少しお知らせしたい事がありまして、この近くのお年寄りを対象に回っているのです」
「お知らせ?」
老人は怪訝な顔をして、青年の言葉を反芻した。
「はい。ここではなんですから、ちょっと上がらせてもらってもよろしいでしょうか?」
「ああ、待ってください。見ず知らずの方を勝手に上げると、家内がうるさくて」
「そうですか。では仕方ありませんが、ここでお話しさせていただきます。できれば内密にお話ししたかったのですが」
そう言いながら、森という青年はふと老人の手に持っているものが目に入り、小さく声を発した。
「ひょっとして、煙草お吸いになられました?」
「いや、たった今吸おうとしたらアナタが来たものですからね」
「ではまだお吸いになられていないのですね、ああ良かった」
「良かった、と言いますと?」
「アナタの命が助かったという事です」
「命⁉」
その言葉に驚きを隠せないまま、老人は森と共にその場へ座り、話を聞く事にした。
「先程私はお年寄りを対象にと申し上げましたが、実のところはもっと限定しています。それは、狭心症を患っている方です」
「はあ、確かに私がそうですけど。しかしそんな事、どうして知っているのです?」
「緊急の用だったので、近くの病院からカルテをお借りした次第です。その狭心症患者の方々には、錠剤が処方されているはずですね」
「錠剤なら確かに持っていますが」
「その錠剤はニトログリセリンといって、あのダイナマイトの原料にもなっている物質です」
「それはまた、意外な縁ですなあ」
「と言っても原材料そのまま処方しているわけではないので、危険性はない……と今まで言われてきました。……ああ、何と言って良いのやら。まったくこれは未曽有の事態です」
青年はそこで言葉を濁し、頭を抱えた。
「何ですか?ニトログリセリンがどうしたのです。はっきり言ってください」
「単刀直入に申し上げますと、爆発します。その錠剤」
「さっき危険性はないと言ったじゃあないですか」
「これまでの研究ではそう言われてきました。ですから皆安心して処方していたのです。しかしニトログリセリンの危険性を再び呼び覚ます仕組みが、極秘の研究にて判明したのです。それは、人間の心の老朽化です」
「心の老朽化?」
「はい。昨今お年寄りの孤独死が問題になっていますが、人は年を取るにしたがって他者との関わりが希薄になってしまうものです。そして孤独になるにつれ思いやりを忘れ、愛情を忘れ、心の忍耐力、免疫力を失ってしまいます」
「はあ、確かにそれは、そうですね」
老人は答えながら、先程の自分と妻のやり取りを思い出した。
「しかしその心とやらは、物質的な影響をもたらすのですか?」
「一概に心と言いますと抽象的に思えますが、人間の喜び、怒りなどといった感情は、神経終末から放出される神経伝達物質が個々の細胞を興奮させ、または抑制させて沸き起こるものです。スポーツ選手なんかは、過度の興奮状態によってアドレナリンという脳神経系の神経伝達物質を出し、怪我や緊張といった不安要素に影響されない身体にする事ができます。今回の場合は逆に、人の心の在り様が身体にマイナスの働きをする事が判明したのです」
「そうだ、その心の老朽化とやらが、どうしてニトロなんとかを爆発させるのです?」
「実は極秘の研究で、新しい神経伝達物質が発見されたのです。まだ正式な名称はありませんが、仮に爆発促進物質とでもしましょうか。この物質は、人間の心に過度の緊張や強い衝動が枯渇した、鬱に近い状態の時に大量発生するのです」
「心の老朽化の時ですね」
「はい。そしてその爆発促進物質は、ニトログリセリン薬内の添加剤エタノール、Dマンニトールを消滅させ、純粋なニトログリセリンに戻してしまう作用があるのです。この状態のニトログリセリンは、少しの衝撃や少しの熱でも爆発を起こす恐れがあります。皮肉にも、実際の爆発を起こす物質が、心の爆発が枯渇した状態に発生するという構図になっているのです」
森は早口だが、比喩や具体例を用いてなるべく分かりやすい説明をしてくれた。老人はひとしきり聞き終え、大きく頷いた。
「成程。それで私が煙草を吸わなかったのが幸いであったというのですね。しかし、これからはニトロなんとかを爆発させないような生活をしなければなりませんなあ」
「そうなのですが、当然普通の生活はできなくなってしまいますから、万一に備えてニトログリセリン対象者には緊急入院を手配しております。宜しければその対象にさせていただきますが、いかがいたしましょうか」
そう問われて、老人はしばし考えた。
もしかしたら、この方法は良いのではないだろうか。今までの自分は、家内から散々邪魔者扱いされてきた。ここで入院すれば、自分の身の安全も保障されるし、家内もせいせいするだろう。
そのまま話に乗りかけたが、ふと老人の頭に疑念がよぎった。
「色々知っているようだが、アナタ新聞社の人間でしょう?記事にでもして、公に伝えたらいいじゃあないですか」
「いえ、それでは逆に社会が混乱してしまいます。昨今の情報媒体は複雑怪奇ですから、無責任なデマが流れないとも限りません。むしろ該当する方々に個別で訪問し、事実を的確に述べた方が安心させられるであろうという考えで、こうして伺っているのですよ」
「言われてみればそうですね。では私がその入院を承諾すれば、後は任せてもよいのですか?」
「はい。入院をご希望でしたら、こちらの書類を書いていただければ、すぐに手配させていただきます」
そう言われて渡された書類に、老人は住所や電話番号、家族構成といった諸々の個人情報を記入した。
「ありがとうございます。それではこちらの準備が整い次第、連絡させていただきます。今日はお邪魔しました」
森は書類を持って、老人の家を後にした。
「やれやれ、何だか大変な事になったなあ」
そう呟きながら老人は煙草を取り出しかけ、先程の話を思い出し慌てて止めた。
「しかしどうしたものか……衝撃を与えない生活って言われてもなあ、転ばないようにするとか、火傷に気を付ければいいのかな」
独り言を繰り返す老人のもとに、再び老婦人が現れた。
「ちょっとアナタ!何よさっきの男は。下らないセールスとか勧誘?もしかしてお金でも渡していないでしょうね」
「違うよ。いいか、落ち着いて聞いてくれ。実は俺、入院する事になった」
「何よそれ。狭心症でも悪化したの?悪化の具合がよく分からないけどもさ」
老人は、先程聞いた話をそのまま妻に伝えた。ところどころ忘れかけたのを何とか補完して、ゆっくりと話し終えた。話している間、妻は何も口出しせず無表情のまま耳を傾けるだけだった。
自分が出ていく喜びを抑えているのか、それともようやく自分に心配を向けてくれたのか、と老人は考えていたが、話し終えた後の妻のリアクションは、そのどれも外れていた。
「アナタはどこまでもうろくしたの?そんなの嘘に決まっているじゃない!」
「何を言うんだ。さっきの新聞社の人が丁寧に説明してくれたんだぞ」
「それを信じ切っているのがもうろくしたって言っているのよ!よく考えなさいよ、おかしな所が沢山あるじゃない!まずそんな重大な話が世間からひたすら隠されているのを疑わないの?そういってごまかしておけば、嘘の一つや二つ簡単につけるじゃない!それに緊急入院の手配を新聞社がしているのも変だわ。どうしてちゃんとした機関の人間じゃないのよ!小難しい知識に簡単に乗せられちゃって、住所だの電話番号まで渡しちゃったってわけ?呆れた!とんだ大間抜けね!振り込め詐欺に引っかかる人より間抜けだわ!大体今までその薬を飲んでおいて今の今まで無事って事が、嘘を証明しているわよ!今に迷惑電話だの詐欺電話だのが来るわ!また私の暮らしの邪魔をするなんて、本当に使えない!」
老婦人は一気にまくしたてた。老人は茫然としてそれらを聞いていた。
老人は先程の森とのやり取りを思い出し、確かに疑わしい所が多々あった事を段々理解した。自分としては事実をちゃんと確認した上で話を聞いていると思い込んでいたが、森の話に圧倒されて疑いが及ばなかった部分もあったかもしれない。
老人の心に、次第に悔しさが沸き起こってきた。しかしそれは森にだけではなく、目の前の妻にも向けられた。
「なんだ、お前だけ正しいような顔をして!元はと言えば、お前がやたら俺に当たり散らして押さえつけるから、心の老朽化だなんて話を信じたんじゃあないか!今まで散々俺の事を放っておいて、こんな時だけ偉そうに!そうまでされちゃあ、ここから出ていった方がお前も楽だと思うだろう!それなのにお前はまた自分の事ばかり優先しやがって!」
老人は、今まで一度もした事がなかった口ごたえをした。言っているうちに、その悔しさは今まで虐げられてきた悔しさに及んでいた。
そのまま老人は戸棚に駆け寄り、ニトログリセリンの瓶を取り出した。
「ちょっとアナタ!何する気よ!」
すかさず老婦人が言った。
「こうなったら、もうお前のもとで生きる気もなくなったよ!これ全部飲んで、爆死してやるんだ!」
「まだそんな事言っているの?ここまで来たらもうろくどころじゃないわ、気でも狂っているわよ!好きにして!」
老婦人は怒って隣の部屋に引っ込んだ。
老人はかまわず、瓶の中の錠剤を一気に口へ放り込んだ。そのまま咀嚼して飲み込むと、ライターに火をつけた。
「くそ、今に見ていろ!俺は死んでやるからな」
そう言いながらライターの火に指を近づけた。
熱さで一瞬指を引っ込めたが、覚悟して再び指を近づけた。
「こんなの前に煙草で火傷したのと同じだ」
そう言い聞かせながら指を近づけたものの、一向に爆発は怒らない。
「指じゃ駄目か」
そう思った老人は、今度は思い切り床に転んでみた。何度身体を叩き付けても、隣の部屋からの「うるさいわよ!」という声しか聞こえない。
「どうなっているんだ、くそ!くそ!」
どう衝撃を加えても爆発は起きず、疲れ果てた老人は、ふと錠剤の瓶を見た。
瓶に書いてある薬の使用法を見ると、「決して噛んだり水で流し込んだりせず、舌の粘膜から摂取してください」と書かれていた。
「さ、さっき飲んだ薬は効果ないって事か?」
次の瞬間、老人に激しい胸の痛みが襲い掛かった。瓶の中には一粒の錠剤も入っていない。
「こ、こんな時に……」
助けを呼ぼうにも声は出ず、呼んだところで妻は来ないだろう。
「これじゃあ、爆死した方が、ま、し、だ……」
老人の声は言葉の体をなさない呻きに変わり、やがて床に倒れ伏した。
翌日の毎朝新聞には、胸の痛みによるショックで死亡した一人の老人の記事が掲載されていた。
その新聞を読みながら、老婦人は込み上げる笑いを押さえきれずにいた。
「これで厄介な夫はお払い箱だし、その保険金も手に入るわ。上手くやってくれたようね、森さん」
その言葉を聞き、老婦人の隣に立っていた青年は一礼して答えた。
「もうその名は用済みですよ」
「フフン、まさか保険金目当ての殺人がこんなに簡単だとは思わなかったわ。アナタへの謝礼も弾ませてもらうわよ」
「ありがとうございます。あの旦那様にまだあれだけの爆発力が残っていた事が幸いしました。昨今の老人は皆心が枯れているのかと思っていましたが、なかなか侮れませんね」
青年の言葉を背に、老婦人は今までの生活で失われていた満面の笑みを浮かべ、保険金の使い道を思索し始めるのだった。