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九十九経営コンサルティング、今度は『異世界転生課』を承ります  作者: 神楽坂 湊


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File22.実印の引退宣言と、デジタル社会における魂の捺印について

「九十九さん、私の手、見えますか?」


咲耶が窓から差し込む朝日の中で、自分の掌をかざして問うた。 彼女の手は昨日よりも明らかに薄くなっていた。 向こう側のカップの柄がうっすらと透けて見える。 神性値の低下による存在の希薄化。 タイムリミットである満月まで、残された時間はあと三日。


「見えていますよ」


私は新聞をめくりながら答えた。


「君の手相、生命線が途中で切れて、そこから無理やりマジックで書き足したみたいになっていますね」


「それ、九十九さんが以前の案件で運命を書き換えるペンを使った時の跡じゃないですか!」


咲耶がふくれっ面をする。 その表情はいつも通りだが、声には焦燥が滲んでいた。 天界を納得させるだけの「特大の案件」。 そう簡単に転がり込んでくるものではない。


だが、事態は向こうからやってきた。 それも重苦しい足音と共に。


「失礼する」


事務所の空気が一瞬にして硬直した。 現れたのは朱色の袴を穿いた、厳格そうな初老の男性だった。 背筋は定規で引いたように真っ直ぐ。表情は能面のように硬い。 だがその体からは、朱肉の特有の匂いと、何百年も変わらぬ「重圧」が漂っていた。 今回のクライアント。 日本社会における絶対的な権威、ハンコ――それも『実印』の付喪神、インガ氏だ。


彼はソファに腰を下ろす際も、背もたれを使わなかった。 膝の上に拳を置き、開口一番、こう言った。


「私は、消えるべきなのだろうか」


「消える、とは?」


「DXだ」


彼は苦々しく吐き捨てた。


「デジタルトランスフォーメーション。行政手続きのオンライン化。脱ハンコ。 最近のニュースは私の悪口ばかりだ。 『ハンコのために出社するのは馬鹿げている』 『生産性の阻害要因』 『昭和の遺物』」


インガ氏は朱色の拳を握りしめた。


「私だって好きで邪魔をしているわけではない! 私は覚悟を問うてきたのだ。 家の購入、連帯保証人、婚姻届、遺産分割。 人生の重大な局面で、震える手で私を握り、全体重をかけて捺印する。 『もう後戻りはできないぞ』と、その朱色の一押しで人間に覚悟を決めさせてきたのだ」


確かに。 クリック一つの「同意する」ボタンとは重みが違う。 役所の窓口で、銀行の個室で、あの朱肉の蓋を開ける瞬間の緊張感。 あれは一種の儀式だった。


「だが、今はどうだ」


インガ氏は嘆いた。


「電子署名? クラウドサイン? 便利だろうさ。スマートだろうさ。 だが、そこに『魂』はあるのか? 画面上のPDFにコピペされた印影を貼り付けて、それで一生の誓いと言えるのか?」


彼は懐から一枚の紙を取り出した。 そこにはかつて彼が押したであろう、鮮やかで力強い印影があった。 しかし、その紙の端は破れ、色あせている。


「人間は軽くなった。 約束も、責任も、契約も。 『間違えたらリセットすればいい』 そんな風潮の中で、一度押したら二度と消せない私の存在は、ただの『面倒くさいおじさん』でしかない」


咲耶が透けた手でインガ氏の肩に触れようとして、ためらった。


「……わかります。私も、神様としての威厳とかそういうの古いって言われ続けてきましたから」


インガ氏は寂しげに笑った。


「咲耶さんと言ったか。あんたの手、消えかかってるな。 私と同じだ。必要とされなくなったものは薄れていく。 私は、このまま誰にも押されることなく、引き出しの奥で乾燥してひび割れていくのが怖い。 だから異世界へ行きたい。 私のこの『重み』が、まだ通用する場所へ」


私はカップを置いた。 特大の案件。これ以上のものはないだろう。 彼は日本という国の「信用」そのものだ。


「インガさん」


私は彼を直視した。


「あなたの悩みは、現代社会が『不可逆性やりなおしのきかなさ』を嫌っていることにあります。 失敗したくない、責任を取りたくない。だからいつでも修正可能なデジタルを選ぶ。 ですが、世の中には『絶対に取り消してはならない契約』が必要な場所がある」


「オサキ、案件番号001『誓約の地、ゲッシュ』だ」


オサキが投影したのは、魔法陣が空を覆う厳粛な世界の映像だった。


「この世界では魔法こそが法です。 しかし問題が起きています。 魔導師たちが交わす『契約魔法』が、近年形骸化しているのです。 口先だけの詠唱、抜け穴だらけの契約書。 そのせいで裏切りや契約不履行が横行し、世界が混沌としている」


私はインガ氏の硬い指先を指差した。


「彼らが必要としているのは王の言葉でも、神の誓いでもない。 物理的に、魂ごと刻印する『絶対不変のスタンプ』です。 電子データのような軽いものではない。 一度押せば肉体が滅びようとも、魂レベルで履行を強制させる究極の呪印」


「呪印……」


「ええ。 あなたの朱肉は、向こうではドラゴンの血よりも重い『運命のインク』となるでしょう。 国家間の条約、悪魔との取引、愛の誓い。 全てにおいて、あなたの捺印がなければ効力を発揮しない。 あなたは、その世界の秩序そのものになるのです」


インガ氏がゆっくりと立ち上がった。 その顔から迷いが消えていた。


「秩序の守護者、か。 悪くない。 『とりあえず押しておく』なんて軽い扱いは御免だ。 命がけの覚悟を持った者だけが私を握ることができる。 ……望むところだ」


彼は深々と頭を下げた。 その角度はお辞儀ハンコのように斜めではなく、直角に近かった。


「感謝する、コンサルタント。 私の最後の仕事場を見つけてくれて」


彼が転生ゲートへ向かう時、その足取りは重かった。 だがそれは疲労の重さではない。 責任と誇りが詰まった心地よい重さだった。


彼が消えたあと、テーブルには小さな朱肉入れが残されていた。 蓋には菊の紋章のような装飾が施されている。


「九十九さん、今回の報酬です」


オサキがそれを手に取る。


「クライアントより『確定の朱肉』を頂きました」


「効果は?」


「この朱肉を使って約束を交わすと、『いかなる邪魔が入ろうとも、その約束が必ず実現する』そうです。 たとえ天変地異が起きようが、世界が滅びようが、その予定だけは守られる。 最強のスケジュール管理アイテムですね」


「……天界との交渉に使えそうだな」


私はその朱肉を受け取った。 その時、咲耶が小さく声を上げた。


「あ……。 九十九さん、見てください」


彼女が差し出した掌。 さっきまで透けていた指先が、ほんの少しだが輪郭を取り戻していた。 生命線の途切れも薄くなっている。


日本の伝統的な「契約の神」とも言える存在を救ったことで、天界への貢献度が跳ね上がったか。 あるいはインガ氏の「存在を確定させる力」が、彼女に影響したのか。


「どちらにせよ、首の皮一枚繋がったようですね」


「はいっ!」


咲耶が涙目で笑った。


「私、まだここにいていいんですね。 お茶汲みも、コピー取りも、トイレ掃除もやります! だから、まだ……!」


「いいえ、咲耶さん」


私は立ち上がり、彼女の頭にポンと手を置いた。


「安心するのはまだ早い。 これはあくまで延命措置。 天界の本丸、イスルギとその上層部を黙らせるには、まだ足りない」


窓の外を見る。 満月まであと二日。 空には欠けた月が冷たく輝いていた。


「次だ。 次こそが、最後の勝負になる」


私は朱肉を懐にしまい、まだ見ぬ最後の依頼人を待った。 この事務所の、そして彼女の運命を決定づけるラスト・クライアントを。

登場人物紹介

九十九つくも

 九十九経営コンサルティング所長。『異世界転生課』の最高責任者であり、監査役。クライアント(魂)の深層心理と本当の願望を見抜き、最適な転生先キャリアパスを提示する。緑茶が好き。


◆オサキ

  九十九の有能な秘書兼調査役。九十九の指示で膨大な異世界のデータベースを検索・管理し、主人(九十九)に絶対の忠誠を誓う。稲荷寿司が好き


咲耶さくや

 天界から出向してきた『異世界転生課』の新人担当官(女神)。非常に真面目でクライアント想いだが、致命的にポンコツで泣き虫。とにかく甘いものが好き



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