異空間
頬を叩かれて飛び起きたのは朝日すらもまだ顔を出してない時刻で、天窓の景色はそこにいた人物の髪と同じ色をしていた。
頬に思わず手を当てながら、馬乗りになっていたリスタンを睨みつける。
「・・・お前何やってんだよ。」
「兄貴こそ何やってんだよ。
呑気に日が昇ってから出るつもりだったの?」
くっつきそうな位の顔と顔がやっと離れ、頬をさすりながら僕は立ち上がる。
机に立ててある鏡を見ると少し赤くなっていた。
「外にパク、準備してあるからさ。」
リスタンが荷物の詰まったリュックを僕の前に下ろし、鏡の隣にあったチョーカーを手に取ると僕の後ろへ回り込む。
「つけたげるよ、後ろ向いて。」
あどけない笑顔を見せて、僕の両肩を掴みぐるりと回す。
・・・これ位自分で着けれるのに。
「良かったじゃんか、親父と一緒で。」
皮肉にも聞こえるような言葉を吐きながらも、優しく着けてくれた。
ベルトを着ける時に冷たい指が肌に触れて、少しくすぐったかった。
僕の前に回り、水晶部分を首の中央に寄せたリスタンは満足げに笑う。
どうやら自分の納得いく着け方が出来たみたいだ。
本当におせっかいだなぁと思いながら目の前のこいつを見ていると、不意に視線が下がる。
「あ~あ・・・俺も一緒に行きたかった。」
「お前は学校があるだろ?
それに母さんを一人にさせないでよ、かわいそうでしょ。」
床に置かれたリュックの肩紐を手に持ち、僕は部屋を出てそのまま短い廊下へと踏み出した。
すぐ後からリスタンも見送りについてくる。
同じ階にある母さんの部屋に響かない様に、足音を消して階段を下りた。
綺麗に片付いたリビングを目に焼き付けるように見回し、昨夜の事を思い出す。
ここに帰ってこれるのは、いつになるかな・・・なるべく早く帰りたい。
静かに玄関のドアを開け外に出ると、広がった庭に一羽、パクが突っ立っていた。
庭と言っても、森の中で木を切り倒して出来たものなので、そこら中に切り株が威勢良く飛び出している。
このログハウスを作ったのは父さんだけれど、何故人目を避けてこんな森の中に家を建てたのか分からない。
僕より高い、リスタンより頭1個分高いパクは我が家の唯一の移動手段だ。
飛べない鳥類だけれど、その分走るのが速い。
アヒルの様な丸い嘴に退化してしまった小さな翼と、頭に生えている空に伸びるような鶏冠のような羽が特徴的だ。
毛艶は茶色く、視点を変えれば青緑色に光る事もあり、足は太く長く、走りに特化している。
パクの細長い首を掴んで背に飛び乗った。
リスタンお手製の革鞍にお尻をどっしりついて、手綱をしっかり握る。
僕が合図を出すまでは、パクもそこを動かない。
リスタンが僕のリュックを鞍の後ろに巻きつけ、少しばかり距離を取った。
「早目に帰ってきてよ、俺も寂しいから。」
「なるべくそうする・・・ありがとう、リスタン」
馬を動かすのと同じように足でパクの脇腹を軽く蹴ると、速足で森へ吸い込まれるように歩き出した。
1回だけ振り向いてリスタンに手を振る。
目が良い方じゃないけど、リスタンも胸元で小さく手を振っていたのが見えた。
それも次第に肉眼では見えなくなっていくのが・・・少し、寂しく感じた。
視線を前へ戻せば、見慣れた森の景色が広がる。
家からパスルタチアまでは、今からだと丁度昼位には到着できるだろう。
雑草が避けられ、土が丸見えになっている道をまっすぐ行けば、何て事はない道のり。
何しろ僕はパクに乗っているだけだから、180度変わらない木々の景色を見ながらのんびりしてればいいだけだし。
森を一回抜けると、切り拓かれた村ミルディヴがある。
人間しか住んでいないこの村へ僕は学校で通ったり、簡単な買い物などはここで済ませていた。
時間のせいか、誰一人まだ外にはおらず静まり返っていて、パクの足音がミルディヴの村中をそのまま通過していく。
村の外れまで来ると、また森が大口をあけて僕達を呑み込んで、さっきと変わらない景色が僕の視界に広がっていった。
・・・早く起こされたせいで少し眠い。
パクの背中で揺さぶられながら、僕はうとうとしていた。
次第に瞼が下がっていき・・・はっとして瞳を見開く。
パクが、立ち止まっていた。
どうしたのかと思い足元を見ると、道がそこで途切れていた。
露になった黄色い土道が続いている筈なのに、僕のひざ辺りまで長い草々が生い茂っている。
・・・おかしい。
道を間違えたかと思ったけれど、思い直せばパスルタチアに通じるのはこの一本道だけ。
不審に思った僕はパクから降りて辺りを探り始めた。
手綱を持ちながらなので、怖気ながらもパクはついてくる。
膝や腿に纏わり付いてくる草を払いのける音と、僕が出す足音、パクに擦れる草の音、パクの足音。
それだけしか聞こえなくなっていた。
虫の飛び回る音、鳥の囀る声・・・そういったものが全く無かった事に僕は気付かなかった。
やっぱりどこもかしも木、草、花。
おかしな所は何も見当たらない・・・道が消えた事以外は。
ふと左方に目をやると、木々と草むらの奥で光るものがあった。
人が丸々入れそうな、その光る大きな穴のようなものに僕は少しずつ近づいていく。
何故か脳裏に過ぎったものがあった。
つい最近ミルディヴの村で聞いた、森の中で見かけたという獣の噂。
人間だけが暮らすこの小さな島に、当たり前だけどそんなものは存在していない。
鹿やうさぎ位は居るけど、獣となればこの小さな島では大事になる。
村をあげて捜索も行われた・・・でも、獣は見つからなかったんだ。
・・・この穴の向こうからやってきたのだとしたら。
そう思うと冷や汗が出てきた。
光を遮る物がなくなった距離で、僕はそれをまじまじと見つめる。
中に入ればどこか違う場所へ繋がっていそうで・・・何故か鼓動が高鳴り、そこへ入りたくなった。
いつもの僕ならそんなものには警戒して近寄らない筈なのに。
パクの手綱を離し、その中へ入ろうと足を進めたその時・・・首に冷たい物が当たった。
「光の道へ入ったら、あんたを殺すわよ。」
突き付けられていたのは、護身用か何かの小さいダガー。
透明な緑を放つ刃の持ち主であろう右手が、視界の右下に見えた。
色白でつやつやしたような手から想像するに、今背後にいる人物は女の人に違いない。
「そこはあんたが入るような場所じゃないの。」
冷たい刃物が僕の首から離れると同時に女が僕を飛び越え、目の前へ着地した。
一瞬の出来事で、何も成す術が無くて・・・ダガーの刃先は再度僕の鼻に突きつけられていた。
「下がって。」
対峙した女の子は、ブロンドよりも優しい、クリームがかった髪を胸まで伸ばしていた。
横髪から何かが垣間見えていたが、それが耳と分かるまでに時間がかかった。
威嚇するように眉をひそめている、そのすぐ下の水瞳・・・母さんと全く同じ色だ。
その水瞳の中に、何が起こっているのか分からない困惑した僕の顔が映っている。
一歩一歩下がりながら、女の子を観察する。
タートルネックの濃紫色のノースリーブに、ズボンは麻か何かで出来た、動きやすそうな服装。
こげ茶のブーツが一歩一歩後退する僕と同じようにこちらへ進む。
ミルディヴの人間ではない事は一目で理解した。
何よりこの女の子、僕と同じ人間じゃない。
肌があまりにも白く、まるで生まれつき体が弱い子のように見えてもおかしくない。
それにこの尖った長い耳・・・。
自分の立場を全く理解していないように、僕は冷静に彼女を分析していた。