定時退勤、ならず
和平条約は紆余曲折を経て、王国議会で承認された。
反対派は少なくなかった。「数百年の伝統を覆すのか」「魔族を信用できるのか」「勇者を遊ばせておくのか」――しかしレティシアが提出した数字の前に、彼らは沈黙した。戦闘を継続した場合の年間コスト。和平に移行した場合の経済効果。歴代最少の被害統計。そしてヴィルヘルム・リヒターの監査報告が、そのすべての数字の正確性を裏付けていた。
ヴィルヘルムの報告書の末尾にはこう書かれていた。「本プロジェクトの記録は、歴代最高の精度と一貫性を有する。運営責任者レティシア・ヴィンターの実務能力は特筆に値する」。公文書に個人名を挙げて評価するのは異例のことだったが、ヴィルヘルムは書いた。レティシアの仕事を、誰にも消させないために。
しかし議会の承認を喜ぶ暇はなかった。
大陸各地で、古代遺跡の発光は続いていた。リーナは寝食を忘れて石板の追加解読に没頭し、執務室の床が解読メモで埋め尽くされていた。「ちゃんと食べてる?」とレティシアが聞くたびに「うん、さっきインク舐めた」と答える。インクは食べ物ではない。
オスヴァルトは魔族領の遺跡調査に全力を注いでいた。リーナとの書簡のやり取りが日に三通を超え、もはや二人の「千年越しの読書会」は大陸の命運を左右する共同研究になっていた。リーナが新しい解読結果を送ると、オスヴァルトから補足情報が返ってくる。その往復の中で、古代のシステムの輪郭が少しずつ明らかになりつつあった。
リーナが興奮気味にレティシアに報告した。
「分かってきたよレティシア。勇者・魔王のサイクルは、古代の誰か――おそらく人間と魔族の共同統治機関が設計した安全装置なの。大陸の魔力バランスを維持するために、定期的に大きな魔力を持つ存在を二つ生み出して、ぶつけ合うことで魔力を循環させてた。だからサイクルを止めると、循環が滞って、蓄積された魔力が遺跡を通じて噴出し始める。それが今起きてることだと思う」
「つまり、対処法は?」
「サイクルに代わる新しい魔力循環システムを構築するか、古代のシステムを安全に停止する方法を見つけるか。どっちにしても、人間側と魔族側の両方の知識が必要。私一人じゃ無理。オスヴァルトさんの協力がないと――」
「分かりました。予算を出します」
「早い。レティシア早い。ありがとう大好き」
「予算の申請書は私が書きますから、あなたは研究計画を出してください」
「もう書いてあるよ。三十二ページ」
「…………いつの間に」
「署名式の夜から書いてた」
レティシアは呆れ、それから笑った。この友人は、いつだって研究のことしか考えていない。しかしその「研究しか考えていない」姿勢が、今や大陸を救う鍵になっている。人生というのは分からないものだ。
カイは――相変わらずだった。
「なんかまた面倒なことになってるっぽいけど、とりあえず腹減ったな」
エステルが口を開きかけた。「勇者様、今は食事の話ではなく――」
しかし言い切る前に、自分の腹が小さく鳴った。
「……いえ、確かにお腹は空きましたわね」
カイが嬉しそうに焼き魚を差し出す。今朝釣ったばかりの、脂の乗った川魚。
「はい、エステルの分」
「……分析のために受け取りますわ」
もう誰もツッコまなかった。リーナは解読メモに集中しているし、レティシアは予算書を書いている。「分析のため」がエステルの照れ隠しであることは全員が知っていて、全員がそれを温かく見守っていた。
レティシアは新しい計画書の表紙に手を伸ばした。
「第二次プロジェクト計画書(仮)」
今度の敵は魔王ではない。古代のシステムそのものだ。前例はない。マニュアルもない。予算はゼロからの積み上げ。勇者は相変わらず釣りに行きたがっている。
しかし――メンバーは揃っている。
歴代最強の無課金勇者。全スキル解放済みの廃課金聖女。魔王城の書庫を読める唯一の考古学者。そして、交渉のテーブルにつける魔王。
前世のレティシアなら「無理です。物理的に無理です」と言っただろう。しかし今世のレティシアには、数ヶ月分の記録と、数ヶ月分の信頼と、引き出しの中の手紙がある。
執務室の扉が開いた。
足音で分かった。書簡では分からなかった歩幅の広さ、靴底が石の床を叩く硬質な音。ヴィルヘルム・リヒターが、レティシアの机の横に立っていた。
レティシアは顔を上げた。ヴィルヘルムの表情は相変わらず乏しかった。しかし片眼鏡の奥の灰色の目には、書簡の末尾の一文と同じ温度がある。
「……監査官殿、王宮に戻らなくてよろしいのですか」
「第二次プロジェクトの監査も、私が担当する」
「……また文通になりますよ。現場と王宮では」
レティシアの声は平静だった。しかし心臓は平静ではなかった。
ヴィルヘルムが答えた。
「今度は直接報告を受ける」
レティシアは一瞬だけ目を見開いた。直接報告。つまりヴィルヘルムは王宮に帰らない。ここに残る。レティシアの隣に。
帰還命令が出ていたはずだった。監査局の人間が現場に留まる理由はない。規定にも前例にもない。しかしこの男は――規定と前例を誰よりも重んじるこの男は――それを蹴った。
レティシアは唇の端を持ち上げた。小さく、しかし確かに笑った。
「……では、席を用意します。報告書の量は覚悟してください」
「望むところだ」
ヴィルヘルムの目がレティシアの机の上の計画書に移った。表紙の「(仮)」の文字を一瞥する。
「……(仮)は取れ。計画書に仮はいらない」
その声は事務的だった。しかしその事務的な声の中にある感情を、レティシアはもう読み取れる。筆跡と同じだ。丁寧に書かれた文字と、急いで書かれた文字の差。今のヴィルヘルムの声は――丁寧なほうだった。
横からリーナが顔を出した。石板の欠片を片手に、インクだらけの顔で。
「ねえレティシア、第二次プロジェクトの学術顧問、私でしょ?」
「他に誰がいるんですか」
「やった! じゃあ早速遺跡の調査許可申請書――」
「申請書は私が書きます。あなたは先に研究計画を出してください」
「もう書いてあるよ。三十二ページ」
「……それはさっき聞きました。同じものですか?」
「ううん、改訂版。四十八ページになった」
「…………いつの間に」
リーナが笑う。レティシアは額を押さえるが、口元は笑っている。
窓の外から声が聞こえた。カイとエステルが中庭にいる。
「ねえエステル、この池にも魚いるかな」
「魔王城の池で釣りをしないでいただけますか」
「あ、いたいた。見て、金色のやつ」
「……本当ですわね。綺麗……ではなく、今は遺跡の発光問題について――」
「金色の魚って幸運の印なんだって。エステルにあげるよ」
「……受け取るのは、分析のためですわ」
鐘が鳴った。六つ。定時だ。
レティシアはその音を聞きながら、目の前の計画書に視線を戻した。ヴィルヘルムがもう一枚の付箋を貼っている。「第一節、主語が曖昧」。赤インクの端正な文字。書簡で何度も見た筆跡。それが今、目の前にある。
手紙ではなく、本人が。
「……修正します」
「待て。第三節の数値根拠も確認する」
「まだ第三節は書いていません」
「なら書け。確認する」
レティシアは――笑った。声を出して。
ヴィルヘルムの片眼鏡の奥で、灰色の目がわずかに揺れた。その揺れ方を、レティシアは知っている。書簡の中で何度も想像した表情が、今、目の前にある。
定時の鐘の残響が消えていく。窓から差し込む夕日が、執務室を橙色に染めている。
レティシアは心の中で呟いた。
――鐘が六つ鳴った。今日も定時退勤は、叶わない。
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