聖女と勇者
模擬戦が始まった瞬間、空気が変わった。
エステル・グラーティアは遊びの延長で挑んでいるのではない。レティシアにはそれが分かった。全スキル最終段階解放済みの聖女が、その全力を出すとどうなるか。事前資料の数字は知っていたが、目の当たりにするのは初めてだった。
浄化の光が弧を描く。地面を這うように白い光の奔流が走り、カイの足元を薙ぎ払おうとする。カイが一歩横に動く。光が空を切る。
結界術の壁が瞬時に展開される。前後左右、四方を硬質な光の壁が包囲する。逃げ場はない――はずだった。カイはふらりと上を見上げ、壁の上端を蹴って跳躍した。結界の天井が閉じるより一瞬早く。
「お、高い。景色いいね」
空中で笑うカイに、エステルの目が見開かれる。しかし手は止めない。祝福による身体強化を三重に重ね掛けし、自らの脚力を数倍に引き上げ、地面を蹴って追撃する。白銀の残像が空を駆けた。
レティシアは息を呑んだ。これが廃課金の聖女の全力。累計献金額、国家予算の一割。その数字が、目の前で光と力に変換されている。
しかし――
カイは、そのすべてを初期装備の革鎧のまま、涼しい顔でかわし続けていた。
一発も当たらない。
速度も、出力も、技術も、エステルは申し分ない。むしろ歴代の聖女の中で最高峰だろう。それでも当たらない。カイの動きは、予測できないのだ。訓練で培われた動作パターンでもなく、理論に基づく最適解でもない。ただ自然に、水が岩を避けるように、風が木の葉を運ぶように、攻撃の間を流れていく。
リーナが隣で魔導記録板に猛然と書き込んでいた。
「嘘でしょ……勇者の魔力回路、理論上ありえない構造してる。回路の分岐がない。一本道で全身に循環してるんだけど、それって効率で言えば最悪なはずなのに、むしろそれが身体能力の制限を外してる。これ論文三本分のデータだよ!」
「今それどころじゃないんですが」
レティシアの声は冷静だったが、目は戦場から離せなかった。カイの強さは知っていた。資料上の数値では歴代最高だった。しかし数字と目の前の光景は違う。この男は、強いのではない。強さという概念の外側にいるのだ。スキルポイントを振らず、装備を使わず、それでもなお――いや、だからこそ。余計なものを纏わないからこそ、素の才能が剥き出しになっている。
SSRキャラの初期ステータスが、フル強化の別キャラを凌駕している。前世で開発チームが「バランスブレイカーだ」と頭を抱えた案件そのものだ。
エステルは追い詰められていた。いや、戦況だけを見れば追い詰められてはいない。自分の攻撃が一発も当たらないだけで、体力も魔力もまだ残っている。しかし精神が追い詰められていた。
全てを賭けてきた。幼い頃から。父の期待に応えるため、大司教家の名に恥じぬため、膨大な献金と修行の時間を重ねてきた。その総量が、目の前の男の「まあなんとかなるっしょ」に届かない。努力では埋められない才能という名の絶壁が、今、目の前にある。
届かないと認めることは、自分の人生を否定することだった。
だから――エステルは、禁じ手に手を出した。
全スキル同時発動。
祝福、回復、浄化、結界。すべての聖女スキルを同時に、最大出力で解き放つ。制御限界を超えた魔力が体内で暴れ、白銀の光がエステルの全身から噴き出す。空気が震え、地面が割れ、周囲の木々の葉が一瞬で蒸発する。
「エステル!」
カイの声に、初めて鋭さが混じった。
しかし遅かった。制御を失った魔力は術者自身を食い始めていた。浄化の光が味方を識別せず周囲の森を灼き、その熱がエステル自身の体を蝕む。最高レアリティの聖具が悲鳴のような軋みを上げ、一つ、また一つとひび割れていく。
「まずい! 魔力が術者を食ってる!」
リーナが叫んだ。学術的な興奮は消え、その声には純粋な恐怖があった。
レティシアが即座に判断した。
「撤退を――」
その指示が完了するより早く、カイが動いた。
暴走する光の渦中に、素手で踏み込んだ。
初期装備の革鎧が焼け焦げた。肌を浄化の光が灼いた。腕に火傷の痕が走った。それでもカイは止まらなかった。エステルの前に立ち、暴走する魔力の光を浴びながら、その両手を握った。
溢れ出る魔力が、カイの体を通って流れ、散っていく。リーナが息を呑む。「魔力を自分の体で受け流してる――ありえない、人体がフィルターになるなんて、理論的には――」
カイの声だけが、静かだった。
いつもの緩い口調ではなかった。一切の抑揚がない、しかしどこまでも穏やかな声。
「大丈夫。止まるよ、これ」
それだけだった。
たったそれだけの言葉で――暴走が収まった。エステルの体から溢れ出ていた光が、潮が引くように鎮まっていく。荒れ狂っていた魔力が凪ぎ、砕けかけた聖具の軋みが止まる。静寂が戻ってきた。焼け焦げた草の匂いと、夕暮れの風だけが残った。
エステルは膝から崩れ落ちそうになり、カイに支えられた。視界がぼやけている。意識が遠い。しかし目の前に、焼け焦げた革鎧と、腕の火傷と、それでも笑っている金色の髪の男がいることだけは分かった。
「エステルの魔法、すげー綺麗だったよ」
カイが言った。いつものあの、のんびりとした声で。
「あの光、星みたいだった」
エステルの呼吸が止まった。
綺麗。星みたい。
褒められた。
それは献金額の話ではなかった。スキルの段階の話でもなかった。投資の成果の話でもなかった。
魔法そのものを。エステル・グラーティアが放った光そのものを、この男は「綺麗だ」と言った。
父は褒めなかった。いつも「それだけの献金に見合う成果か」と問うた。神殿の司教たちは称賛したが、それは「最大の資金源」に対する追従だった。評価されるのはいつも数字――献金額、スキル段階、聖具のレアリティ。エステル自身の魔法を、光を、「綺麗だ」と言った人間は、十九年の人生で一人もいなかった。
言葉が出ない。
喉が詰まる。視界が滲む。涙だと気付いたのは、頬を伝い始めてからだった。聖女の表情管理が、生まれて初めて、完全に崩壊した。
「ちょ、え、泣いてる? 俺なんか変なこと言った?」
カイが慌てている。エステルは首を横に振った。言葉にならない。泣き顔を見せまいと顔を伏せるが、涙は止まらなかった。
レティシアはその光景を、少し離れた場所から見ていた。
心の声が、いつもの毒舌を忘れていた。
――これは。恋愛イベントのフラグが立った音がする。
一拍置いて、現実に戻る。
――報告書には絶対に書けない。
隣ではリーナが魔導記録板を抱えて興奮していた。
「ねえレティシア、今の魔力暴走のデータ取ったんだけど、あの勇者の魔力吸収パターン、古代文献に出てくる『始祖の器』の記述と酷似してるんだよ! これ学術的に――」
「今じゃない」
「えー」
レティシアはリーナの肩を押して、エステルとカイから距離を取らせた。今この瞬間は、学術データを語る場面ではない。二人だけの時間が必要だ。それくらいは、元プロデューサーでなくとも分かる。
焚き火の傍で、カイが自分のマント――昼寝用に使っていた祝福のマントを、泣いているエステルの肩にかけた。
「寒いでしょ。これあったかいんだよ」
「……っ、これ、勇者様が使わないって言った……」
「うん。でもエステルが寒そうだったから」
エステルの涙が、少しだけ質の違うものに変わった。
その夜、レティシアが報告書を書いていると、エステルが訪ねてきた。目元はまだ赤かったが、表情管理は復旧していた。
「運営さん。本日の模擬戦について報告を」
「聖女様、それは私が書きますので――」
「わたくしの暴走で森を焼いた事実は記録に残してくださいまし。勇者様の火傷も、わたくしの責任です」
レティシアは少し驚いた。隠蔽を頼みに来たのではなかったのだ。
「……承知しました。ただし、報告書の表現は任せていただけますか」
「お願いしますわ」
レティシアは書いた。「聖女による出力限界試験を実施。想定外の魔力放出が発生し、勇者が現場対応により鎮静化。聖女・勇者ともに軽傷。森林への損害は限定的(復旧計画書は別添)」。嘘は一行も書いていない。しかし真実の温度は、記録の言葉では伝わらない。
翌日から、エステルのカイに対する態度が変わった。
怒りは消えていない。スキルポイント未振りへの苛立ちも、装備を使わないことへの不満も健在だ。しかしその中に「理解したい」という感情が混じり始めた。エステルはカイの行動を記録するようになった。戦闘時の動き、食事の好み、釣りのときの集中力、魔物と遭遇したときの反応速度。銀髪の聖女が手帳に何かを書き込んでいる姿が、日常の風景になった。
「聖女様、それは何を?」
レティシアが尋ねると、エステルは紫の瞳を持ち上げた。
「勇者の能力分析ですわ。あの方の戦闘パターンを解析すれば、スキル配分の最適解を導けるはずです」
「……能力分析、ですか」
能力分析にしては、「今日は川魚を三尾食べた」「夕陽を見ながら笑った」「子供に手を振っていた」という記述が多いようにレティシアには見えたが、指摘はしなかった。
旅は続く。街道を行くカイは相変わらず各地の名産品に目がなく、行く先々で「これ美味いよ」と土産を買っては配り歩いた。リーナには古代の紋様が描かれた焼き菓子を。レティシアには胃に優しい薬草茶を。そしてエステルには、その土地の一番甘い干し菓子を。
「エステル、これ食べてみ。この街の干し芋、すっごい甘いんだって」
「受け取るのは分析のためですわ」
エステルは干し芋を受け取り、一口齧り、二口齧り、気付けば三袋を完食していた。レティシアは魔導記録板にそっと書いた。
――分析のために干し芋を三袋食べる聖女を、私は他に知らない。
リーナが横から覗き込んだ。
「レティシア、何書いてるの?」
「業務記録です」
「干し芋の消費量って業務記録なの?」
「兵站管理の一環です。食料の消費ペースは重要なデータですから」
「レティシアって時々すごい真顔で嘘つくよね」
嘘ではない。真実の角度が独特なだけだ。
ある日の夕暮れ、レティシアは丘の上から見下ろした。夕日に照らされた野営地。焚き火の傍でカイが魚を焼いている。エステルがその隣に座り、手帳に何かを書きながら時折カイの横顔を盗み見ている。少し離れた場所ではリーナが松明の灯りで古代文献を広げ、虫除けの結界を張るのも忘れて没頭している。
前世であれば、レティシアはこの光景を「カオス」と呼んだだろう。勇者は釣り竿を振り回し、聖女は恋愛感情を分析と誤認し、学術顧問は魔物の領域に片足を突っ込んでいる。予算は常にぎりぎりで、予定通りに進んだ日は一日もない。
けれど――
これは、レティシアが前世で失ったものでもあった。
前世の職場には焚き火はなかった。夕日を見る暇もなかった。同僚の顔を見ることすら、退職の挨拶メールで済ませた。過労死の直前、最後に見たのはパソコンのモニターだった。
レティシアは魔導記録板を閉じ、丘を降りた。
「レティシア! 焼けたよ、食べるでしょ?」
リーナが手を振っている。カイが「魚余ってるよー」と笑い、エステルが「運営さんの分も確保してありますわ」と言う。
「……いただきます」
焚き火に手を翳す。温かい。
報告書の末尾に、今日もまた一文を書き足す。「プロジェクトは予定より遅延しているが、パーティの連携は改善傾向にある」。
それは数字では証明できない、ただの実感だった。けれどレティシアは、それを記録した。
前世では記録することを忘れていた、小さなことを。




