【短編】貸した本
好きでもない男から言い寄られるのは苦痛だが、好きな男からならいいのかというと、そうでもない。私が好きな男は、私のことを好きではないというのが、私を異常に燃えさせる。
恋愛にしても結婚にしても、燃料が必要だ。薪をくべるならそれで、ガソリンならそれで。燻っている情念のようなかたちのないものに、輪郭を与えるのは、執着心だと思う。
―と、メモと手紙の間のようなもの、物質的には正方形5cm角程度の付箋紙に小さく癖のない字でびっしりと書かれていた。
本の間に挟まれていたのだ。この本は長谷部俊也が喜田祥子に貸したものだ。貸した本が返って来た。陳腐なミステリ―小説だ。その小説のクライマックスあたりに、この付箋紙だ。
長谷部が祥子と不倫関係に陥ったのは交通事故のようなものだと、祥子の方がよく言っていた。長谷部は専業主婦の妻と小学五年生の娘がいるごく普通の会社員だ。「ごく」というのが何を基準としているのかは、主体次第だが、42歳でマイホームのローンがまだ20年近く残っていて、会社では課長で、部長とは馬が合わず、最近腹が出てきたぐらいの「ごく」普通さの代表のような男だ。
会社の新人歓迎会で二軒目に行こうとなり、長谷部はみんなと別れて一人いつもの立ち飲み屋へ向かった。飲み直しに、しゃれたバーなど不要だった。炭水化物を適当につまみながら、焼酎をやり直したかったのだ。L字壁で囲まれたカウンター。今は禁煙だが、タバコのヤニがこびりついている。
隣りに、喜田祥子がいた。店舗営業部の副主任だ。長谷部の会社は平たく言うと飲食業で、カフェの直営店舗とFCを運営している。祥子はその直営店舗で顧客対応に長けたスタッフ兼運営側の社員だ。起業の楚となった本店では、店長を任されている。
長谷部はFCのオーナーを募り、そのロイヤリティと引き換えに、屋号やレシピ、運営方法などを提供する。社内では
長谷部と祥子は月一回の本部会議で一緒なる程度だった。その二人が「大人のつきあい」を一年ほど続けていた。
祥子のマンションに出入りし、妻と別れるだの、別れたら結婚しようだの、ソファーを新調して、それに合う家を買おうだの、祥子に詰め寄られるたびに、長谷部はその場しのぎの「その場」を重ねた。
最後には刃傷沙汰にまでなり、長谷部は転職を機に祥子と別れた。別れたというのは、離婚でなければ双方合意でなくても成立する。
一方付き合うというのは、双方合意でないと成立しない。だが、重ねたその場の数が澱のように積もる。それは時間と我が意にならない相手と自分の熱量、三つが掛け合わされて、怨念のようになるのだと、長谷部はこの分厚い付箋紙を手にしながら思った。単なる思ったというよりも、後悔と疑念。
喜田祥子は半年前に亡くなったからだ。祥子が亡くなったのは、自死だと聞かされていた。元同僚の石水圭吾から連絡があったのだ。石水は祥子に惚れていた。同じ部署で部下の祥子からは、プライベートでは全く相手にされていなかった。連絡先でさえ聞き出すことができないのにもかかわらず、
祥子は自分のことを好いていると思い込んでいた。傍から見ていても、誰もがわかるほどにわかりやすい鳥の求婚のようでもあった。石水には雄としての美しい羽や雄々しいたてがみ、そんなものはなかった。だからといって、長谷部にそれらが備わっていたのかは別だ。祥子は長谷部を選んだのは、独身の石水よりも既婚の長谷部というところにあるのかもしれない、と長谷部はこの付箋紙を眺めながら逡巡する。
返って来た本は文庫本だ。ビニール袋に詰め込まれて、真空みたいにぴっちりとテープ留めされ、A4サイズの封筒にゴソゴソになりながら入れ込まれていた。几帳面なのか粗雑なのか、つかみどころのない祥子のようでもあった。
だが、死んでいるのだ。そんな人間から、いや死人から、本と呪いのようなメモがかえってくるとは俄かに信じがたい。
有休をわざわざとった。簡易書留の不在ハガキを持って、郵便局に出向いた。送り主が喜田祥子となっていたからだ。マンションの郵便ポストをチェックするのは長谷部の役割だ。会社から帰ってきたら、ポストにたまったチラシやDMを取り出す。新聞はとっていない。
そこで見つけた喜田祥子の名前。背筋が強張り、そのあとに冷たい汗が背中を指先でツーっと焦らされるように触れられる感覚、不覚にも祥子を思い出した。
長谷部は祥子と別れてからは、女に手を出すことはなかった。潜めていた。落ち着くまでは、余計なことはしない。祥子とのいざこざは、妻の耳に入るのは間近だった。家の側にまで来ることも何度かあったからだ。
祥子が初めての不倫相手ではなかったし、妻が身重な頃には、若い女から年増の女まで節操鳴く、美しく見せた羽を広げていた。
有休を取ったことは妻には教えていない、会社に行く体で、郵便局に向かったものだから、長谷部は自宅と会社の間にある喫茶店でこの文庫本と祥子の付箋紙を並べて、睨んでいる。
電話が鳴る、会社からでもないし、妻からでもない。祥子だ。喜田さんと表示されている。死んだからといって電話番号を抹消してしまうと、もしかかってきたときにうっかり取ってしまうからだ。別れた女の電話番号は苗字だけにして残している。
テーブルに広げた文庫本と付箋紙を奪い去るようにつかみ、通勤用のリュックに押し込む。スーツではないジャケットにジーンズというスタイルは、休日のお父さんのようにも見える。境界線のないファッションだ。
10コールで留守番電話に変わる設定だ。8コール目で出た。
「もしもし」
「お久しぶりです、祥子です」
「喜田さん、どうして」
「喜田だなんて、よそよそしい」
電話越しの声は、祥子の甘ったるい声だと長谷部は思った。
「死んだって、聞いてる」
「地獄にも電話ってあるのよ」
「冗談はよせ」
「冗談じゃないわよ」
長谷部は電話を切ろうと思うが、このまま切ってはこの一連の謎が解けないままだ。また家に祥子から郵便物が送られてきては困る。娘にも妻にも何かあっては困る
「死んだ人間から電話も郵便も、信じがたいが信じたとする。で、もうやめてくれないか」
喫茶店「太陽のリバー」の新調したばかりの幌が風を受ける。入口前に立って、電話をする長谷部を邪魔そうに、カップルが避けながら店内に入る。
「死んだんなら、死んでろよ」
比較的大きな声で怒鳴った。道行く人はまばらであったが、数人はいた。だが誰も振り返りもしない。
「私のこと、愛してはいないのね」
電話から、恋人と別れるときのような、未練を残した声、引き留めて欲しいと懇願する声が聞こえてくる。長谷部は
「愛してなどいない、最初から」
長谷部がそういうと
「そう」
とだけ素っ気ない返事があった。
沈黙が十秒ほど続く。永遠の沈黙なのか、このまま電話を切るのがいいのかと長谷部が辺りを見回しながら、思考する。
思考の隙間に、違和感が入り込む。視覚から入り込んだ違和感は、違和感ではない。現実なのだ。アスファルトが熱せられて溶けているように見える、きっちりと剪定されたばかりと思える街路樹がUの字に折れ曲がる。空と地面の距離が狭まる。
眩暈か、と思った瞬間
「眩暈じゃないわよ。じゃぁね」
こちらの様子がわかっているかのような祥子の言葉
「見えてるのか?」
「もういいわよ」
「どういうことだ」
「死んだんなら、死んでろよ」
電話越しに確かに聞こえた。
思い出した。
妻と言い合いになって、取り乱して、ベランダから飛び降りた。そうだ、飛び降りたんだ。ダイニングテーブルには、喜田祥子からの返された文庫本と付箋紙、それにあの封筒はなんだっけ、そう、手紙だ。祥子から妻に宛てた手紙だ。それを読み上げながら、口論になったのだ、思い出した。
祥子の電話が切れた。長谷部は「今自分が死んだ」と、はっきりとわかった。




