堕ちた聖剣と汚された祈り
夜の海に浮かぶ巨大な光の城。
それが「海龍商会」が誇る豪華カジノ船『ゴールデン・サーペント号』の姿だった。
船全体が黄金の装飾で彩られ、無数の魔法灯が夜空を昼間のように照らし出している。
甲板からは享楽に酔いしれる人々の笑い声とジャズのような音楽が漏れ聞こえていた。
だが、その華やかな表舞台とは裏腹に船の最深部――VIP専用の特別区画は異様な静寂と甘ったるい紫色の霧に包まれていた。
「出て来い!四天王ラミア!」
バンッ!
と豪快に扉を蹴破り、その空間に踏み込んだのは勇者・佐藤健太だった。
その手には眩い光を放つ聖剣が握られている。
背後には、聖女セレスティーナと数名の精鋭騎士たちが続く。
「ここが悪の巣窟ね……。禍々しい気配がしますわ」
セレスティーナが杖を構え周囲を警戒する。
「ですが、恐れることはありません。わたくしたちの光で闇を払ってみせましょう」
「ああ!クロエさんの無実、俺たちが証明してやるんだ!」
健太が叫ぶ。
彼らの士気は最高潮だった。
道中の雑魚敵を蹴散らし、ここまで無傷で辿り着いた自信が彼らの背中を押していた。
だが。
彼らは気づいていなかった。
その自信こそが最も危険な「隙」であることに。
「あらあら。随分と威勢のいいお客様ね」
部屋の奥。
豪奢なベルベットのソファに一人の女性が横たわっていた。
紫色のドレス(に見える鱗)を纏い、扇で口元を隠した美女。
四天王、『妖艶のラミア』だ。
「貴様がラミアか!覚悟しろ!」
健太が剣を突きつける。
騎士たちが一斉に斬りかかろうとする。
しかし、ラミアは動じない。
彼女は扇をパチンと閉じた。
ただそれだけの動作で、部屋中に充満していた紫色の霧が生き物のように蠢きだした。
「――『甘美なる吐息』」
「うっ!?」
「な、なんだこの甘い匂いは……」
騎士たちがバタバタと倒れていく。
毒ではない。
強力な睡眠と催眠効果を持つ神経ガスだ。
一瞬にして、立っているのは健太とセレスティーナだけになった。
「みんな!?くそっ、やりやがったな!」
健太が聖剣の輝きを強める。
「セレスティーナ!浄化を!」
「は、はい!聖なる光よ……!」
セレスティーナが魔法を唱えようとする。
だが、ラミアは戦おうとはしなかった。
彼女は音もなくソファから立ち上がり、滑るように二人の間へと忍び寄った。
その動きは人間のものではない。
蛇そのものだった。
「……可哀想に」
ラミアの甘い囁きが健太の耳元を撫でた。
「ッ!?」
健太が剣を振るうがラミアは霧のようにすり抜ける。
「本当は貴方が一番強いのに」
ラミアの声が健太の脳髄に直接響く。
「あの料理人に……ユートに見下されて悔しいでしょう?」
「な……!?」
健太の動きが止まる。
図星だった。
口では「師匠」と呼び慕っている。
だが、心の奥底には常に劣等感があった。
何をしても敵わない。
美味しいご飯で餌付けされ、子供扱いされ、守られるだけの自分。
『勇者』として召喚されたはずなのに、一番輝いているのはいつもあの男だ。
「違う……!俺はユートさんを尊敬して……!」
「嘘ね」
ラミアが健太の背後から抱きつくように絡みつく。
「貴方は認めさせたいのよ。あいつに。……いいえ、世界中に。貴方こそが真の勇者なのだと」
「俺が……真の勇者……」
「そうよ。貴方のその剣は、誰かに指図されるためのものじゃない。……もっと自由に、もっとわがままに力を振るえばいいの」
紫色の吐息が健太の吸い込まれる。
彼の瞳から理性の光が揺らぎ始める。
心の奥底に押し込めていた「承認欲求」と「嫉妬」。
その小さな綻びをラミアは強引にこじ開けていく。
「さあ、解放なさい。……貴方の本当の力を」
「俺の……力……」
健太の手から力が抜け聖剣の切っ先が下がる。
その瞳孔が開き虚ろな光を宿し始めた。
「健太様!惑わされてはいけません!」
セレスティーナが叫ぶ。
「邪悪な蛇よ!離れなさい!」
彼女は杖を振りかぶる。
だが、ラミアは今度はセレスティーナの目の前に現れた。
その瞳――『魅了の邪眼』が怪しく輝く。
「……貴女も可哀想な子」
「っ……!」
セレスティーナが金縛りにあったように動けなくなる。
「見ているわよ。貴女のその切ない恋心を」
ラミアの指先がセレスティーナの頬をなぞる。
「貴女の祈りは彼には届かない。……彼は貴女を見ていないもの」
「や、やめて……!」
セレスティーナの顔が蒼白になる。
それは、彼女が最も恐れそして認めたくない事実だった。
ユートは優しい。
だがその優しさは彼女だけに向けられたものではない。
ララにも、クロエにも、ミミにも、アリアにも。
平等に、そして「保護者」として向けられる優しさだ。
彼女が望むような一人の女性としての熱情はそこにはない。
「どんなに尽くしても、どんなに祈っても、彼は振り向いてくれない。……寂しいでしょう?辛いでしょう?」
「私は……わたくしは……!」
「私が、叶えてあげる」
ラミアが悪魔の契約を囁く。
「貴女を『本当に必要とされる聖女』にしてあげる。……彼が貴女なしでは生きられないように。貴女だけを求め跪くように」
「ユート様が……わたくしを求める……?」
セレスティーナの瞳が揺れる。
歪んだ愛欲。
独占欲。
聖女という仮面の下に隠されたドロドロとした感情の奔流。
ユートが忠告していた「心の隙」。
それはあまりにも大きく、そして脆かった。
「そうよ。……こっちへいらっしゃい。ここには貴女を否定する者はいないわ」
ラミアが手を差し伸べる。
セレスティーナは抗うことができなかった。
彼女はふらふらとその手を取り……そしてその瞳からハイライトが消えた。
「……はい。ラミア様……」
「ウフフ……。いい子ね」
ラミアは二人の「操り人形」を侍らせ、満足げに微笑んだ。
勇者の力への渇望。
聖女の歪んだ愛。
それらは今、最悪の形で牙を剥こうとしていた。
「さあ、準備は整ったわ」
ラミアは船の入り口――ユートたちが向かってきている方角を見据えた。
「おいでなさい、最強の料理人。……貴方が育てた可愛い小鳥たちが親鳥を殺す様を見せてあげるわ」
カジノ船の最深部。
そこはもう楽園ではない。
英雄たちが堕ちた絶望の鳥籠だった。




