最後の試練
「はは、遂にこの日が来たね。」
ディートは尻の後ろで手をつき、片方だけあぐらをかいてもう片方の足を伸ばして床に座っている。
僕は彼から目を逸らさず、息を整えながら彼に突き出した剣を引いた。
ディートは頭を下げていて表情が見えなかったけれど、僕同様、肩で息をしている。
「おめでとうラスタン。」
俯いたまま、ディートが僕に言祝ぐ。
それを聞いてケンタロスへ振り向けば、ずっと険しさを浮かべていた彼の表情もほころんでいた。
大きく息を吐いて剣を鞘に入れようとした時・・・ディートが口を開いた。
「・・・最後の仕上げといこうか。」
その言葉で全身に緊張が走る。
ディートへゆっくりと足先を向け直し、彼を見つめる。
おもむろに立ち上がった彼は、両腕をぶらつかせながら猫背の姿勢で深呼吸をし始めた。
・・・今までのディートと明らかに様子がおかしい。
よく見ると、茶毛で覆われた彼の耳が・・・どんどん大きくなっている。
口元も突き出てきて、鼻も黒く変色していく。
次第に顔が獣毛で覆われていき、膨張していく体に耐え切れず騎士団の制服が張り裂けた。
留め具が弾けて僕の足元にディートの装着していた胸鎧が転がってくる。
顎を少し上げれば見えたディートの顔は、今では見上げるほどの高さにあった。
人型じゃない・・・巨大な熊に獣化したディート・・・。
「・・・おい、どういうつもりだ。」
組んでいた腕をほどいてケンタロスが1歩前に出る。
ケンタロスの言葉にディートは耳を傾ける事はしなかった。
僕は唾を飲み込み、ふらふらと後退する。
だって・・・だって、こんな話っ、聞いてない・・・!
ディートはその場から動かず、静かに口を開いた。
「いいかいラスタン・・・君はまだ一般市民だ。
僕が君にザルドの詳細を話せば、君は機密情報を知る事になる・・・それも国の一部でしか知り得ない情報をね。
そしてそれを知れば、勿論君には協力してもらわなければいけない事が山ほどある。」
突然話をやめて、ディートが僕へ右腕を振りかざす。
彼が後肢を2歩も踏み出せば、間合いを取っていた距離は一瞬で無くなり・・・僕の指の長さ程ある黒い鋭爪が僕の体目掛けて振り下ろされる。
それは僕に当たる事無く、床の石板を抉った。
・・・抉ったんだ、石板に穴が出来る程の力で。
咄嗟に左へ避けた僕はすぐにディートから離れる。
「君が今まで戦ってきた魔獣達とは比べ物にならない程、強大な力をもった奴等と戦わなくちゃいけなくなる。
だから・・・君には、力を少しでもつけて欲しかった。」
剣を構える僕の瞳を真っ直ぐ見つめるディート。
「・・・それでも、人は獣族にはどうしても劣ってしまう。」
四肢を床につけてディートが突進してきた。
焦って彼の視界から走って逃げるも、すぐさま軌道修正してくるから避けきれない・・・!
ディートの巨躯が僕にぶつかり、宙に浮いた僕の体は腰から地面に落ちた。
頭も打ったせいか、世界がぐるぐる回ってる・・・起き上がるのに時間がかかってしまった。
その隙を見逃す筈もなく、獣化したままディートが僕の片足を掴む。
勢い良く体が浮き上がり、そのまま思い切り床に叩きつけられて背部に激痛が走った。
剣が石板に落ちる音とケンタロスの怒号が、遠くで聞こえる。
「ラスタンッ・・・おいディート、ふざけるのもいい加減にしろ!」
倒れたまま体を動かせず、呻きながら目の前にあるディートの後ろ足を見つめる事しか出来なかった。
「これからは魔獣だけでなく、僕みたいな奴等とも戦わなければいけない・・・勿論紫の瞳を持った獣族とも、ね。
遅かれ早かれ・・・その日は必ず来る。
その時、君は道を違えた者を殺せるか?」
髪の毛を強く引っ張られ、ディートの吐息を顔に感じた。
でもっ・・・痛みで目を開ける事が出来ない・・・!
「君もだケンタロス。
ラスタンと共に歩むならば、これ位の覚悟は持っておいた方がいい。」
「当たり前だ、ラスタンを守る為ならばこの命、悪魔にでもくれてやる!」
蹄の駆ける音が近付き、ケンタロスの斧とおそらくディートの爪が交わる音が何回も聞こえた。
ディートの動きに僕の体もぶらぶらと動く。
しばらくすると音は聞こえなくなり、辺りは静寂に包まれる。
「卑怯な・・・!」
「言っただろう、殺すつもりはない。
人を守るというならば、君もこの試練を乗り越えろ。」
首に何かが当たっている。
おそらくはディートの爪で、ケンタロスが手を出せないようにしているのだろう。
それが離れた瞬間、木の枝が折れるような音と共に右足にさっきとは比べ物にならない痛みが走る。
「うあぁあぁぁッッ!!」
「ラスタン!」
床に放り投げられると同時にケンタロスが駆け寄る。
背中も丸める事が出来ず、何が起こったのか確認する事が出来ない。
ケンタロスに抱きかかえられて自分の右足を見た時、ディートに深く噛まれたのだとやっと認識した。
傷口からは血が止まることなく流れ出ていて・・・歯を食いしばって我慢していても、無意識に体に力が入って力んだ声が喉から出てしまう。
「紫に取り込まれた者は、君達を殺す気でかかってくる。
ひとりきりの状況では今の様に成す術も無いぞ。
出来るだけ、今以上に強くなる事が条件だ・・・分かったかい?」
霞んだ視界の中、ディートが人型へ戻りながら僕を見つめている。
息絶え絶えに力無く頷くと、彼はこちらへ歩いてきた。
「触るな!」
「・・・触らせてくれないと治療が出来ないよ。
ラスタン、僕からのテストはこれで終わりだ、よく頑張ったな。」
足の痛みがゆっくりと消えてゆく。
顔全体にかいていた脂汗も止まり、呼吸もやっと普通に出来るようになった。
「それにしてもケンタロス・・・君の覚悟は相当なものだね。
・・・けど、冷静に物事を見極める力をもっとつけた方がいい。」
「・・・すまなかった、信じる事が出来なくて。」
「いいんだよ、まだそんなに長い付き合いでもない・・・けど、これからは宜しく頼むよ。」
無事にふたりも和解し、握手を交わす。
回復魔法を僕に施しながらディートが咳払いをする。
「あー・・・聞いていいのか分からないけど、君達はそういう・・・?」
「違います。」
僕の即答にディートが噴出すも、構わずケンタロスは口を開く。
「ラスタンの思いがどうあれ、俺はこの身朽ち果てるまでこいつを守り抜く。」
「そうだな、もしかしたらそれがきっかけでラスタンの気持ちが・・・。」
「動きません。」
ディートの顔が咄嗟に下を向く。
肩を揺らして手で口を押さえるのに集中力を削がれているせいか、回復魔法の効力が弱まる。
「疲れただろう、少し眠るといい・・・救護室まで案内するよ。」
背中の痛みも取れたけれど、精神的なものは治療出来ないようだ。
ディートに連れられ3階の救護室で僕は仮眠をとる事にした。
「目が覚めたら改めて話をしよう。」
そう言い残してディートはケンタロスを連れて仕切りのカーテンを閉めた。
部屋の天井を眺めながら瞼を閉じる前に、獣化したディートが言っていた言葉を思い返す。
・・・人と戦う時が来る。
本能のままに生きる魔獣と違い、意思を持った人が。
純粋な人間の血を引く僕は、獣化した獣族には絶対に適わないんだ。
人間の力には限界がある事は分かっている・・・そしてその限界を簡単に超える力を持つ獣族が存在する事も身に染みて分かっているし、それを身をもってディートが教えてくれた。
そんな者が僕と相対する時・・・僕は打ち勝つ事が出来るんだろうか。
そして人を殺める事が・・・こんな僕に、出来るのだろうか。