騒がしい日常と、路地裏の「穀潰し」
あれから、一週間。
俺、ユートの「静かで平穏なスローライフ計画」は、開始早々大幅な軌道修正を余儀なくされていた。
「んがー……すぴー……。……じゅる(←よだれ)。……にく……にく……」
「(……まだ寝てやがる)」
俺は、安宿『旅人の羽』の自室(簡易キッチン付き)で、完璧な湯気を立てる『猪と森キノコのコンソメスープ』の鍋を前に、盛大なため息をついた。
原因は、俺の部屋のドアを「ドン!」と叩くけたたましいノックの音。
ではなく、その音すら立てずに、まるで最初からそこにいたかのように、俺の部屋の食卓(椅子は一つしかない)の前に陣取っている、赤毛のボブカット。
クロエだった。
「(なんで合鍵持ってんだよ、お前……)」
あの日、俺の『和風ステーキ丼』で胃袋を(物理的にも精神的にも)鷲掴みにされたクロエは、宣言通り、俺に弟子入り(?)を果たした。
いや、俺は断固として拒否したはずなのだが。
『ボク、決めたぜ! アンタを「師匠」と呼ぶ!』
『呼ばなくていい。というか、俺はFランクだ』
『うるさい! こんな美味いメシが作れるFランクがどこにいる! 師匠は師匠だ!』
『(メシが理由かよ!)』
そんなやり取り(という名の押し問答)の末、結局、彼女の熱意に俺が根負けした。
彼女も同じ宿(もちろん別の部屋だ。そこは断固として譲らなかった)に移ってきて、俺が作る朝晩の食事を(当然のように)一緒に食べるのが日課になっていた。
宿のオヤジ、なんであんなに簡単に合鍵渡しちゃったんだよ……。
「ん……。ふぁ……。……あ、匂い」
クロエの鼻が、くんくんと動く。
食欲が、彼女の睡眠欲に打ち勝った瞬間だった。
カッと目を見開いた彼女は、寝ぼけ眼のまま、テーブルの上の鍋に飛びつかんばかりの勢いになる。
「メシだー! ユート、おはよう! 今日はスープか! いい匂い!」
「おはよう、クロエ。顔を洗ってこい。あと、ノックくらいしろ」
「えー? 師匠の部屋に入るのに、ノックなんか要らないだろ? 家族みたいなもんだし!」
「(いつから家族になったんだ……)」
俺のツッコミは、すでにスープに夢中な彼女の耳には届いていない。
やれやれと首を振り、俺も自分の分のスープを器によそった。
この一週間、俺たちはコンビ(俺は断じて組みたくなかったが)を組んで、ギルドの依頼をこなしていた。
もちろん、俺の(スローライフ計画に則った)FランクやEランクの地味な依頼ばかりだ。
『薬草採取』
『ゴブリンの幼体討伐』
『下水道のネズミ駆除』……。
だが、その共同作業の中で俺はクロエの才能に気づかされていた。
「(この子、思ったより、ずっと『できる』な)」
彼女は、盗賊としては間違いなく一流だった。
気配の消し方、敵の死角への回り込み方、罠の察知能力。
そのどれもが、Fランクどころか、Bランクの俺(が演じているFランク)を遥かに凌駕している。
(このまま真っ直ぐ成長すれば、確実に上級職……いや、最上級職にだって届くんじゃないか?)
3度の人生(元・勇者、元・大賢者、元・剣聖)で培われた俺の鑑定眼(スキルとは別)がそう告げていた。
まあ、俺が指導する気は毛頭ないが。
俺の専門は、料理と世界救済なので。
「うめー! なんだこれ! キノコから肉汁(!?)みたいな味が出る!」
「それは『肉汁ダケ』っていうキノコだからな。……ああ、そうだ、クロエ」
スープを夢中でかきこむクロエに、俺は本題を切り出した。
「そろそろ、この街を出ようと思う」
「へ?(もぐもぐ)」
「目的は『諸国漫遊の旅』だって、前に言っただろ? ギルドの依頼で路銀も貯まったし、お前のランクもEに上がった。そろそろ旅の準備を始める」
俺の言葉に、クロエはキョトンとした顔でスプーンを止め……次の瞬間、ぱあっと顔を輝かせた。
「マジで!? やったー! 諸国漫遊! つまり、アレだろ!? 各地の美味いモン、食べ放題ってことだろ!」
「(……そっちかよ)」
俺が(スローライフと温泉と、各地の『醤油』の原種を探す)ために計画していた旅は、彼女の脳内では完全に『グルメツアー』に変換されたらしい。
「よし! じゃあ、今日は休養日だな!旅の装備を新調するために、市場に買い出しだ!」
「ああ。それがいい。お前のそのボロボロの革鎧も、そろそろ限界だろ」
森で『闇蛇の牙』に切り裂かれた彼女の装備は、俺が【生活系スキル:裁縫(Lv.MAX)】で応急処置したとはいえ、防御力は皆無に等しい。
「おう! 任せとけ! 武器屋と防具屋、全部回るぜ! ……あ、その前に、屋台の串焼きな!」
「(……やっぱりそっちがメインか)」
俺の(4度目の)青春と、胃袋と、平穏を賭けた戦い。
その計画に、騒がしくて腹ペコで、おまけに(たぶん)純情な、最初のイレギュラーが確定した瞬間だった。
アークライトの市場は今日も変わらず活気に満ちていた。
一週間前、俺が一人で(感慨深く)歩いた石畳のメインストリート。
だが、今日の体感温度はあの日の比ではなかった。
「うおおお! ユート、見ろよ! あの大剣、カッケー! ボクには使えないけど!」
「あ、あっち! 『ドワーフの髭』だ! ギルドの連中が噂してた、いい武器置いてる店!」
「ああっ! 待って! あの匂いは……『揚げイモ』だ! ユート、一個買ってくれよ! なあ!」
「…………」
俺の左腕は、温かく、柔らかく、そして力強い「何か」にがっちりとホールドされていた。
(……近い。近いって、クロエ)
クロエは、あろうことか、宿を出た瞬間から俺の左腕に自分の腕を絡ませまるで恋人同士のように密着して歩いていた。
身長差(俺174cm、クロエ154cm)のせいで、彼女の頭がちょうど俺の肩口あたりにあり、赤毛が動くたびにシャンプー(安宿の備え付けだが)のいい匂いが鼻をくすぐる。
「おい、クロエ。腕、離せ。歩きにくい」
「やだ!」
「なんでだよ」
「だって、師匠、すぐどっか行っちゃいそうなんだもん! 迷子になったら大変だろ!」
(どっちが子供だよ……)
「それに!」と、クロエは俺の腕をさらに強く抱きしめイタズラっぽく笑う。
「こうしてると、ボクがアンタの『一番弟子』だって、周りの奴らにアピールできるだろ?」
(……そういう問題か?)
すれ違う商人や他の冒険者たちが、俺たち(というより、俺)に好奇と嫉妬と生温かい目が入り混じった、非常に複雑な視線を向けてくる。
(うわあ……完全に勘違いされてる。スローライフが、スローライフが遠のいていく……)
だが、そんな俺の心の叫びとは裏腹に、クロエ本人は本当に楽しそうだった。
彼女の15年の人生で、こんな風に、誰かと腕を組んで、無防備に市場を冷やかして歩くなんて時間は、きっと初めてなのだろう。
裏切りと戦いの中にいた彼女が、今、心の底から笑っている。
その快活な笑顔を見ていると、俺の(3周分の経験で枯れたはずの)心も、ほんの少しだけ、温かくなるのを感じていた。
「……はぁ。しょうがないな」
俺は、彼女の好きにさせることにした。
「はいはい。串焼きは後だ。先に武器屋だろ?」
「! おう! さすが師匠! わかってるぅー!」
俺の「適当なあしらい」すら、彼女には肯定に聞こえるらしい。
その表情は、どこまでも穏やかだった。
(まあ……。こういうのも……悪くは、ない、か……?)
俺が、4度目の人生で初めて、そんな「甘い」ことを考えかけたその時だった。
「――ッギャアアアァァッ!!」
大通りの喧騒を切り裂く、甲高い悲鳴。
それは、子供のようにも、少女のようにも聞こえた。
「「!」」
俺とクロエの足が、同時に止まる。
「(……今のは)」
「(……あっちだ)」
俺たちの視線が、大通りから一本外れた、薄暗い路地裏へと向かう。
あの活気あるメインストリートとは対照的な、ゴミや汚水が放置された、不潔な裏通り。
悲鳴は、そこから聞こえてきた。
「……おい、ユート」
クロエの表情から、さっきまでのはしゃいだ笑顔が消えていた。
彼女の(元・盗賊としての)勘が、尋常ではない「何か」を察知している。
その琥珀色の瞳が、獲物を見つけた獣のように、ギラリと光る。
「お、面倒事の匂いだぜ!」
(こら! 目を輝かせるな、こら!)
俺は、駆け出そうとするクロエの首根っこ(革鎧の襟)を片手でひっつかむ。
「ぐえっ! な、何すんだよ、ユート!」
「行くなよ、絶対に関わるな」
俺は、絶対零度の声(スローライフを邪魔するなという強い意志)で釘を刺す。
「はぁ!? なんでだよ! 悲鳴が聞こえただろ!?」
「聞こえたから、行かないんだ。いいか、クロエ。俺の(4度目の)人生訓を教えてやる。この世の面倒事の9割は、『正義感』と『好奇心』でできている。そして、俺たちは、そのどちらも捨てる」
「な、なんてヤツだ! 師匠の風上にも置けないぞ!」
「師匠じゃないと何度言えば……。いいから、行くぞ。武器屋が待ってる」
俺は、ジタバタするクロエ(154cm)を引きずり、その場を立ち去ろうとした。
俺はもう勇者じゃない。
世界の命運(どころか、路地裏の命運)すら背負う気はないのだ。
だが。
俺の耳(カンストした聴覚)は、俺の意志に反して次の音を拾ってしまった。
「――この、穀潰しがァッ!!」
汚い、大人の男の罵声。
それと同時に、肉を打つ、生々しい、鈍い音。
ビクンッ!
俺の足が、止まった。
「(……今のは……)」
「……っせに……! 金にもならねぇくせに、エサだけは食いやがって……!」
(……金にも、ならねぇ……?)
ザワリ、と。
俺の心の奥底、3度の人生でリセットされ続けた、魂の最も深い部分が不快にささくれだった。
「ひ……っ、ごめ、なさ……! ごめんなさい、ウサ……!」
「お姉ちゃんに、手を出すにゃあっ!」
幼い、二人の少女の声。
泣きじゃくる声と、それを庇う、震える声。
俺は、掴んでいたクロエの襟を静かに離した。
「……あれ? ユート?」
クロエが俺の異変に気づいて、不思議そうに顔を覗き込んでくる。
さっきまで「絶対に関わらん」オーラ全開だった俺が、今、完全に足を止め、路地裏の暗闇を凝視していたからだ。
「……ユート……?」
俺の表情は、たぶん、クロエが出会ってから一度も見たことがない顔をしていたんだろう。
普段の「人畜無害」でも、「面倒くさがり」でもない。
3度の魔王討伐を経て、心の奥底に封印したはずの、冷徹な「元・勇者」の顔が、静かに、覗いていた。




