アリアの決意と、精霊の祈り
風が吹いていた。
ガリアン大山脈特有の、肌を刺すような冷たく乾いた風ではない。
それは、春の木漏れ日のように微かで、しかし確かに俺の頬を撫で、ある一点へと誘うような不思議な温かさを持った風だった。
「……チッ。痕跡が途切れた」
俺たちの先頭を走っていたクロエが悔しげに地面を叩いた。
岩場が続くこの辺りは足跡が残りにくい。
おまけにあの薄汚いローブの連中――『深淵の苗床』とか名乗っていたカルト集団は、逃走経路に瘴気を撒き散らしている。
その毒々しい紫色の霧がクロエの鋭敏な嗅覚と【追跡】スキルを阻害していた。
「クソッ!あいつら、どこに行きやがった!このままじゃ、ニワトリエルフが……アリアが!」
クロエが焦燥を露わにする。
「におい、分かんないにゃ……。鼻がビリビリするにゃ……」
ララも瘴気の残滓に鼻を押さえ、苦しげに顔を歪めている。
「ユートさん……アリアさん、怪我をしていました……。早くしないと……」
ミミが祈るように杖を握りしめている。
その手は震えていた。
俺たちの楽しい旅を邪魔し、あまつさえ仲間を攫った下衆ども。
俺の中で千年前の魔王討伐時ですら抱かなかったほどの、冷たく重い怒りが渦巻いている。
だが俺は冷静だった。
いや、冷静にならざるを得なかった。
なぜなら俺には「見えて」いたからだ。
「……クロエ。右だ」
俺は迷うことなく岩場の裂け目を指差した。
「え?でも、そっちは足跡も匂いも……」
「いいから、行け。間違いない」
俺の断定的な口調にクロエは一瞬目を見開きすぐに頷いた。
「……分かった!信じる!」
俺たちは道なき岩場を駆け抜ける。
俺にだけ感じられるこの「風」。
これはアリアが連れ去られる直前、最後の力を振り絞って残した『精霊の道しるべ』だ。
(……アリア)
俺は頬を撫でる風の感触に、彼女の不器用な懸命さを感じていた。
あの恋に恋する暴走娘。
頭の中はお花畑でいつも俺に抱きつこうとしてくる、騒がしいエルフの姫君。
だが、彼女はただ守られるだけの存在じゃなかった。
あの巨岩熊との戦いで見せた戦場を俯瞰する視野。
そして、とっさにミミを庇ったあの勇気。
(……俺にしか感じられない風、か)
精霊使いとしての契約なのか、それとも彼女が口走っていた「愛の力」とかいう非科学的な何かなのか。 どちらでもいい。
確かなのは彼女が俺を信じて、この糸を繋いでくれたということだ。
「待ってろよ。……今、行く」
俺の呟きに応えるように風がふわりと強まった。
その先。
切り立った断崖の影にぽっかりと口を開けたどす黒い洞窟の入り口が見えた。
「あった!あそこだ!」
クロエが叫ぶ。
洞窟からはあの不快な腐卵臭――高濃度の瘴気が、煙突のように吐き出されている。
「間違いないにゃ!あの中から、嫌な匂いがするにゃ!」
ララが牙を剥き出しにして低く唸る。
「行くぞ。……害虫駆除の時間だ」
俺は腰の剣(形だけの装備だが)に手をかけ、殺気を隠すことなくその暗闇へと足を踏み入れた。
***
洞窟の中は外の乾燥した空気とは対照的に、ねっとりと湿り気を帯びていた。
壁面には不気味に発光する紫色の苔がびっしりと張り付き、視界の悪さと相まって生理的な嫌悪感を催させる。
「ヒヒヒ……。素晴らしい……」
「満ちてくる……偉大なる『瘴気の王』の力が……」
奥に進むにつれ、狂信的な呟き声と何かが煮えたぎるような音が聞こえてくる。
そして、最深部の大空洞に出た瞬間。
俺たちの目に飛び込んできたのはおぞましい光景だった。
空洞の中央には、人の骨と汚泥で塗り固められた巨大な祭壇が築かれていた。
その中心。
瘴気の噴出孔の上に一人の少女が、磔にされるように空中に浮いていた。
「アリア!」
ミミが悲鳴を上げる。
アリアの手足は黒い魔力の鎖で拘束されていた。
彼女の美しい金髪は乱れ、あの豪奢な緑の服は所々が裂けている。
肩の傷からは血が滲み、その白い肌を痛々しく染めていた。
だが何よりも深刻なのは、彼女の体から生命力そのものである魔力が祭壇へと吸い上げられていることだった。
「ヒャハハ!来たか、鼠ども!」
祭壇の下であのリーダー格の男が歪な杖を掲げて笑っていた。
「だが遅かったなァ!見ろ!このエルフの純粋な精霊魔力が、我が祭壇の瘴気と混ざり合い最高の毒素へと変貌していく様を!」
「……う、うぅ……」
アリアが苦しげに呻く。
彼女の意識は薄れかけていた。
***
(ここからアリア視点)
寒くて、暗い。
そして、痛い。
体中の力が、泥のような汚い何かに無理やり引き剥がされていく感覚。
まるで冷たい沼の底に、ずぶずぶと沈んでいくような絶望感。
(……ああ、わたくし、死ぬのですか……?)
薄れゆく意識の中でアリアはぼんやりと考えていた。
里を飛び出した時はこんな結末なんて想像もしていなかった。
本の中の冒険は、いつだってキラキラしていて、ピンチになっても最後には必ず素敵な騎士様が助けてくれてハッピーエンドになるはずだった。
(……騎士様……)
ユートの顔が脳裏に浮かぶ。
いつも面倒くさそうな顔をして、でも、わたくしが決して見捨てない温かい瞳をした人。
昨日の夜、焚き火のそばで「寝ろ」と叱ってくれたあのぶっきらぼうで優しい声。
「(……助けて、騎士様……)」
心の中で弱音がこぼれそうになる。
いつも通り、ただ助けを待つだけのか弱い悲姫でいればきっと彼は来てくれる。
だって、彼は物語の主人公のような人だから。
でも。
『ミミは筋がいいな』
『アリア、お前、超優秀だ。採用』
ふと、あの時の言葉が蘇った。
ガリアン大山脈に入ってからのあの日々。
ミミが小さな手で一生懸命に野菜の皮を剥いていた姿。
「わたくしも強くなりたい」と、震える声で言っていた兎の少女。
ララがあんなに小さな体で、仲間を守るために巨大な熊に立ち向かっていった背中。
そして、ユートがわたくしに役割を与えてくれた時のあの信頼に満ちた目。
『お前の声はこのパーティに必須だ。最強の武器になるぞ』
(……そうですわ)
アリアの瞳に微かな光が戻る。
(わたくしは……わたくしはもう、里の奥でただ守られているだけの無知な箱入り娘ではありませんわ)
彼女は奥歯をぎゅっと噛み締めた。
ミミちゃんを庇ったのは偶然じゃない。
わたくしが、わたくしの意思で仲間を守ろうとしたからだ。
だったら、最後まで。
最後まで、その役割を全うしなくては。
(……わたくしだって、騎士様のパーティの一員ですもの!)
「……う、あああ……っ!」
アリアは拘束された手足に力を込めた。
魔力を吸い上げられる激痛に意識が飛びそうになる。
それでも彼女は顔を上げた。
その翡翠色の瞳は、濁った瘴気の中でも決して曇ってはいなかった。
「……聞こえますか……!」
アリアの唇から、血と共に言葉が紡がれる。
それは、悲鳴でも、助けを乞う声でもない。
『精霊使い』としての、毅然たる命令。
「森の精霊たちよ……!大地の、風の、水の、全ての小さき隣人たちよ!」
「あぁ?なんだ、まだ意識があるのか?」
眼下の男が不愉快そうに見上げてくる。
アリアはその男を睨みつけた。
恐怖はある。
足は震えている。
でも、心は燃えていた。
「……わたくしの声を聞きなさい!この地を汚す不浄なる毒を……わたくしが許しません!」
アリアが叫ぶ。
彼女の体内に残っていた最後の魔力が光となって弾けた。
「お願い!わたくしに力を貸して!この悲しい『病』を……止めて!!」
ゴゴゴゴゴゴゴ……!
アリアの叫びに呼応するように、洞窟全体が大きく揺れた。
それは、地震ではない。
洞窟の壁、地面、そして天井に潜んでいた無数の精霊たちが彼女の声に一斉に反応したのだ。
「な、なんだ!?瘴気の流れが……逆流している!?」
男が狼狽える。
祭壇に吸い上げられていたはずのアリアの魔力が、逆に祭壇へと流れ込み、紫色の瘴気を清浄な光で浄化し始めたのだ。
「(騎士様……!)」
アリアは薄れゆく視界の端で入り口に立つ四つの人影を見た。
「(道は、作りましたわ……!)」
それは囚われの姫君が見せた、最初で最大の命懸けの反撃だった。




