表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この戦いの運営になりましたが、肝心の勇者が無課金エンジョイ勢です  作者: 四宮 あおい


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/9

魔王遭遇

 その日の朝、カイが言った。


「今日は東の渓谷に行く。珍しい魚がいるらしいんだよね」


 レティシアの返答は決まっていた。「勇者様、本日の行程では北回りのルートを――」


 しかし言い終わる前にカイは歩き出していた。釣り竿を背負い、鼻歌を歌いながら。エステルが即座に立ち上がる。


「わたくしも参ります。勇者の行動観察は聖女の責務ですわ」


 行動観察。レティシアはもうその言葉に突っ込む気力を失っていた。手帳を片手に勇者を追いかける聖女の背中を見送りながら、ため息をつく。


「……行ってしまいましたね」


「行っちゃったね」


 リーナが隣で暢気に答える。残されたのは運営責任者と学術顧問、そして勇者の装備一式を積んだ荷車。聖剣、神鎧、加護の盾、祝福のマント――国家予算の結晶が、使用者不在のまま荷台に鎮座している。


「仕方ありません。私たちは予定通り次の拠点に向かいます。荷車を――」


「あ、レティシア。この街道、途中で第二紀の祭祀遺跡を通るんだけど――」


「通りません」


「通るんだって地図に――」


「通ったとしても立ち寄りません」


「五分だけ……」


「リーナ」


「……はい」


 荷車を引き、山道を進む。秋の山は色づき始めており、落ち葉を踏む音が心地よかった。リーナが道端の岩に刻まれた紋様を見つけてはメモを取り、レティシアがその首根っこを掴んでは前へ進ませる。いつもの道中だった。


 いつもの道中で、あるべきだった。


 山道の角を曲がった瞬間、レティシアの足が止まった。


 十歩先に、一人の男が立っていた。


 黒髪。赤い瞳。浅黒い肌。黒い軍服の詰め襟を隙なく着こなし、姿勢は定規で測ったように真っ直ぐだった。角も翼もない。しかしその全身から放たれる威圧感は、人間のものではなかった。


 レティシアの脳が、二秒で結論を出した。


 魔王オスヴァルト・ドゥンケル。


 心の中でパニックの嵐が吹き荒れた。しかし顔には出さない。出せない。前世で鍛えた表情管理がここで活きた。メインスポンサーとの緊急面談に無準備で放り込まれたときと同じだ。笑顔は作れないが、平静は装える。


 思考が高速で回転する。


 ――状況整理。私は今、勇者の装備一式を積んだ荷車を引いている。勇者はいない。聖女もいない。あるのは国家予算の結晶を満載した荷車と、それを一ミリも使えない事務職員と――


 横を見た。リーナの琥珀色の目が、きらきらと輝いていた。


 嫌な予感がした。予感は的中した。


「あ――! あなた、魔族の方ですよね!?」


 リーナが一歩前に出た。レティシアの制止より早く。


「その魔力パターン、古代魔族の始祖系統じゃないですか!? 第一始祖の直系から分岐した正統後継の――」


「リーナ、黙って」


「ねえ今の魔族って始祖系の魔法体系どこまで残ってるの!? 文献だと第三紀以降は断絶してるって書いてあるんだけど、あなたの魔力を見る限り明らかに始祖系の特徴が――」


「黙ってください!!」


 レティシアの叫びが山間に反響した。鳥が数羽、驚いて飛び立つ。リーナがびくりと肩を跳ねさせる。しかしレティシアの目は魔王に向いていた。


 オスヴァルト・ドゥンケルは動かなかった。赤い瞳が、完全武装の勇者装備を積んだ荷車と、それを引く宮廷書記官の制服姿の女と、その横で興奮している眼鏡の女の間を、ゆっくりと往復した。


 数秒の沈黙が、数分に感じられた。


「……勇者は?」


 魔王の声は低く、淡々としていた。


 レティシアは一瞬、嘘を考えた。「すぐ近くにいます」「背後に控えています」――しかし魔王の赤い瞳は、嘘を見抜く種類の光を宿していた。嘘は状況を悪化させるだけだ。前世の教訓。ユーザーへの不誠実な告知は必ず炎上する。


「……釣りです」


 正直に答えた。


「…………」


「…………」


 沈黙が痛い。文字通り痛い。胃が痛い。


 オスヴァルトの視線が荷車に移った。


「……その荷車の中身は」


「勇者様の装備一式です」


「なぜ本人が持っていない」


「……重いそうです」


「…………」


 オスヴァルトが荷車に近づいた。反射的に身を引きそうになるが、堪える。逃げても勝てる相手ではない。それに――不思議なことに、殺気は感じなかった。


 オスヴァルトの赤い瞳が、荷車に積まれた聖剣を一瞥する。


「良い剣だな」


「お目が高いですね。国家予算の三パーセントです」


 死を覚悟しているはずなのに、口から出たのは予算の話だった。職業病だ。前世から治らない。クライアントに詰められているときも、つい制作コストの話を持ち出してしまう癖があった。


「勇者がこれを使わず、お前が運んでいるということは……今この場で最も武装しているのはお前だな」


「使えませんけどね」


「……知っている」


 当然だ。事務職員が聖剣を振り回せるわけがない。レティシアは自分の状況の滑稽さに、不思議と笑いそうになった。前世で一番追い詰められたとき、緊急メンテ中に全サーバーが落ちて上層部から電話が鳴り止まなかったとき、自分は笑っていた。人間は本当に限界を超えると笑うのだと、そのとき知った。


 そしてリーナが、ついに我慢の限界を突破した。


「ねえねえ、あなた魔王なんでしょ? 質問していい? 古代魔族の五大始祖ってまだ記録残ってる? うちの学院の資料だと第二始祖以降が全部欠損してるんだけど――」


 レティシアが止めるより早かった。いつもそうだ。リーナの学術的好奇心は、生存本能より速い。


 オスヴァルトの赤い瞳がわずかに発光した。レティシアは身構えた。しかしその光は、攻撃の予兆ではなかった。困惑でもなかった。


 驚き、だった。


 千年間――おそらくは千年以上、その質問をしてきた人間はいなかったのだ。五大始祖の記録。古代魔族の魔法体系。人間側の学者たちが見向きもしなかった、あるいは存在すら知らなかった知識について、この眼鏡の女は目を輝かせて尋ねている。


 しかしオスヴァルトは答えなかった。赤い瞳を静かに伏せ、踵を返す。


「……次は勇者を連れてこい。こちらにも体裁がある」


 その背中が数歩遠ざかったとき、オスヴァルトは足を止めた。振り返りはしない。ただリーナの方に、一瞬だけ視線を送った。


「……五大始祖の記録は、ある」


 リーナの目が、太陽のように輝いた。


 レティシアの膝が落ちた。地面に手をつき、深く、深く呼吸する。生きている。殺されなかった。なぜ殺されなかったのか分からないが、生きている。


「レティシア大丈夫!?」


「……大丈夫じゃありません」


「ねえ聞いた? 五大始祖の記録があるって! あるんだよレティシア! 人間側では完全に失われたと思われてたのに!」


「聞きましたけど今はそれよりも――」


「これが事実なら、古代魔法体系の研究が百年は前進する! 論文どころか学術書一冊分のデータが――」


「リーナ!」


 レティシアは友人の両肩を掴んだ。


「私たちは今、魔王に見逃されたんです。理由は分かりません。でもこの事実を報告書にどう書くか、あなたにも責任の一端があることは理解してください」


「……ごめん」


 リーナは少しだけ反省した顔をした。少しだけだ。目はまだ輝いていた。


 その夜、レティシアは報告書と格闘した。


 事実を書けば「勇者不在の状態で魔王と遭遇し、学術顧問が学術質問を行い、魔王はそれに一部回答した後、戦闘なく撤退した」となる。正確だが、これを上層部に提出すれば三つの問題が発生する。第一に、勇者の単独行動が明るみに出る。第二に、魔王との非戦闘接触が政治問題になる。第三に、学術顧問が魔王に質問したという事実が、内通の嫌疑を招きかねない。


 レティシアは羽根ペンを握り直した。前世から報告書の書き方だけは一流だ。嘘は書かない。しかし真実の見せ方を変える。


「偵察行動中、敵勢力の指揮官と接触。戦力分析および情報収集を実施した上で、戦略的撤退を選択。接触により得られた情報は別紙の通り」


 リーナの学術質問は「学術顧問による敵方の文化情報の聴取」と処理した。間違ってはいない。間違ってはいないが、真実でもない。真実は「友人が魔王に古代魔法の質問をして目を輝かせていた」であり、それは報告書の言語では表現できなかった。


 カイとエステルが渓谷から戻ってきたのは、日が沈んでからだった。カイは大きな魚を三匹提げて上機嫌だった。エステルは手帳にびっしり何かを書き込んでいた。


「おかえりなさい、勇者様。本日、私たちは魔王に遭遇しました」


「え、マジ? どんな人だった?」


「……黒い軍服の、礼儀正しい男性でした」


「へー。会ってみたかったな」


 レティシアは思った。この人は本当に勇者なのだろうか。魔王と聞いて「会ってみたかった」と返す勇者が、歴代に何人いただろうか。


 エステルが眉をひそめた。


「運営さん、お怪我は?」


「ありません。戦闘にはなりませんでしたので」


「……戦闘にならなかった、のですか? 魔王と遭遇して?」


「はい。理由は……正直、私にも分かりません」


 エステルの紫の瞳に、複雑な感情が過った。しかしそれ以上は問わなかった。


 この夜、レティシアは報告書の末尾に追記した。


「魔王オスヴァルト・ドゥンケルについて、事前情報との乖離あり。侵略的意図の有無について再評価が必要と判断する」


 ――魔王に体裁の心配をされた。運営人生で一番屈辱的なフィードバックだ。


 しかし同時に、レティシアの中でプロデューサーとしての勘が囁いていた。あの男は、話が通じる。数字が分かる。体裁を気にするということは、組織を背負っているということだ。組織を背負う者は、交渉のテーブルにつける。


 魔導記録板を閉じ、ランプの灯を落とす。隣の天幕からリーナの寝言が聞こえた。「……第二始祖の……魔力構造が……」。寝ても覚めても研究のことしか考えていない友人に、レティシアは小さく笑った。


 あの魔王が見せた一瞬の光――五大始祖の記録について語ったときの、あの赤い瞳の輝き。あれは、リーナが遺跡を見つけたときの目と同じだった。語りたいのに語る相手がいない。知っているのに、知っている者がいない。千年の孤独が、一瞬だけ綻んだ光。


 レティシアは暗闇の中で目を閉じた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ