事務折衝
一通の書簡が届いたのは、魔王遭遇から五日後のことだった。
差出人の名を見た瞬間、レティシアの心臓が嫌な意味で跳ねた。オスヴァルト・ドゥンケル。封蝋は黒地に赤い紋章――魔族領の公印だった。
震える手で封を切る。中身は一枚の便箋だった。文字は端正で読みやすく、内容は極めて事務的だった。
「非公式の停戦交渉を提案する。場所と日時は以下の通り」
日時、場所、参加人数の上限、武装制限。交渉の議題リストまで添付されている。前世で見た取引先からの会議招集メールと、書式がほぼ同じだった。
便箋の末尾には追伸が二つあった。
一つ目。「勇者が釣りに出ている時間帯を希望する」
二つ目。「学術顧問の同席を許可する」
レティシアはゆっくりとリーナの方を向いた。リーナは既にこちらを見ていた。琥珀色の目が、満天の星空のように輝いていた。
「リーナ。あなた、まだ何も聞いていないはずですが」
「レティシアの顔に全部書いてある。魔王から手紙来たんでしょ。私も行っていいって書いてあるんでしょ」
「……研究目的の私語は厳禁です」
「わかったわかった」
分かっていない。レティシアにはそれが分かった。なぜならリーナは既に質問リストを書いていたからだ。三枚。両面。びっしりと。いつ書いたのか。おそらく魔王と遭遇した日の夜からずっと書き続けていたのだろう。
会談の日が来た。場所は両領の境界にある廃砦。レティシアとリーナの二人で向かう。カイには「補給物資の受け取りに行く」と伝えた。嘘は言っていない。交渉の結果次第では、補給路そのものが変わる可能性がある。つまり広義の補給業務だ。エステルには「勇者様の観察をお願いします」と頼んだ。エステルは一瞬怪訝な顔をしたが、「勇者の行動観察は聖女の責務ですわ」と頷いた。便利な言葉だった。
廃砦の一室。石造りの部屋に、木の机が一つ。向こう側に、黒い軍服の男が座っていた。
オスヴァルト・ドゥンケルを正面から見るのは初めてだった。山道での遭遇は横顔だけだった。正面から見ると、想像以上に人間に近い容貌だった。角も翼もなく、赤い瞳さえなければ、厳格な軍人にしか見えない。その瞳も、今は穏やかな光を湛えていた。
「座れ」
「……失礼します」
レティシアは向かいの席に着いた。リーナがその隣に座る。質問リストを膝の上に隠し持っているのが見えたが、見なかったことにした。
交渉が始まった。そしてレティシアは、予想を上回る速さで理解した。
オスヴァルト・ドゥンケルは為政者だった。魔王という称号の向こう側にいるのは、領土と民を抱えた統治者だった。
先代の魔王――オスヴァルトの父が始めた人間領への侵攻。それを引き継いだのは義務であり、本人の意志ではなかった。魔族側も疲弊している。兵站は逼迫し、前線の兵の士気は低下し、主戦派と穏健派の対立が深まっている。しかし「勇者が攻めてくる」という外圧がなければ、主戦派を抑える名目がない。
「つまり、そちらにとっても勇者との戦いは必要だが、本格的な戦争は望んでいない、と」
「……そうだ」
レティシアの脳内で、前世のプロデューサーが完全に覚醒した。
これは戦争ではない。双方の「内政の都合」で続いている惰性の衝突だ。前世で言えば、とっくにサービス終了すべきコンテンツを、社内政治のためにだらだら運営し続けている状態。ユーザー数は減っている。売上も落ちている。しかし終了を決定すれば担当者の評価が下がる。だから誰も終了の決裁を出さず、惰性で運営費を垂れ流し続ける。
一番の被害者は現場だ。前世なら開発チーム。今世なら――戦場に送られる兵士と魔物たち。
「オスヴァルト殿。率直にお聞きします」
レティシアは魔導記録板を開いた。数字を見せる。戦闘の被害統計、兵站コスト、補給路の維持費。着任以来、レティシアが記録し続けてきた数字だった。
「このペースで戦闘を続けた場合、人間側の年間コストはこれだけです。そちらの被害も、推計ではありますが、同程度かそれ以上でしょう」
オスヴァルトの赤い瞳が、数字の羅列を追った。その目つきでレティシアは確信した。この男は数字が読める。
「双方が消耗し続ける戦争に、合理的な終着点はありますか」
「……ない」
「でしたら、被害を最小化する運用を提案します。戦闘が必要な場面では、予めルートと規模を調整し――」
「八百長か」
「調整です。イベントの難易度設定を最適化するだけです」
言ってから気付いた。「運営用語」はこの世界では通じない。しかしオスヴァルトは理解したようだった。言葉ではなく、意味を。
「……お前は不思議な人間だな」
「よく言われます」
交渉が一段落した。レティシアが内心で安堵した、その瞬間。
案の定、リーナが口を開いた。
「ねえ魔王さん、さっき戦場の話してたけど、北の山岳地帯に第四紀の遺跡群があるはずなのよ。戦闘で壊れてない?」
「リーナ、今は――」
「……壊れていない」
オスヴァルトが答えた。レティシアは驚いた。魔王が、学術顧問の脱線に応じている。
「あの一帯は魔族にとっても聖地だ。戦場からは外してある」
「よかったー! あそこの碑文、未解読のものが三十以上あるって記録に残ってるんだけど、もし和平が実現したら実地調査って可能だったりする?」
「リーナ。今は和平の話をしています」
「和平が成立したら遺跡に入れるんでしょ? なら和平の話じゃない?」
レティシアは反論の言葉を探し、見つけられなかった。論理的には正しい。悔しいことに、論理的には正しいのだ。
オスヴァルトの口元がわずかに動いた。笑った――のかもしれない。赤い瞳の光が、ほんの一瞬だけ柔らかくなった。レティシアがこの男の表情の変化を読み取れたのは、これが初めてだった。
会談は終わった。帰路、リーナが興奮冷めやらぬ様子で語り続けた。
「ねえレティシア、あの魔王さん、古代魔族語の発音が完璧だったの気付いた? 現代魔族語とは声調体系が全然違うのに、あの人は両方を完全に使い分けてた。つまり古代文献を原語で読めるってことだよ。千年前の文献を。生きた知識として持ってるの。もしあの人と共同研究ができたら――」
「リーナ」
「何?」
「あの人は魔王です」
「知ってるよ。でも魔王かどうかは学術的にはあんまり関係ないんだよね。重要なのは知識の質と量であって――」
レティシアは深いため息をついた。リーナの言っていることは正しかった。学術に国境はない。前世でもそうだった。しかし今世では、その国境がない領域に踏み込むことが、命に関わるのだ。
この会談以降、レティシアとオスヴァルトの間に奇妙な連絡網が構築された。書簡のやり取りで、戦闘のルートと規模を事前に調整する。勇者パーティが通る道筋には弱い魔物だけを配置し、双方の被害を最小限に抑える。傍から見れば魔王討伐は順調に進んでいる。実態は、運営と魔王が裏で台本を書いている八百長に限りなく近かった。
レティシアの胃痛は最高潮に達していた。
同じ頃、カイが何気なく魔族の村に立ち寄った。
レティシアが知ったのは事後だった。カイは魔族の子供たちと釣りをし、川魚を焼いて分け合い、名前を教え合って友達になった。魔族の村人たちは最初こそ人間の来訪に警戒したが、カイがにこにこと笑いながら「この川、何が釣れるの?」と尋ねた瞬間に緊張が解けたらしい。
エステルはカイの後を追って村に入った。最初は杖を握り締めていたが、カイが子供たちと笑い合う姿を見て、ゆっくりと手の力を緩めた。小さな魔族の女の子に手を引かれ、花冠を編まされている聖女の姿を、後からレティシアが聞いたのはリーナ経由だった。
「エステルさん、めちゃくちゃ器用に花冠編んでたよ。あと魔族の子供にお菓子配ってた」
「……聖女様が、魔族の子供に?」
「うん。カイくんに『分析のためですわ』って言ってたけど、完全に楽しんでたね」
レティシアは報告書を開き、数秒考え、閉じた。
これは書けない。書いたら政治問題になる。しかし書かなければ、この温かい光景が記録に残らない。
結局、レティシアは書いた。ただし表現を選んだ。「勇者による魔族領辺境部の民心調査。現地住民との友好的接触に成功。聖女も同行し、民間レベルでの相互理解に寄与した」。
嘘ではない。花冠と釣りと干し菓子の話が、どこにも書かれていないだけだ。




