突然ですが、聖女を辞めさせて頂きますね
実験作です。書き方についても試行錯誤中です。
連載版を始めました。詳しくは後書きにて。
「リリー・アーヴェント。君との婚約を、本日をもって破棄する」
王宮で開かれた夜会の最中、王太子アルベルトは大勢の貴族が見守る前でそう言い放った。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか?」
「分かっているだろう。君は聖女という立場に胡坐をかき、あまりにも傲慢になりすぎた」
「……私が、傲慢ですか?」
「ああ。自覚すらないのか」
アルベルトは呆れたように眉を寄せた。その言葉に、リリーは返事をせず彼を見つめる。
リリーが聖女として認定されたのは十歳の頃だった。それから十年、彼女は人生の半分を聖女として生きてきた。魔物によって穢れた土地の浄化、王都を覆う大結界の維持、疫病が発生した地域での治癒活動、怪我人の治療、災害に見舞われた土地での祈祷。時には馬車に何日も揺られて地方へ赴き、到着したその日から休むことなく働いたこともある。
朝から晩まで神殿に籠もることなど珍しくなかった。深夜に呼び出されることもあれば、数か月前から楽しみにしていた休日が前日に取り消されることもあった。それでもリリーは、これまでほとんど不満を口にしたことがない。自分が一日頑張れば、それだけ多くの人を救える。自分が少し我慢すれば、誰かが家族のもとへ帰れる。そう思えば、多少の無理くらいは耐えられた。
しかし、そんな日々があまりにも長く続いたせいなのだろう。いつの間にか、人々にとってリリーが働くことは「善意」ではなく「当然」になっていた。
「先月の建国祭でも、君は途中で席を立ったそうだな」
突然話を戻され、リリーはアルベルトへ視線を向ける。
「西部で魔物による被害が発生したため、治療の要請がありましたので」
「言い訳をするな。王太子妃となる女性ならば、社交も重要な役目だ」
「……はい」
「それだけではない。先日の茶会も欠席したそうじゃないか」
「あの日は王都南部の結界に異常がありました」
「また聖女の仕事か。君はいつもそればかりだ」
アルベルトは心底呆れたようにため息をついた。
リリーは一瞬、何を言われているのか理解できなかった。なぜなら、王都南部の結界に異常があると報告を受けた際、修復へ向かうよう命じたのはアルベルト本人だったからだ。茶会と時間が重なると伝えたところ、「結界の方が重要に決まっているだろう」と言ったのも彼である。
命じられた仕事をした結果、今度は茶会を欠席したことを責められている。さすがのリリーも、これには何と答えればいいのか分からなかった。
「君には王太子妃となる自覚が足りない」
「……そうですか」
「ああ。それに比べて、セシリアは違う」
名前を呼ばれたセシリアが恥ずかしそうに頬を染め、アルベルトの腕へそっと触れた。
「セシリアはいつも私を支えてくれる。私の話にも耳を傾け、忙しい時には気遣ってくれる。君のように仕事を理由に私を蔑ろにしたりしない」
「殿下、わたくしはそんな……」
「謙遜する必要はない。君がどれほど優しい女性なのか、私はよく知っている」
二人が見つめ合う。その距離は、どう見ても単なる友人のものではなかった。周囲から小さなどよめきが起こり、何人かの貴族令嬢が気まずそうに目を逸らしている。
リリーは黙ってその光景を眺めていた。腹が立たなかったわけではない。悲しくなかったわけでもない。十二歳でアルベルトの婚約者となって以来、いつか王太子妃となった時に彼を支えられるよう、必死に努力してきた。礼儀作法だけでなく、政治、歴史、法律、外交を学び、外国語も三つ身につけた。聖女としてどれほど忙しくても、王太子妃教育だけは疎かにしなかった。
その努力を、彼は一度でも見てくれていたのだろうか。
そう考えたところで、不思議と涙は出てこなかった。
きっと、もう疲れてしまったのだ。
「分かりました」
リリーが静かに答えると、アルベルトが眉を上げる。
「……何?」
「婚約破棄、承知いたしました」
「随分とあっさりしているな」
「殿下がお望みなのでしょう?」
「もちろんだ。私には君よりセシリアの方が相応しい」
「でしたら、問題ありません」
リリーは静かに頭を下げた。あまりにも素直に受け入れたからだろう。アルベルトは拍子抜けしたような顔をしている。もしかすると彼は、リリーが泣いて縋るとでも思っていたのかもしれない。
しかしリリーの頭に浮かんでいたのは、まったく別のことだった。
「ああ、そうでした。一つだけ確認してもよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「私は今この瞬間をもって、アルベルト殿下の婚約者ではなくなる。それで間違いありませんね?」
「当然だ」
「つまり、将来王家へ嫁ぐ予定もなくなった、と」
「ああ。何度言わせるつもりだ」
苛立った様子で答えるアルベルトとは対照的に、リリーの表情は少しずつ明るくなっていった。
十二歳で婚約してから八年間。王太子妃となるからには、この国を支えなければならないと思っていた。聖女として国へ尽くすことも、その一環だと思っていたからこそ、どれほど無理な要求をされても受け入れてきた。
けれど、もう王太子妃にはならない。
ならば――。
「安心いたしました」
「……安心?」
「はい。これで心置きなく辞められます」
「辞める?何をだ?」
リリーはドレスの裾を摘むと、これまで何千回と練習してきた王太子妃候補としての完璧な礼をした。そして顔を上げ、晴れやかな笑顔を浮かべる。
「聖女を辞めさせて頂きます」
大広間が静まり返った。
先ほど婚約破棄を宣言された時よりも、さらに深い沈黙だった。誰かが手にしていたグラスを落としたらしく、甲高い音が遠くから聞こえてくる。
「…………は?」
最初に声を出したのはアルベルトだった。
「今、なんと言った?」
「ですから、聖女を辞めます」
「な、何を馬鹿なことを言っている!そんなことが許されるわけがないだろう!」
「どうしてでしょう?」
「どうしてって……君は聖女だぞ!」
「はい」
「ならば国のために働く義務がある!」
「ありませんよ?」
リリーが即答すると、アルベルトの表情が固まった。
「……何?」
「聖女は王家の官職ではありません。聖女の力は神より授けられたものですから、王家には聖女を任命する権利も、奉仕を強制する権利もありません」
「そんな馬鹿な話があるか!」
聖女とは王国によって任命される役職ではない。生まれながらに強い神聖力を持つ者を神殿が認定し、敬称として聖女と呼んでいるに過ぎない。歴代の聖女たちが王国のために力を使ってきたのも、あくまで本人たちが望んだからであり、王家が強制していたわけではなかった。
もっとも、長い年月の中でその事実を忘れてしまった者は多かったらしい。目の前のアルベルトもその一人だった。
「ですが、私は将来王家へ嫁ぐ予定でした。王太子妃となる以上、この国に尽くすべきだと思っていましたので、これまで可能な限り皆様の要望に応えて参りました」
そこでリリーはにっこりと笑う。
「ですが、その必要もなくなりましたので」
「ま、待て!」
背後からアルベルトが何度も名前を呼んでいたが、リリーは振り返らなかった。
王宮の長い廊下を歩きながら、胸いっぱいに息を吸う。どうしてだろう。身体が驚くほど軽かった。十年間背負い続けていた巨大な荷物を、ようやく下ろすことができたような気がした。
そして翌朝、リリーは王宮を去り、生まれ育ったアーヴェント侯爵領へ帰った。
最初に異変が起きたのは、その三日後だった。
王都南部を守っていた結界が消えたのである。
「聖女を呼べ!リリーに今すぐ結界を張り直させろ!」
王宮にアルベルトの怒鳴り声が響き渡る。報告に訪れた役人は額に汗を浮かべながら、恐る恐る答えた。
「それが……リリー様は現在、アーヴェント侯爵領にいらっしゃいます」
「ならば呼び戻せ!」
「既に使者を送りましたが、断られました」
「なぜだ!」
「『私はもう聖女ではありませんので、王都の結界については王家と神殿でご対応ください』と……」
「ふざけるな!」
しかし、いくらアルベルトが怒鳴ったところで、リリーが戻ってくるわけではなかった。それどころか、問題は日を追うごとに増えていった。
五日後には東部の農地で穢れが発生し、七日後には北部で魔物の出現数が増加した。十日後には王都全体を覆っていた大結界まで弱まり始め、地方からは治療や浄化を求める嘆願書が次々と王宮へ届くようになった。
「神官を派遣しろ!」
「既に派遣しております!」
「ならばなぜ解決しない!」
「人手が足りないのです!」
これまでリリー一人が行っていた仕事を神官たちへ振り分けた結果、必要な人数があまりにも多いことが判明した。土地の浄化だけでも三十人規模の神官が必要となり、王都の大結界を維持するためには交代要員を含めて五十人以上が拘束される。さらに地方での治療、魔物被害への対応、災害発生時の祈祷まで加われば、国内すべての神官を集めても到底足りなかった。
「今までリリーはどうしていたんだ!」
「……お一人で」
「一人?」
「はい。ほとんど、すべてを」
アルベルトは言葉を失った。
さらに追い打ちをかけるように、神殿からリリーの活動記録が届けられた。そこには過去一年間だけでも、土地の浄化二百八十七件、治療千四百件以上、結界の維持および修復百十三件と記されている。それ以外にも祈祷、地方遠征、災害支援、神殿での儀式などがあり、すべてを合わせれば到底一人の人間がこなしていたとは思えない量だった。
「これを……全部、リリーが?」
「はい」
「毎年?」
「多少の増減はございますが、おおむね」
「……報酬はいくら払っていた?」
「それが……」
役人たちが気まずそうに顔を見合わせる。
「基本的には、ございません」
「……は?」
「聖女として国へ奉仕することは当然だと、これまで考えられておりましたので……」
その瞬間、アルベルトはようやく理解した。
自分たちは、あまりにも長い間、一人の少女の善意に甘え続けていたのだと。
一方、その頃のリリーはというと――。
「美味しい……」
アーヴェント侯爵邸の庭で、焼きたてのスコーンを頬張っていた。
柔らかな日差しが庭へ降り注ぎ、木々の向こうから小鳥のさえずりが聞こえてくる。目の前のテーブルには紅茶と菓子が並び、急ぎの書類もなければ、出発を急かす役人もいない。いつ誰かに呼び出されるかと怯える必要もなかった。
「お嬢様。本日のご予定はいかがなさいますか?」
侍女に尋ねられ、リリーは少し考えた。
「……ありません」
「はい?」
「今日の予定、何もありません」
「では、いかがなさいます?」
「どうしましょう……」
リリーは真剣に悩んだ後、思わず笑ってしまった。
「何もしないことにします」
生まれて初めてと言っていいほど、何もする必要のない一日だった。午前中は読みたかった本を開き、昼食を食べた後には昼寝をした。夕方になって領地の子どもが転んで怪我をしたと聞いたので、散歩のついでに様子を見に行き、少しだけ治癒の力を使った。
「ありがとう、聖女様!」
元気になった子どもが嬉しそうに笑う。
「もう聖女ではありませんよ」
「じゃあ、リリー様!」
リリーも笑った。
誰かを助けることが嫌だったわけではない。むしろ、人を助けることは今でも好きだった。自分の力で誰かの痛みを取り除き、笑顔にできることは嬉しい。ただ、それを当然だと思われることに疲れていただけなのだ。
そんな穏やかな生活が始まって一か月ほど経った頃、侯爵邸に珍しい客が訪れた。アルベルトだった。
以前より随分とやつれていた。目の下には薄く隈が浮かび、夜会で自信満々に婚約破棄を宣言した時の面影はほとんど残っていない。
「リリー!」
「王太子殿下。ごきげんよう」
「戻ってきてくれ」
挨拶を返す余裕すらないらしい。
「国が大変なんだ。結界の維持だけでも莫大な金がかかっている。神官たちも限界だ。魔物の被害も増えている。だから戻ってきてくれ」
「嫌です」
「なっ……!」
「私、今の生活がとても気に入っていますので」
「国民が苦しんでいるんだぞ!」
「存じております」
「ならば、どうして平然としていられる!」
リリーは傍らのテーブルに置かれていた書類へ手を伸ばした。
「ですから、個人的な依頼は受けていますよ」
そこには各地の領主や神殿から直接届いた依頼書が積まれていた。内容は治療、浄化、結界の修復など、以前行っていた仕事と大きく変わらない。ただし、仕事内容、拘束される日数、必要な移動時間、そして報酬がすべて事前に明記されている。
「もちろん、全部は受けません。体調と予定を確認して、私ができると思ったものだけです」
「それでは国全体を守れないだろう!」
「それは王家のお仕事ではありませんか?」
「何だと……」
「私は十年間、お手伝いしました。もう十分でしょう?」
アルベルトは何も言えなかった。しばらく拳を握り締めていたが、やがて意を決したようにリリーを見る。
「……婚約破棄を撤回する」
「お断りします」
「まだ最後まで言っていない!」
「最後まで聞いても答えは同じです」
「私は間違っていた!君こそ王太子妃に相応しい。だから、もう一度私の婚約者として王宮へ戻ってくれ!」
「殿下」
リリーは静かにアルベルトを見つめた。
かつては、この人の隣に立ちたいと思っていた。彼を支える王太子妃になりたいと願い、そのために何年も努力してきた。けれど、今となってはその気持ちが随分と遠いものに感じられる。
「私が必要なのですか?」
「もちろんだ!」
「それとも、聖女が必要なのですか?」
「それは……」
アルベルトの言葉が止まった。
ほんの数秒の沈黙だったが、リリーにはそれだけで十分だった。
「お帰りください」
「リリー、待ってくれ」
「私はもう、あなたの便利な聖女には戻りません」
数か月後、アルベルト王太子の廃嫡が正式に決定した。聖女との婚約を独断で破棄したこと、その結果として王国へ莫大な損害を与えたこと、そして婚約中からセシリアと不適切な関係にあったことが問題視されたためである。セシリアとの関係も長くは続かなかったらしい。王太子という立場を失ったアルベルトから、彼女はほどなく離れていったという。
リリーの生活は、それからも大きく変わらなかった。朝起きて、好きな時間に朝食を取り、依頼が届けば内容を確認する。助けたいと思えば引き受け、疲れている時には断る。仕事をした分だけ正式な報酬を受け取り、休日には好きな本を読み、家族と食事をし、庭を散歩する。それはあまりにも当たり前で、それなのに聖女だった頃には想像することすらできなかった生活だった。
そして一年後、神殿から一通の手紙が届いた。
そこには、もう一度正式に聖女として活動してほしいと書かれていた。リリーはすぐには返事を書かなかった。聖女という立場そのものが嫌いだったわけではない。人を助けることも嫌いではない。自分の力によって誰かが救われることは、今でも嬉しいと思っている。
だからこそ、今度は自分を犠牲にしない形で続けたいと思った。
リリーは新しい便箋を取り出した。
リリーは手紙を読み終えると、新しく用意された契約書を手に取った。今度は命令されたからではない。王太子妃になるためでもなければ、聖女なのだから当然だと言われたからでもない。
自分がそうしたいと思ったから。
ただ、それだけだった。
「では、もう一度くらい頑張ってみましょうか」
リリーは契約書へ自分の名前を書き込むと、満足そうにペンを置いた。
「ただし、聖女だからって、何でも言うことを聞くと思わないでくださいね?」
別作品ですが連載を始めました! かなり気合いを入れて書いてます。(代表作にも設定しました)
『一度は私を捨てたくせに、今さら口説き直すおつもりですか?』
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