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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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ラクトダム王国戦記 ~ある銃兵の狙撃~

作者: 塩野さち
掲載日:2026/10/07

 前の人生で最後に聞いたのは、鐘の音ではなかった。


 俺が潜んでいた教会の鐘楼に、砲弾が飛び込んできた音だ。

 冬の欧州戦線。割れた窓。指先の感覚を奪う寒さ。頬に触れる銃床だけが、妙にはっきりしていた。次の瞬間、石と鉄と木が一緒になって押し寄せ、俺の戦争は終わった。


 それから、俺は赤子になった。


 暖かい腕に抱かれ、知らない言葉であやされながら、どういうことだと考えていた。考えることはできても、口から出るのは泣き声だけだった。腹が減っても泣いた。眠くても泣いた。狙撃手の経験は、おむつを替えてもらう役には立たなかった。


 新しい名前は、マクシム。

 父は樽職人で、母は父より交渉のうまい人だった。俺は二人の息子として、ラクトダム王国の川沿いの町で育った。


 四歳の春、広場で近衛兵の閲兵式を見た。


 青い上衣。磨かれた真鍮の釦(ぼたん)。肩に担がれた長い銃。

 号令とともに銃口が空へ向き、乾いた音が重なった。白い煙が広場を流れ、隣の子供が耳を塞いだ。俺は火薬の匂いを吸い込んで、兵士たちを見つめていた。


「この世界にも、銃がある。戦いもある。そして文明がある!」


 声には出さなかった。四歳の子供が言えば、母は医者を呼んだだろう。

 だが、そう気づいたとき、俺、マクシムはひどく安心したのを覚えている。


 それまでにもパン屋はあったし、時計も、印刷された新聞もあった。文明があることくらい、分かっていたはずだ。それでも、あの銃声を聞いた瞬間、ばらばらだった景色が俺の知っている形につながった。

 この世界で、自分の手足をどこに置けばいいのか。それが初めて分かった気がした。


 十八で徴兵されたとき、母は泣いた。父は黙って俺の軍靴を磨いた。

 俺は二人に、生きて帰ると約束した。


     *


 二十歳になった俺は、北の国境で、その約束を思い出していた。


「マクシム! 頭を引っ込めろ!」


 曹長の声と同時に、石垣の縁が弾けた。欠片が襟の中へ入り、首筋を引っかいた。

 俺は銃を抱えて伏せた。隣の若い銃兵も伏せたが、背嚢(はいのう)だけが石垣から突き出ている。肩紐をつかんで引き下ろすと、さっきまで背嚢のあった場所を鉛玉が抜けた。


「背中が惜しけりゃ、もう少し小さくなれ」

「これ以上は無理です」

「なら、土になれ」


 若い銃兵は本気で顔を地面に押しつけた。


 河を渡る石橋。その西詰にある村を、俺たち第二中隊は守っていた。

 橋の東には帝国軍がいる。夜明けから三度、橋を越えてきた。三度とも押し返したが、こちらの石垣は低くなり、負傷兵は増え、返事をする声は減っていた。


 中隊付きの小砲は、二度目の攻撃で車輪を砕かれた。後方から来るはずの砲兵隊は、昨夜の雨で道に足を取られている。

 次の攻撃までに間に合うかどうか。

 曹長は、その話をもうしなかった。


 風が煙を払い、対岸が見えた。


 東詰の奥で、赤い軍服の列が組み直されている。さっきまでばらばらに走っていた伝令が、一頭の黒い馬の周りへ集まっていた。

 騎手の肩で、金色の飾りが光る。その後ろには、帝国の将旗。


 俺は目を細めた。


 将軍だ。


 馬上の男が橋を指した。近くの将校がうなずき、駆けていく。右手を挙げれば、散っていた兵が止まる。腕を振れば、旗が動く。

 この攻撃を動かしている男が、そこにいた。


 石垣からでは、その胸元まで見えない。東詰(ひがしづめ)の欄干(らんかん)と、手前の兵の頭が邪魔をしていた。


 俺は背後を振り返った。

 村の北端に、水車小屋がある。屋根の半分はなくなっているが、河に面した二階の壁は残っていた。


「曹長。あそこへ行きます」

「水車小屋?」

「敵の将軍が出てきました。ここからじゃ届かせられません」


 曹長は石垣に背をつけたまま、俺の顔を見た。

 次いで、俺の長銃へ目を落とした。


 銃身の上には細い照準鏡が載っている。工廠から連隊へ届いた、数少ない新型の銃だった。射撃場で誰よりも弾を的へまとめた結果、俺のところへ回ってきた。

 最初から思いどおりに扱えたわけではない。この体の腕は、昔の腕とは長さが違った。銃の癖も違う。何度も撃ち、何度も肩を腫らして、ようやく自分の銃にした。


「撃てるのか」

「見えれば」

「外したら?」

「帰ってきて、ここを守ります」


 曹長の口の端が上がった。


「当てたら、俺の晩飯のソーセージをやる」

「二本」

「一本だ。俺も生きて帰るつもりなんでな」


 俺はうなずき、銃を抱えて石垣を離れた。


 村の中は、朝とは別の場所になっていた。

 パン屋の看板が道に落ちている。割れた窓から、焼けた布の匂いが流れていた。井戸の脇で衛生兵が誰かの脚を縛っている。俺が走っていくと、その兵は顔を上げずに片手だけ振った。


 路地を抜け、水車小屋へ飛び込んだ。


 粉挽(こなひ)きはもう止まっていた。大きな歯車の歯が折れ、床には小麦粉と煉瓦の粉が積もっている。奥の階段は途中で傾いていたが、足を掛ける板は残っていた。

 俺は銃を肩に掛け、手すりをつかんで二階へ上がった。


 河が見えた。

 石橋が見えた。

 黒い馬も、見えた。


 将軍はまだ橋へ出ていない。伝令の一人が馬を寄せ、何か報告している。将軍が顔を背けた。怒鳴ったらしい。伝令の肩が縮んだ。


 俺は窓の下へ身を寄せ、銃を構えた。


 細い鏡の中に、金色の肩飾りが入る。

 その直後、赤い軍服の兵が前を横切った。


 指を止めた。


 今じゃない。


 遠くで砲が鳴った。

 俺が身を引くより早く、窓の右側が白く弾けた。


 肩を殴られたような衝撃。耳の奥に突き刺さる音。銃を胸へ引き寄せた俺の上を、煉瓦(れんが)が飛んだ。窓際の床が沈み、体が傾いた。

 足の下がなくなった。


 俺は一階へ落ちた。


 粉の袋を突き破り、背中から床へ叩きつけられた。息が出ていったきり、戻ってこない。

 頭のすぐ横へ梁が落ちた。


 白い粉塵。

 石の転がる音。

 崩れた天井。


 冬の鐘楼が、目の前に重なった。


 またか。


 喉が縮んだ。右手が銃を握ったまま動かない。生まれ直して、二十年生きて、また同じように瓦礫の下で終わるのか。


 近くで梁が軋んだ。


 俺は床を蹴った。

 半ば転がるように離れたところへ、上階の残りが落ちてきた。粉の袋が潰れ、中身を噴き上げた。


 咳が出た。続けて、息が入った。

 胸が痛い。左肩も痛い。ひどく痛い。


 俺は、まだ生きていた。


 銃を確かめた。木の銃床に新しい傷がある。照準鏡の外側は白い粉にまみれていたが、袖で拭うと向こうが見えた。

 握り直した右手は、もう動いた。


 外で太鼓が鳴った。


 ゆっくりとした響きが、やがて一つの足音になった。大勢の靴底が石を踏む。金具が鳴る。号令が河の上を渡ってくる。


 四度目だ。


 俺は河に面した壁へ這った。

 崩れた壁の下に、外の見える隙間があった。二階の窓より低い。欄干も、人の体も、さっきより邪魔になる。


 赤い軍服が橋へ流れ込んでいく。

 将旗が揺れた。

 そのすぐ横を、黒い馬が進んでいた。


 将軍自身が、橋に乗り出してきたのだ。


 こちらの砲が潰れたことは、向こうも知っている。三度防いだ銃声が弱くなっていることも。あと一押しで橋は取れる。兵の尻を叩きに来たのだろう。


 俺は煉瓦の隙間へ銃を出した。

 左肩が震えた。痛みで、銃口が落ちる。

 崩れた梁へ肘を預けた。ざらついた木が袖越しに食い込み、ようやく鏡の中が静かになった。


 見えるのは、羽飾り。馬の耳。旗手の背中。

 将軍の顔がちらりと出て、すぐに隠れた。


 石垣の方で、こちらの銃が一斉に鳴った。

 橋の先頭が乱れる。倒れた兵を後ろの兵が避けた。将軍の前にいた将校が、馬を脇へ寄せた。


 金色の肩飾りが見えた。


 将軍は剣を抜いた。

 刀身に薄い陽が走る。高く掲げた剣を、こちらの岸へ向けて振り下ろそうとした。


 あの剣が下がれば、兵が来る。

 曹長のところへ。土に顔を押しつけていた若い銃兵のところへ。脚を縛られていた兵のところへ。


 俺の頬に、銃床が触れていた。


 寒くはなかった。

 石の下に潰れてもいなかった。

 ここにいて、銃を持っている。


 鏡の中で、将軍の胸元が開いた。


 俺は引き金を引いた。


 銃が吠えた。


 肩の痛みが白く爆ぜ、隙間を煙が塞いだ。

 俺は銃を引き戻した。煙が薄れるのを待ち、その切れ目へもう一度、照準鏡を向けた。


 剣が落ちていた。


 黒い馬が首を振る。鞍の上には誰もいない。

 赤い軍服の男が橋の石に横たわり、片腕を河の方へ投げ出していた。胸元には、さっきまでなかった黒い穴がある。

 そばの将校が馬から降りた。男の肩を起こしかけ、そこで止まった。


 俺は銃を抱え直した。


「一本、もらうぞ」


 声は掠(かす)れていた。


 橋の上では、まだ太鼓が鳴っていた。

 だが、兵の足が揃わなくなっていた。


 先頭は進もうとする。将旗のそばは止まる。後ろの兵が前の兵にぶつかる。誰かが道を空けろと怒鳴り、別の誰かが将軍を呼んだ。

 旗手が旗を傾け、倒れた男を覗き込んだ。その旗を見た後続の一団が、橋へ入るのをためらった。


 その間にも、西詰(にしづめ)から銃声が重なった。


 村の奥で、馬のいななきがした。

 車輪が石畳を噛む。怒鳴り声。鞭の音。

 俺は壁の隙間から離れ、戸口へ這っていった。


 青い上衣の砲兵が、村の坂を駆け下りてくるところだった。

 泥まみれの車輪。その後ろに、もう一門。


 間に合った。


 俺が水車小屋から転がり出ると、砲兵の一人がこちらを見た。粉まみれの顔と、抱えた銃と、崩れた建物を見比べる。


「生きてるのか!」

「生きてる! 橋を見ろ!」


 男は橋へ目を向けた。その表情が変わった。


 俺は戸口の脇へ身を寄せた。もう走る力はなかった。

 砲兵たちが村の広場で動き回るのを、銃を抱いたまま見ていた。


 やがて、腹の底を叩く音がした。


 一門目。

 続けて、二門目。


 橋の向こうで、帝国軍の列が大きく乱れた。

 将軍のそばにいた将校が立ち上がり、腕を振り回した。太鼓の調子が変わる。旗が東へ引かれていく。

 橋に詰まっていた赤い軍服が、押し合いながら戻り始めた。


 西詰から、曹長の怒鳴り声が上がった。


「逃がすな! 撃てる奴は撃て!」


 返事の声が重なった。

 朝から聞いたどの返事よりも、大きかった。


     *


 日が傾くころ、俺は井戸のそばで左腕を吊られていた。


 骨は折れていない、と衛生兵は言った。それから俺の顔を拭き、何で小麦粉をかぶっているんだと聞いた。

 俺は、パン屋へ行き損ねたと答えた。

 衛生兵は笑わず、傷に酒を注いだ。


 曹長が来たのは、その直後だった。

 手に小さな鍋を持っている。


「敵将の死体が見つかった」


 橋を渡った偵察兵が、東詰に置き去りにされた荷車から見つけたという。胸の勲章も、将官の証書も、そのままだった。

 銃創は一つ。


「中隊長がお前を捜してる」

「立てるようになったら行きます」

「今は飯を食えと言ってある」


 曹長は俺の隣へ腰を下ろし、俺の膝に鍋を載せた。

 薄い豆の煮込みに、ソーセージが二本浮いていた。


「一本じゃなかったんですか」

「もう一本は、あの若造からだ。背中を助けてもらった礼だとよ」


 石垣の方を見ると、若い銃兵が毛布を運んでいた。俺に気づき、空いた片手を大きく振る。その背中は無事だった。


 俺は右手で匙を取った。

 豆は少し煮崩れていた。塩が足りない。ソーセージの皮は、やたらと固い。

 噛み切ると、温かい脂が口の中へ広がった。


「うまいか」

「うまいです」


 曹長は満足そうにうなずいた。


 河の向こうには、まだ敵がいる。

 明日も軍靴を履くし、銃を持つ。俺は相変わらず、ラクトダム王国の一銃兵だ。


 だが、今日は橋を守った。

 敵将を一発で仕留めた。

 そして今、ソーセージを二本も食っている。


 俺は膝の鍋から、もう一口、豆をすくった。


 生きて帰る約束は、まだ俺のものだった。


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