魔王城
レティシアとオスヴァルトの事務折衝が定例化してから、二ヶ月が経っていた。
月に二度の会談。場所は例の廃砦。議題は戦闘ルートの調整、補給路の安全確保、双方の被害報告。極めて実務的な内容だったが、一つだけ会談のたびに繰り返される異常事態があった。
会談が終わっても、リーナとオスヴァルトの会話だけが終わらないのだ。
「――つまり第三紀の魔法体系は、始祖系と派生系の二系統に分岐していて、人間側に伝わったのは派生系のみなの。だから人間側の魔法理論って根本的に不完全なんだよ。始祖系の基礎理論が欠落した状態で構築されてるから、説明できない現象が山ほどある。例えば勇者の魔力回路の構造なんて、派生系の理論じゃ絶対に説明できないんだけど――」
「……始祖系の理論では説明がつく。第一始祖の『環流理論』を適用すれば、勇者の回路は合理的な構造だ」
「やっぱり! ねえそれ詳しく教えて! 環流理論の原典って残ってる?」
「……ある」
レティシアは帰り支度をしながら言った。
「会議は終わったんですけど」
二人には聞こえていなかった。
リーナが身を乗り出し、オスヴァルトが――これは信じがたいことだが――わずかに前のめりになっている。魔王が、前のめりになっている。千年の孤独を纏った為政者の瞳に、知的な高揚の光が灯っている。レティシアはその光を見て、奇妙な感慨を覚えた。
この男は寂しかったのだ。知識を持ちながら、それを分かち合う相手がいなかった。千年の書庫を守りながら、その価値を理解する者がいなかった。そこにリーナが現れた。始祖系魔法体系について目を輝かせて語れる、おそらく人間側で唯一の人間が。
ある日の会談の終わり際、オスヴァルトが言った。
「見せたいものがある」
リーナが弾かれたように顔を上げた。レティシアは嫌な予感がした。
「魔王城の書庫だ。お前の研究に必要なものがある」
「行く」
即答だった。レティシアが口を挟む隙もなかった。
「リーナ、待ってください。魔王城に――」
「レティシアも一緒に行くんでしょ? 護衛で」
「そういう問題では――」
「行かないの?」
リーナの琥珀色の目が、まっすぐにレティシアを見た。あの目を見ると、レティシアは弱い。書記局時代からそうだった。リーナが本当にやりたいことを見つけたときの、あの光。研究者の魂そのものが発光しているような、あの目。
レティシアは天を仰いだ。今世でも前世でも、自分は結局「現場が行きたいと言えば止められない運営」なのだ。
「……条件があります。滞在は三時間以内。触っていい物は許可されたもののみ。何があっても走って逃げられる態勢を維持すること」
「わかったわかった!」
「分かっていないのが声のトーンで分かりますが、とにかく行きます」
オスヴァルトが二人のやり取りを黙って見ていた。赤い瞳に何の感情が浮かんでいるのか、レティシアには読み取れなかった。
魔王城。その外観は、レティシアの想像とは違っていた。禍々しい黒い城を予想していたが、実際は古い石造りの要塞だった。人間側の城砦と建築様式が似ている。考えてみれば当然だ。かつて人間と魔族が共存していた時代があるなら、建築技術が共通していてもおかしくない。
リーナは城の外壁を見ただけで足が止まった。「この石組み、第二紀の工法だ……」と呟き、壁面に手を触れようとしてレティシアに襟首を引かれた。
城の内部を通り、長い廊下を抜け、地下への階段を降りる。オスヴァルトが重い扉を開けた。
その先に、書庫があった。
レティシアの目にまず映ったのは、壁だった。壁一面に、床から天井まで、整然と書架が並んでいる。そこに収められた書物の数は――数えられない。数百、いや数千。革装丁の背表紙が薄闇の中で鈍く光り、古い紙とインクの匂いが空気に満ちている。魔導灯の冷たい光に照らされた空間は、時間が止まったように静謐だった。
リーナが一歩踏み入れた。
そして、声にならない声を上げた。
両手で口を押さえ、琥珀色の目を見開き、全身を震わせていた。書架の背表紙に書かれた文字を読んでいる。古代魔族語で書かれたタイトルを、一つ一つ。
「う、嘘でしょ……」
声が震えていた。
「『始祖アルケイアの魔法体系論』の……原本……? 人間側には断片しか残ってないのに……全巻、揃ってる……」
リーナの目から涙が溢れた。
レティシアは驚いた。リーナが泣くのを見るのは、書記局時代を含めて初めてだった。嬉しいときは笑い、悔しいときは唇を噛み、怒るときは早口になる。泣くところだけは、見たことがなかった。
しかし今、リーナ・コデックスは泣いていた。学者として生涯をかけて追い求めてきたものが、目の前にある。存在するかどうかさえ確信が持てなかったものが、壁一面に並んでいる。千年の時を超えて、読まれることを待っていた知識が、ここにある。
オスヴァルトは黙ってそれを見ていた。赤い瞳の光が、穏やかだった。
レティシアは思った。この瞬間を報告書にどう書くのか。「友人が魔王城の書庫で泣いている」。書けるわけがない。しかし記録に残さなければ、この瞬間は消えてしまう。
リーナは涙を拭うと、学者の顔に戻った。書架を一つ一つ確認し、メモを取り、時折声を上げては別の書架に走る。その背中をオスヴァルトが無言で追い、リーナが「これは何?」と尋ねるたびに、短く正確に答えた。
書庫の奥で、リーナが足を止めた。
「レティシア。来て」
呼ばれて近づくと、リーナが一枚の石板の前にしゃがみ込んでいた。灰色の石板に、細かな古代魔族語が隙間なく刻まれている。
「これ、条約文だよ」
「条約?」
「うん。古代魔族語で書かれた正式な条約。しかもこれ――人間と魔族の間で結ばれたものだ」
レティシアの心臓が跳ねた。
リーナが石板の文字を指でなぞりながら、早口で解読していく。
「『我ら人の子と、我ら魔の子は、この大地を分かち合うことを誓う』――共存条約だよ、レティシア。かつて人間と魔族が正式に和平を結んでいたんだ。現代の歴史からは完全に消された事実だけど、ここに物的証拠がある」
オスヴァルトが静かに口を開いた。
「その石板の存在は、私も知っていた。だが解読できる者がいなかった」
「読めるよ。全部読める。ただ――」
リーナが石板の下部を覗き込む。
「ここ、第三層に魔法陣が封じ込められてる。文字の下にもう一つの情報層がある。あなたの魔力なら起動できると思うんだけど――」
レティシアの背筋に冷たいものが走った。
「待ってください。何が起こるか分からないものを軽々しく――」
遅かった。
リーナが呪文を読み上げた。オスヴァルトが石板に手を触れ、魔力を注いだ。レティシアが「だから待って――」と叫んだ瞬間、石板が千年ぶりに発光し――
爆発した。
轟音。閃光。そして灰色の煤と埃が書庫の一角を包み込んだ。書架から本が何冊か落ち、魔導灯がちかちかと明滅する。
沈黙。
煤が少しずつ晴れていく。三人とも真っ黒だった。レティシアの制服は灰色に染まり、リーナの丸眼鏡は煤で曇り、オスヴァルトの黒い軍服は――元が黒いので分かりにくいが、髪に灰が積もっていた。魔王の髪に灰が積もっている。
リーナが小さく言った。
「……やば。ごめん」
オスヴァルトは無言だった。赤い瞳が煤の中で発光しているが、怒りの光ではなかった。何の光なのかはレティシアにも判別できなかった。
レティシアは深呼吸した。煤っぽい空気が肺を満たした。
「……友人が魔王と書庫で爆発した、という報告書を書く日が来るとは思いませんでした」
リーナが「ごめんって」と繰り返し、オスヴァルトが「…………」と黙っている。この「…………」に込められた感情を、レティシアはまだ読み取れなかった。後に分かることだが、この沈黙には「面白かった」という感情が含まれていたらしい。魔王の感情表現は難解だった。
しかし――煤が完全に晴れた後、石板の表面に変化が起きていた。爆発前には見えなかった文字列が浮かび上がっていたのだ。共存条約の全文。さらにその末尾には、リーナが息を呑む一節が刻まれていた。
「勇者・魔王の循環について」
リーナの目が鋭くなった。学者の目だ。
「これ……勇者と魔王のサイクルについて書かれてる。『この循環は』――ここから先が暗号化されてる。今の爆発でも全部は解除されなかったんだ。でも冒頭の一文だけ読める。『この循環は、天然のものにあらず』」
天然のものにあらず。つまり――誰かが設計した、ということ。
レティシアは石板を見つめた。数百年にわたり繰り返されてきた勇者と魔王のサイクル。自然現象だと思われていたそれが、人為的なシステムだとしたら。この発見が意味するものの大きさに、脳が追いつかなかった。
オスヴァルトがリーナを見た。赤い瞳が強く発光していた。それは威圧ではなく、紛れもない知的な高揚だった。千年間、一人で守ってきた書庫に、初めて「読める者」が来た。そしてその者が、千年の沈黙を破る発見をした。
「……また来い」
オスヴァルトの声は低かったが、レティシアの耳には、その短い言葉の中にある感情の重みが聞こえた。
リーナは煤だらけの顔で笑った。
「言われなくても来る」
レティシアは二人を見て思った。この二人の関係を何と呼べばいいのだろう。恋ではない。少なくとも今の時点では。学術提携でもない。公的な枠組みの中にはこの関係を収める言葉がない。強いて言えば――千年越しの読書会だろうか。一人は千年間、読む相手がいなかった。もう一人は生涯、読みたいものに手が届かなかった。それが今日、繋がった。
帰り道、リーナは興奮が冷めないままに語り続けた。石板の文字構造、隠された魔法陣の設計思想、共存条約の歴史的意義。レティシアは黙って聞いた。
友人の声を聞きながら、レティシアは考えていた。古代の共存条約が実在した。人間と魔族はかつて共存していた。その歴史的証拠が今、自分たちの手にある。
これは使える。
プロデューサーの頭が動いた。和平の根拠として。王宮を説得する材料として。この石板は――レティシアの報告書に、決定的な一行を加えることができる。
しかしそれはまだ先の話だ。今はまず、煤だらけの制服をどうにかしなければならなかった。




