決戦前夜
魔王城への最終進軍まで、あと三日。
レティシアの執務机には二つの書類が並んでいた。一つは「最終決戦作戦計画書」。もう一つは、リーナが解読した古代共存条約の全文訳。前者は王宮が求めたもの。後者は、誰にも求められていないもの。
この数ヶ月で、レティシアの記録は膨大な量に達していた。戦闘被害の統計、兵站コスト、魔族側の交戦パターン分析、補給路の維持費、同盟国への支出。すべての数字が、一つの事実を指し示している。この戦争は、双方にとって消耗でしかない。戦闘を続けた場合と和平に移行した場合の費用対効果を比較すれば、答えは明白だった。
しかし数字だけでは王宮は動かない。王宮を動かすのは政治であり、面子であり、数百年の慣習だ。「勇者が魔王を倒す」というサイクルは国家の根幹に組み込まれた儀式であり、それを止めるには――歴史的な根拠がいる。
レティシアの目が、共存条約の全文訳に移った。
リーナが命懸けで書庫に入り、魔王と共に石板を起動し、煤まみれになりながら解読したもの。かつて人間と魔族が正式に和平を結んでいた証拠。これさえあれば、和平は「前例のない暴挙」ではなく「歴史の復元」として提案できる。
しかしまだ、決断は下していなかった。
台本通りに進めれば、リスクは少ない。勇者が魔王を倒し、凱旋し、レティシアはプロジェクト完了の報告書を書いて、定時退勤の日常に戻る。安全な選択だ。前世のレティシアなら、迷わずそちらを選んだだろう。余計なことをしない。指示された通りに仕事をこなし、最小の責任で最大の安定を得る。それが社畜の生存戦略だった。
けれど。
今のレティシアには、記録がある。数字がある。オスヴァルトとの会談で見た魔族の為政者の顔がある。リーナが書庫で流した涙がある。カイが魔族の子供と釣りをした報告がある。エステルが花冠を編まされた午後がある。
それらすべてを「なかったこと」にして、台本通りの結末を書けるのか。
答えは――書けない。書記官として、そんな報告書は書けない。
最終決戦の前夜。四人は焚き火を囲んでいた。
秋の夜風は冷たかったが、炎の温もりが足元から這い上がってくる。リーナが薪を足し、エステルが結界を張って風を遮り、カイが川で釣ってきた魚を焼いている。この数ヶ月で何十回と繰り返した光景だった。しかし明日で最後になるかもしれない光景でもあった。
カイが魚をひっくり返しながら、ぽつりと言った。
「なあ、オスヴァルトってさ、話したら普通にいい奴なんじゃないの」
焚き火の爆ぜる音だけが響いた。レティシアは凍りついた。
「……勇者様、それは」
「いや、前に魔族の村に行ったじゃん。あそこの子供たちがさ、『魔王様は怖い顔してるけど、村の水路を直してくれた』って言ってたんだよ。水路だよ? 村の。自分で現場見に来て、工事の指示出したんだって。それってさ、普通にいい領主じゃん」
レティシアは言葉を失った。カイは知っていたのだ。レティシアが報告書に書かなかったことを、レティシアが苦心して隠してきたことを、カイは村の子供たちから直接聞いていた。
無課金エンジョイ勢は、運営が想定していないルートを平気で見つける。攻略サイトも見ない。効率も考えない。ただ自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の感覚で判断する。そしてその結果、運営が用意した導線を完全に無視した場所に、正解を見つけてしまう。
エステルが口を開いた。
「勇者様、それは敵に同情しているのですか?」
「同情じゃないよ。ただ、釣りに誘ったら来そうだなって」
「……………………」
エステルの沈黙は長かった。その間に、リーナが軽やかに参戦した。
「あ、私は魔王さんが普通にいい人だって知ってるよ。だって書庫見せてくれたし」
「リーナ、それ機密です」
「えー」
「えー、じゃありません」
カイが焼き魚を皿に取り分けながら笑った。
「じゃあさ、みんな薄々分かってるんじゃん。オスヴァルトが悪い奴じゃないって」
沈黙。焚き火が爆ぜた。
エステルが小さく息をついた。
「……わたくしは、勇者様の判断に従いますわ。ただし――」
「ただし?」
「これまでの献金が無駄になるようでしたら、相応の代替案を求めますわ」
カイが笑った。リーナも笑った。エステルの口元も、ほんの少しだけ緩んだ。
レティシアだけが笑えなかった。笑えなかったのは、この会話が冗談ではなく、明日の行動指針に直結することを理解していたからだ。
焚き火の輪が解散し、それぞれが天幕に戻った後、レティシアは一人残った。
魔導記録板を膝に載せ、星空の下で考える。
前世の最後の日のことを思い出した。サービス終了の告知文を書いていた。三年間運営したゲームの、最後の言葉。ユーザーを裏切らず、開発チームも守り、版権元も納得させる――すべての利害関係者に誠実な終わり方を探して、最後の最後まで言葉を選び続けた。
あのとき学んだことがある。「終わらせ方」にも美学がある、ということ。何かを終わらせるとき、その終わり方が、それまでの全てを定義する。雑に終わらせれば、それまでの努力も雑だったことになる。丁寧に終わらせれば、それまでの時間が意味を持つ。
この戦争を「終わらせる」方法は、魔王を倒すことだけではない。
レティシアは懐から、ヴィルヘルムからの最新の書簡を取り出した。封蝋はヴィルヘルムの個人印。便箋の紙質は上等で、文字は丁寧に書かれていた。業務報告の確認事項の後、末尾の一文。
「記録は残す。あなたの仕事を、誰にも消させない」
レティシアは、その一文を何度も読み返した。
前世では誰にも言われなかった言葉だった。今世でも、この男以外には言われなかった。
「記録は残す」。ヴィルヘルムはレティシアの数字の正確さを知っている。レティシアの報告書が嘘を書かないことを知っている。そしてその記録に、監査官としての信頼を付与してくれている。ヴィルヘルムの監査報告がなければ、レティシアの数字はただの運営責任者の自己申告に過ぎない。しかしヴィルヘルムが「正確だ」と認めたことで、あの数字は王宮にとって公式な根拠になる。
パズルのピースが揃っていた。レティシアの数字。ヴィルヘルムの監査。リーナの石板。オスヴァルトの署名意思。カイの――カイの、あの一言。「話したら普通にいい奴なんじゃないの」。
レティシアは魔導記録板を閉じ、新しい羊皮紙を取り出した。
議事録ではなかった。報告書でもなかった。
「和平条約草案」
一人の書記官が、一本のペンで、戦争を終わらせる文書を書き始めた。
条文は明確に。根拠は正確に。数字には嘘を混ぜない。着任以来の全記録が、この一通の文書のために存在していたかのように、レティシアの手の中で一つの論理に編み上げられていく。
人間側と魔族側の領土確定。貿易路の開設。相互不侵略条約。そして――勇者・魔王制度の凍結。
数百年続いたサイクルを止める。前例はない。しかし前例がないことは、不可能であることと同義ではない。古代の共存条約が証明している。かつて人間と魔族は共存していた。それは歴史の事実だ。事実は、面子や慣習よりも重い。
夜が更ける。焚き火が熾火になり、星が天頂を巡る。レティシアのペンは止まらなかった。
ヴィルヘルムへの返信も書いた。業務報告の末尾に一文を添えた。
「次の報告書は、これまでで最も重要なものになります。読んでいただけますか」
そしてペンを置き、夜空を見上げた。
焚き火のそば――レティシアからは少し離れた場所で、エステルがまだ起きていた。膝を抱えて星を見上げている。その隣に、カイが音もなく座った。
「眠れない?」
「……少し」
「明日で終わりだもんな」
「ええ。終わりですわね」
沈黙。星が一つ、流れた。
「終わったら何する?」エステルは少し考えた。
「……考えたことがありませんでしたわ。ずっと、聖女としての任務だけを考えて生きてきましたから」
幼い頃から、エステルの人生には「聖女になる」以外の選択肢がなかった。大司教家の期待。神殿の制度。献金と修行のサイクル。スキルを解放するたびに次のスキルが待っていて、ゴールは常に先にあった。任務が終わった後の自分を想像したことがない。聖女の肩書きを外した自分が何者なのか、考えたことがなかった。
「じゃあさ、一緒に釣りでも行く?」
エステルは目を瞬いた。
「釣り、ですの?」
「うん。南の島に、すっごい綺麗な魚がいるらしいよ。青くてさ、鱗が光るんだって」
「……南の島」
「海風が気持ちいいんだって。エステル、海見たことある?」
「……ありませんわ」
「じゃあ行こうよ。きっと楽しいよ」
エステルは黙った。長い沈黙だった。しかしそれは拒絶の沈黙ではなかった。生まれて初めて「聖女の任務」以外の未来を想像している沈黙だった。
「……分析のために、同行を検討しますわ」
「やった」
カイの笑顔は、焚き火の灯りの中で温かかった。エステルの横顔が、同じ灯りに照らされている。左眉は震えていなかった。
レティシアは自分の天幕の中からその光景を見ていた。報告書には書けない。議事録にも残せない。しかし確かにそこにある温もりを、レティシアは記憶に刻んだ。
――明日、この戦争を終わらせる。
ペンを持つ手が、わずかに震えていた。恐怖ではない。緊張でもない。ただ、自分がこれから書く文書の重さを、体が理解しているのだ。
前世では、サービス終了の告知文を書きながら死んだ。
今世では、戦争終結の条約を書きながら生きている。
同じ「終わらせる文書」だ。しかし今世の方が、ずっと怖い。怖いのは――今世には、失いたくないものがあるからだ。
羊皮紙の束を革紐で縛り、胸に抱えた。明日は、この文書を魔王に渡す。勇者にではなく。聖女にでもなく。魔王に。
レティシア・ヴィンター、二十二歳。前世はソーシャルゲーム運営のプロデューサー。今世は魔王討伐プロジェクトの運営責任者。
そして明日から――和平条約の起草者。
定時退勤は、もう少し先になりそうだった。




