着任
レティシア・ヴィンターの今世における人生目標は、煎じ詰めればたった二つだった。
定時退勤。安定した給与。
侯爵家の三女として生まれ、幼少期に前世の記憶が蘇ったとき、彼女が最初に考えたのは「二度と過労死はしない」ということだった。前世――日本という国の、とあるソーシャルゲーム運営会社。肩書きはプロデューサー。担当タイトルのサービス終了告知を書いている最中に意識が途切れ、気がつけば揺り籠の中で侯爵夫人の顔を見上げていた。
あの人生から学んだことは山ほどある。KPIの立て方、ユーザー心理の読み方、炎上時の初動対応。しかし最も身に染みた教訓は、「人間は働きすぎると死ぬ」という、あまりにも当たり前の事実だった。
だからこそ宮廷書記官という職を選んだ。地味で、目立たず、しかし確実に定時で帰れる仕事。書類の山を捌くのは前世の得意分野だし、貴族社会の派閥争いも「ユーザー間トラブルの調停案件」と思えばどうということはない。侯爵家の三女という立場は社交界では空気同然で、それがまた心地よかった。大規模イベントの企画を任される心配もなければ、緊急メンテナンスで深夜に叩き起こされることもない。
平穏だった。
そう、あの日の朝までは。
「レティシア・ヴィンター書記官。国王陛下がお呼びです」
宮廷の廊下で呼び止められたとき、レティシアの脳裏に一瞬、前世の記憶がフラッシュバックした。上層部からの突然の呼び出し。金曜夕方の緊急会議。あのときもこんな風に、穏やかな声で死刑宣告は告げられたのだ。
王座の間で待っていたのは、白髭の国王と、壁一面に貼られた大陸の地図だった。地図には赤い旗が何本も刺さっており、魔族領との境界線が不穏に光っている。
「レティシア・ヴィンター。そなたを魔王討伐プロジェクトの運営責任者に任命する」
心の中で何かが音を立てて崩れた。定時退勤の夢が、ガラス細工のように砕け散る音だった。
「陛下、僭越ながら。歴代の運営責任者は将軍や大臣級の方々が務めてこられたかと存じます。一介の書記官である私には――」
「今回は実務ができる者が必要だ。そなたの書類処理能力は宮廷随一と聞いている」
褒められている。確かに褒められている。しかしそれは「あなたは社畜として優秀だ」と言われているのと何が違うのか。
断る選択肢を探した。探したが、なかった。国王直々の任命を辞退するということは、すなわち貴族としての社会的死を意味する。前世は過労で物理的に死んだが、今世では社会的に死ぬらしい。どちらにせよ死ぬのであれば、せめて給与が出る方を選ぶのが元プロデューサーの性分だった。
「――承知いたしました」
口ではそう言った。心の中では盛大に叫んでいた。
聞いてないんですけど。
着任初日。レティシアは魔王討伐プロジェクトの執務室――というには埃っぽすぎる部屋に足を踏み入れ、机の上に積まれた書類の山を見て絶句した。
予算書は三期分未整理。補給路の計画書は白紙。同盟国への進捗報告は二ヶ月滞納。前任者が残した引き継ぎメモには「後は任せた」とだけ書かれており、レティシアは前世で何度も見た光景を思い出した。サービス開始直前にディレクターが逃亡したあの日と、状況がまるで同じだった。
「これは……」
魔導記録板に現状を書き出していく。予算の未処理額、書類の滞留件数、人員の過不足。数字が揃うにつれ、頭の中で前世のプロデューサーとしての自分が目を覚ましていくのを感じた。これはもはや業務ではない。緊急メンテナンスだ。
そして問題はまだあった。学術顧問の席。魔族の戦力分析と古代魔法の知識を提供する重要なポストだったが、本来就任するはずだった王立学院の教授が当日辞退したのだ。理由は「健康上の問題」。レティシアは直感した。嘘だ。魔王討伐の危険を嫌がっただけだろう。前世でもリリース直前に「家庭の事情」で辞める人間はいた。
ため息をつきかけたとき、執務室の扉が勢いよく開いた。
「レティシア! 聞いたよ、魔王討伐プロジェクトの責任者になったんだって!?」
赤みがかった茶髪のショートボブ。大きな丸眼鏡の奥できらきらと輝く琥珀色の目。白衣のポケットから古代文字のメモがはみ出している。手にも頬にもインク汚れ。
リーナ・コデックス。宮廷書記局時代の同僚にして、レティシアの唯一の友人。
「……リーナ、なぜここに」
「学術顧問、私がやる!」
即答だった。レティシアは額を押さえた。
「あなたの専門は魔導考古学でしょう。軍事作戦の顧問とは――」
「魔族領の遺跡に立ち入り許可が出るんでしょ? このプロジェクトに参加すれば。ねえ出るんでしょ? 出るよね?」
志望動機が観光。レティシアは心の中で長い長いため息をついた。しかし否定できない事実がある。リーナの古代魔法に関する知識は本物だった。書記局時代、昼休みに古代魔法陣の解読をしているところを目撃したのが二人の付き合いの始まりだ。あのとき彼女が解読していた第三紀の防御魔法陣は、学院の教授たちが十年かけて挫折したものだった。それを昼休みの片手間で。
「……条件があります。研究目的の単独行動は厳禁。報告書は定時に提出。遺跡を見つけても許可なく触らないこと」
「わかったわかった! やったね、レティシアと出張だ!」
「出張じゃありません。討伐です」
「魔族領の遺跡、実地で見られるんでしょ? 最高じゃない!」
レティシアは魔導記録板に静かに書き加えた。「学術顧問:リーナ・コデックス(動機に難あり。能力は確か)」。この時点で既にプロジェクトの先行きが見えた気がしたが、見なかったことにした。
さて。スタッフの問題はとりあえず保留として、最も重要な案件が残っている。
肝心の勇者が、行方不明だった。
カイ・ステラフォード。神託により勇者に選ばれた青年。農村出身。戦闘の才能は歴代勇者の中でも突出している――と、事前資料にはある。しかし神託を受けた翌日から連絡が途絶え、王都の宿にも実家にも姿がない。捜索隊を出して三日。ようやく判明した居場所は、王都から馬で三日離れた山間の湖だった。
「……釣り、ですか」
報告を受けたレティシアの声は、静かだった。静かすぎた。隣のリーナが一歩後ずさるほどに。
出発は翌朝。レティシアとリーナは馬車を手配し、湖を目指した。道中、街道沿いに崩れかけた石造りの遺構が見えた瞬間、リーナが馬車から身を乗り出した。
「あ! あれ第二紀の境界標石じゃない!? ちょっと寄っていい!? 五分だけ!」
レティシアはリーナの白衣の襟首を掴み、無言で引き戻した。
「ぐえっ」
「五分が五時間になることは書記局時代に学習済みです」
「三十分……」
「却下です」
湖に到着したのは、夕刻の手前だった。
西日を受けて琥珀色に光る水面。静謐な山間の空気。その岸辺の岩の上に、一人の青年が座っていた。
金髪碧眼。長身。物語の挿絵から抜け出したような端正な顔立ち。しかしその顔に浮かんでいるのは神に選ばれし者の威厳でも使命感でもなく、のどかな午後を楽しむ少年のような笑み。背中に背負っているのは聖剣ではなく、釣り竿。足元には魚を入れた籠が一つ。初期装備の革鎧は着古されて色褪せ、どう見ても王国が誇る最終兵器には見えなかった。
「勇者カイ・ステラフォード様ですね。魔王討伐プロジェクト運営責任者のレティシア・ヴィンターです。プロジェクトの件でお話が――」
「あ、ごめん。今いいとこなんだ」
カイの目は湖面の浮きに注がれたままだった。
「こっちの魚、夕方になると活性上がるんだよね。もうちょいで――」
その横でリーナが全く別方向に興奮していた。
「ねえレティシア、この湖、周囲の岩盤の紋様が第一紀の祭祀場と一致してる! 湖底に魔法陣があるかも!」
レティシアは二人の間に立ち、深く、深く息を吸った。
――これは、知っている。
記憶が蘇る。前世の記憶が、嫌になるほど鮮明に。サービス開始直後、メインストーリーを全無視してミニゲームにハマるユーザー。課金もしない。イベントも走らない。でもログインだけは毎日する。そしてたまに、運営が想定していない遊び方でゲーム全体のバランスを崩壊させる。
一番厄介なタイプだった。
それでもレティシアは任務を果たす人間だ。前世でもそうだった。だから今世でも、何とかしてこの勇者を王都に連れ帰った。説得に使ったのは「王都の市場に珍しい魚料理の屋台がある」という情報だった。我ながら運営として正しいアプローチだと思う。ユーザーのモチベーションに合わせた導線設計は基本中の基本だ。
王都に戻り、装備一式を支給する。聖剣。神鎧。加護の盾。祝福のマント。どれも国家予算を注ぎ込んだ一級品。
カイは聖剣を持ち上げ、二秒で下ろした。
「重いなあ」
神鎧を試着し、三秒で脱いだ。
「蒸れる」
加護の盾に至っては手に取りもしなかった。
「片手塞がるし」
「勇者様。これらの装備には国家予算の――」
「んー、でも俺、素手のほうが動きやすいんだよね。革鎧も着慣れてるし。まあいっか」
まあいっか、ではない。レティシアは奥歯を噛み締めた。国家予算の三パーセントが「まあいっか」で片付けられようとしている。前世で言えば、全キャラコンプの廃課金装備を倉庫に放置して初期キャラで高難度に突っ込むユーザーだ。しかも大体そういうユーザーに限ってクリアしてしまうから腹が立つ。
レティシアは装備一式を荷車に積んだ。いつか必要になる日が来る。前世の経験上、こういうユーザーは詰んでから初めて装備の重要性に気付くのだ。そのときのために、運営が保管しておく。それが仕事だ。
出発の朝。荷車の積載量が明らかに増えていた。
「リーナ。なぜ荷車に資料箱が三つ増えているんですか」
「道中で読むから」
「道中で読む必要がある資料が三箱もあるんですか」
「足りないくらいだよ。本当は五箱持っていきたかったんだけど」
レティシアは何も言わずに馬車に乗り込んだ。
その夜、最初の報告書を書いた。着任から数日間の現状報告。予算状況、人員配置、補給路の計画案。すべてを簡潔に、正確に記した文書の末尾に、レティシアは一文だけ私見を添えた。
「本プロジェクトの最大のリスク要因は、敵ではなく味方である」
羽根ペンを置き、窓の外を見る。月明かりの下、カイが宿の裏手で夜釣りをしている。隣ではリーナが松明の灯りで古代文献を読み耽っている。
レティシアは静かに目を閉じた。
――前世と同じだ。サービス開始初日から炎上の気配がする。
けれど前世と違うことが一つだけある。今世では、過労死する前に辞表を出す権利がある。
もっとも、その辞表を受理してくれる上司が国王である以上、それも叶わぬ夢だということに気付いたのは、馬車が王都の門を出てからだった。




