和平
魔王城の玉座の間は、思っていたよりも質素だった。
黒い石の床。高い天井。壁面に並ぶのは武具ではなく、年代を感じさせる書棚だった。玉座と呼ぶには簡素な椅子の上に、オスヴァルト・ドゥンケルが座っている。
レティシアの背後には、カイ、エステル、リーナが立っていた。勇者パーティの最終決戦――のはず、だった。
しかしレティシアが取り出したのは、剣ではなかった。
革紐で縛られた羊皮紙の束。一晩かけて書き上げた条約草案。
「オスヴァルト殿。これを」
玉座の間に、羊皮紙が広げられる音が響いた。オスヴァルトは受け取り、最初の一行に目を落とした。
赤い瞳が、一行ずつ、文字を追っていく。
レティシアは待った。心臓が、信じられないほどうるさかった。
条約の構成。第一条、人間側と魔族側の領土確定。第二条、貿易路の開設と関税に関する取り決め。第三条、相互不侵略条約。第四条、学術・文化交流に関する協定。第五条――勇者・魔王制度の凍結。
数百年続いたサイクルを止める。それがこの条約の核心だった。添付資料として、リーナが解読した古代共存条約の全文訳が付されている。歴史的根拠。人間と魔族はかつて共存していた。この条約は「前例のない暴挙」ではなく「歴史の復元」である。
そしてもう一つの添付資料。レティシアが着任以来つけ続けてきた全記録の抜粋。戦闘被害の統計、兵站コスト、和平移行時の費用対効果分析。すべての数字が、和平が国益にかなうことを証明していた。
オスヴァルトは最後のページまで読み終え、顔を上げた。
その表情が動いた。初めて。レティシアがこの男の顔に感情を明確に読み取ったのは、これが初めてだった。赤い瞳がわずかに見開かれ、それから――ゆっくりと閉じられた。
「……これを、王国が承認するのか」
「まだです」
レティシアの声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「ですが、承認させます。そのための根拠は、着任以来の記録にすべて残してあります」
オスヴァルトの赤い瞳が、レティシアを見つめた。長い、長い視線だった。この女がどれだけの労力をかけてこの文書を作ったのか。どれだけのリスクを背負ってこの場に立っているのか。為政者として、オスヴァルトにはそれが分かった。
「……お前は、面白い人間だな」
「前にも同じことを言われた気がしますが」
「言った。今日は意味が違う」
沈黙の後、カイが手を挙げた。
「あ、じゃあ俺戦わなくていいの? やった」
レティシアは一瞬脱力しかけたが、踏みとどまった。エステルが一歩前に出た。
「……これまでの献金は無駄になりませんわよね?」
その声にはわずかな不安があった。エステルの人生そのものだった献金と修行。聖女としての力。それが平和な世界で不要になるとしたら、自分は何者になるのか。
レティシアは振り返り、エステルの目を真っ直ぐに見た。
「聖女様の能力は和平後の復興事業で不可欠です。戦闘で荒れた土地の浄化、負傷者の治療、結界技術の民間転用――むしろ今後のほうが本領発揮かと」
エステルの目が見開かれた。自分の力が、戦争以外の場所で必要とされる。壊すためではなく、治すために。その可能性を、今まで考えたことがなかった。
「……なるほど。継続課金の価値があるということですわね」
レティシアは一瞬固まった。
リーナが元気よく手を挙げた。
「私は遺跡調査の予算が出ればそれでいいよ! 条約の第四条に学術交流の項目あったよね? あれ最高。レティシア天才。大好き」
「出します。出しますから静かに」
オスヴァルトが条約の最終ページに目を落とした。署名欄。二つの空白。一つは人間側代表。もう一つは魔族側代表。
ペンを取った。
署名の直前、オスヴァルトの視線がリーナに向いた。
「……あの石板がなければ、この条約に歴史的根拠はなかった」
リーナは首を傾げた。
「え? いや、見つけたのは私だけど、書庫に入れてくれたのはあなたじゃん。千年間あの書庫を守ってなかったら、石板はとっくに失われてたよ」
「…………」
「何? なんで黙るの? ねえ、ちょっと」
オスヴァルトは答えなかった。赤い瞳の光が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。千年分の何かが――孤独とも安堵ともつかない何かが――その光の中を通り過ぎた。
レティシアはその瞬間を見ていた。恋ではない。少なくとも、まだ。しかし信頼よりは深い。千年分の孤独が解けていく音が、聞こえる気がした。
オスヴァルトがペンを走らせた。署名。黒いインクが羊皮紙に沈み、魔族側代表の名が刻まれた。
「署名式の正式な立ち会いが必要だな」
「はい。王宮から監査局代表が派遣される予定です」
その言葉を口にしたとき、レティシアの心臓が小さく跳ねた。監査局代表。来るのは――
数日後。署名式の日。
魔王城の大広間に、両陣営の代表が集まった。人間側はレティシア、カイ、エステル、リーナ。魔族側はオスヴァルトと数名の側近。そして、王宮からの立会人。
大広間の扉が開き、黒いコートの男が入ってきた。灰色の短髪。フレームレスの片眼鏡。表情の乏しい顔。
ヴィルヘルム・リヒター。
レティシアとヴィルヘルムが、数ヶ月ぶりに直接対面した。書簡のやり取りは続いていた。末尾の一文は、もう一文では収まらなくなりつつあった。しかし会うのは、あの監査以来初めてだった。
ヴィルヘルムの表情は相変わらず乏しかった。しかしレティシアには分かった。筆跡と同じだ。表情の奥にある感情の温度を、もう読み取れるようになっていた。片眼鏡の奥の灰色の目が、レティシアを見ている。その目の中にある光が、書簡の末尾の一文と同じ温度をしていた。
「条約の草案を読んだ」
ヴィルヘルムの声は事務的だった。しかしその次の一言だけ、声の質がわずかに変わった。
「……見事だ」
「監査官殿の記録評価がなければ、王宮は数字を信用しなかったはずです」
「……それは、お前の数字が正しかったからだ」
署名式が始まった。オスヴァルトの署名はすでに入っている。人間側代表としてレティシアが署名し、立会人としてヴィルヘルムが承認印を押す。カイは「あ、俺もなんか書く?」と聞いて「勇者様は証人として署名をお願いします」と言われ、「カイ」とだけ大きく書いた。エステルは達筆な署名を入れ、リーナは「学術顧問」の肩書きの横に古代魔族語で自分の名前を書いた。オスヴァルトがそれを見て、赤い瞳をわずかに見開いた。
署名が完了した瞬間、大広間に控えていた全員から歓声が上がった。魔族の側近たちも、硬い表情を崩して頷いていた。レティシアは深く息をついた。終わった。数百年続いた戦争が、一通の条約で――
その瞬間、大陸の空に一筋の光が走った。
大広間の窓から見えた。水平線から天頂へ、白い光の線が弧を描いて消える。美しい光だった。流れ星に似ていた。しかし流れ星ではないことを、レティシアは直感で理解した。
リーナの顔色が変わった。
「レティシア」
リーナの声から、いつもの明るさが消えていた。
「……まずいかもしれない」
「何が」
「石板の最後の一節、さっき完全に解読できた。署名のときに発生した魔力波動が、暗号の最後の層を解除したの」
リーナが手帳を開く。震える指で文字を指し示す。
「『循環を止めし時、眠れるものが目を覚ます』って――」
大広間の床が、微かに振動した。
窓の外を見る。大陸の彼方、東の山脈の稜線に沿って、青白い光が点滅している。一つではない。二つ、三つ、四つ――大陸各地の古代遺跡が、同時に発光を始めていた。
オスヴァルトが立ち上がった。赤い瞳が強く発光している。
「……石板に書いてあったのか。この警告が」
「最後の一行だけ暗号化されてて、さっき署名の署名中に解除されたの! 私のせいじゃないからね!?」
「リーナ、今は責任の所在の話をしている場合では――」
「だって本当に私のせいじゃないもん!」
レティシアは深く息を吸った。そして吐いた。パニックは一瞬で鎮めた。前世で培った危機管理能力が、即座に起動した。
状況整理。和平条約は成立した。署名は完了した。しかし条約の成立そのものが、古代のシステムの安全装置を作動させた。勇者・魔王のサイクルは、自然現象ではなく人為的に設計されたもの。そのサイクルを凍結するという条約の内容が、設計者の意図に反したトリガーを引いた。
大陸各地で遺跡が発光している。何かが――勇者でも魔王でもない、第三の力が、目覚めようとしている。
前世で言えば――サービス終了の手続きを進めたら、自動復旧システムが作動してサーバーが勝手に再起動した、ようなものだ。
「誰のせいかの議論は後にします」
レティシアの声が、大広間に響いた。全員の目が彼女に集まる。
「まず事実を確認します。リーナ、石板の記述から分かることを全部話して。オスヴァルト殿、魔族側の古代遺跡の状況を把握できますか。勇者様――」
カイを見た。金髪碧眼の勇者は、窓の外の光を眺めながら、いつもの調子で言った。
「なんかまた面倒なことになりそうだね」
「……はい。なりそうです」
「まあいっか。なんとかなるっしょ」
レティシアはかつて、その言葉を聞くたびに胃が痛んだ。しかし今は――ほんの少しだけ――心強かった。
和平は成立した。しかし、もっと大きな問題が幕を開けた。
レティシアは新しい羊皮紙を取り出し、ペンを構えた。書くべきものが、まだある。




