廃課金聖女
魔王討伐プロジェクトの勇者パーティには、神殿から聖女が一名派遣される。これは数百年来の慣例であり、聖女は勇者の回復・支援を一手に担う重要な役職だった。
レティシアは聖女の事前資料を開き、目を通し、そして硬直した。
エステル・グラーティア。十九歳。大司教家の令嬢。
そこまでは予想の範囲だった。問題はその先だ。
神殿への累計献金額――王国の国家予算一割相当。祝福スキル、最終段階解放済み。回復スキル、最終段階解放済み。浄化スキル、最終段階解放済み。結界スキル、最終段階解放済み。聖具は全部位が最高レアリティ。
レティシアは資料を閉じ、再び開き、もう一度閉じた。数字は変わらなかった。
前世の言葉で表現するなら――全キャラ完凸、全武器精錬済み、螺旋★36の廃課金プレイヤー。天井は何度叩いたか分からないし、限定ガチャは全て完走。ログインボーナスどころか課金ボーナスの常連。運営が「このユーザーにいくら使わせたんだ」と戦慄するタイプの、あの存在。
「……経費がすごい」
それがレティシアの第一声だった。運営責任者としては至極真っ当な感想である。
エステル・グラーティアが合流地点に姿を現したとき、レティシアは自分の目を疑った。
銀髪が風に流れるたび、微細な光の粒子が散る。紫の瞳は宝石のように澄み、白と金の法衣は朝日を受けて眩しく輝いている。全身に装着された聖具の一つ一つが最高レアリティの光を放ち、遠目には歩く宝石箱だった。
「お初にお目にかかります。聖女エステル・グラーティアですわ。勇者様のお力になれることを、心より光栄に思います」
完璧な微笑み。完璧な所作。完璧な聖女。表情の管理は寸分の隙もなく、発せられる声音は春の陽光のように穏やかだった。
レティシアは感嘆した。これだけの装備と技能を揃えた支援役がいれば、少なくとも回復と防御の面では盤石だ。プロジェクトの予算計画にも好影響がある。聖女個人の装備費は神殿持ちだからだ。運営としては理想的な――
「ところで勇者様はどちらに?」
「あちらに」
レティシアが指差した先。カイ・ステラフォードは木の枝に腰掛け、干し肉をもぐもぐと噛んでいた。初期装備の色褪せた革鎧。背中の釣り竿。その足元に無造作に転がっているのは、スキルポイントの未振り通知が点滅している冒険者証だった。
エステルの完璧な微笑みが、凍った。
数秒の沈黙。レティシアはその沈黙の重さを、前世の経験から正確に測った。廃課金ユーザーが無課金ユーザーのプレイ画面を見たときの、あの沈黙だ。
「勇者様」
エステルの声は穏やかだった。穏やかすぎた。
「はい? あ、エステルさん? よろしくねー」
「そのスキルポイント、なぜ未振りなのですか?」
「んー、なんかどれにしようか決めらんなくて」
「……決めらんなくて?」
左眉がぴくりと動いた。リーナがレティシアの袖を引いた。
「ねえ、あの聖女さん、眉が痙攣してるけど大丈夫?」
「たぶん大丈夫じゃありません」
エステルの表情管理に亀裂が入る瞬間を、レティシアは確かに見た。紫の瞳の奥で、信仰と努力と投資額に裏打ちされた矜持が、音を立てて軋んでいた。
「カイ様。あなたの戦闘ポテンシャルは歴代勇者の中でも突出しています。その才能を最大限に発揮するには、スキルの最適な配分が不可欠ですわ。わたくしが配分案を――」
「あ、ありがとう。でもまあ、なんとかなるっしょ」
「なんとかなる……?」
左眉の震えが加速した。
レティシアは理解した。エステル・グラーティアにとって、カイ・ステラフォードの存在は信仰の根幹を揺るがすものなのだ。幼い頃から「努力と投資の総量が力になる」と信じ、膨大な時間と資金を神殿に注いできた。スキルの一つ一つを自分の手で解放し、装備の一つ一つを吟味して獲得してきた。それなのに目の前の男は、何も投資せず、何も装備せず、「まあなんとかなるっしょ」と笑っている。そしておそらく――本当になんとかなってしまうのだ。それが許せない。
エステルは翌日、完璧な「勇者訓練計画書」を作成してレティシアに提出した。
朝五時起床。魔力制御訓練三時間。剣術基礎二時間。スキル振り分け講座一時間。午後は実戦形式の演習。夕食後に座学。就寝前にその日の振り返り。
計画書の完成度にレティシアは純粋に感心した。フォーマットが美しい。KPI設定が具体的。マイルストーンの刻み方が適切。前世の自分の部下にほしかったタイプの人材だ。
問題は、この完璧な計画書の対象者が朝五時に訓練場にいなかったことである。
川にいた。釣りをしていた。
「勇者様! 訓練は!?」
エステルの声が朝靄の川辺に響く。カイは振り返り、にっこりと笑った。
「あ、ごめん。朝靄の川って魚よく釣れるんだよ」
「朝靄の川ではなく朝五時の訓練場にいるべきですわ!」
「でもほら、朝ごはんの魚釣れたよ。エステルも食べる?」
「論点をすり替えないでくださいまし!」
しかしカイが焚き火で焼いている川魚は、脂が乗って皮がぱりぱりと音を立てていた。朝の冷たい空気の中に漂う香ばしい匂い。エステルの腹が、小さく、しかし確実に鳴った。
静寂。
リーナが古代文献から顔を上げた。「あ、聖女さんのお腹鳴った」
エステルの顔が、聖具よりも鮮やかな赤に染まった。
「な、鳴っておりませんわ! いま聞こえたのは……魔物の遠吠えですわ!」
「魔物の遠吠えがぐ〜って言うんだ。新種だね」
「リーナさん!!」
レティシアは一連のやり取りを横目に見ながら、魔導記録板に記録した。「パーティ内コミュニケーション研修(実地):進行中」。嘘は書いていない。彼女なりの真実だ。
それから数日、エステルのカイ矯正作戦が続いた。
スキル振り分け講座を開けば、カイは五分で船を漕ぎ始めた。「このスキルとこのスキルの相乗効果が――」というエステルの熱弁が子守唄になったらしい。エステルの左眉が過去最高速度で震えた。
装備を試着させようとすれば、聖剣を持った瞬間に「やっぱ重いなあ」と三秒で手放す。神鎧は「蒸れる」の一言で却下。唯一、祝福のマントだけは「あったかい」と言って昼寝に使った。エステルの右目が微かに痙攣した。もはや左眉だけでは怒りを表現しきれなくなっていた。
レティシアはその様子を見ながら思った。無課金勢に課金の素晴らしさを説いても無駄だ、と。彼らは彼らなりの遊び方を持っていて、それは外からの矯正では変わらない。前世で学んだ鉄則だった。しかしその鉄則をエステルに伝える術はない。彼女は「この世界の住人」であり、レティシアの脳内用語は通じないのだ。
そしてついに、その日が来た。
エステルが戦闘服で現れた。全身の聖具が臨戦態勢の光を放ち、紫の瞳に宿るのは、もはや怒りを通り越した静かな決意だった。
「勇者様。口で申し上げても伝わらないようですので、実力で教えて差し上げますわ」
宣戦布告。レティシアは額を押さえた。
「聖女様、パーティ内の模擬戦は――」
「ご安心くださいまし、運営さん。殺しはしませんわ」
運営さん。初めてそう呼ばれた。名前ではなく肩書きで。しかも前世の肩書きに限りなく近い響きで。レティシアの中で何かが諦めと共に着地した。
カイは木の枝から飛び降り、木の棒を拾い上げた。
「んー、じゃあ適当にやるよ」
エステルの左眉が震えた。しかしそれが怒りなのか別の何かなのか、このときのレティシアにはまだ判別できなかった。
リーナが魔導記録板を構えた。「異なる戦闘スタイルの衝突データが取れる! レティシア、これ学術的に超貴重だよ!」
誰も止めない。レティシアは報告書の次の行を空白にしたまま、成り行きを見守ることにした。
この模擬戦の結末を、このときの彼女はまだ知らない。




