【#08】午前三時。お出かけは空飛ぶスマホとともに
「まさか、三日前から寝てないとか?」
それなら結構コトじゃねえかな。
魔法使いとて、人間である以上、パフォーマンスを維持するには休息は欠かせないんだしさ。
その機会はあったんだろうか。
懸念して尋ねた俺に、先生はゆっくりと頭を振る。
「昼のうちに師匠と交代で休んでるから、全くってことはないけど、夜は不寝番に近いかな。参っちゃうよ」
言いながら、ベッドに腰掛け直す先生。
ぼふんと音がするくらいの勢いを使って胡座を組んだ彼は、ベッド脇に位置を変えた俺を見下ろして、続けてきた。
「夜な夜な狼に変身して外へ飛び出そうとするし、昼間もじっとしてくれるわけじゃないから。今夜は大人しくしてくれるんだろうね?」
「あー、うん。多分?」
「そこは絶対と言って欲しいところなんだけど⋯⋯ねえ、何してるの?」
曖昧な返事をし、カーペットの上に直座りになったまま、スマホを両手で握りしめた俺。
それに対して、訝しさと好奇心が半分半分になったような視線を向けてくる先生をチラ、と下から見返し、答える。
「ちょっとレベッカ嬢の魔力を観ようかなって」
「見る? あなまほアプリは要らないの?」
日本人に多く見られるものよりも、淡い色をした先生の瞳。そこに先程まで写っていたアンバーカラーのレベッカ嬢の瞳を閉じて俯きながら、俺は短くピシャリと告げた。
「要るよ。すぐ済むから黙って見てて」
話しかけられたくらいで、失敗なんかするわけないけれど、何しろレベッカ嬢の体でのEAPとのリンク確立はまだ二度目――先ほどは接続とほぼ同時に、こちらから切断してしまったから、リンクの維持という意味では、ほとんど初めてのようなものだけれども――である。
周辺環境からのノイズが、少ないほうが楽なことには違いない。
先生の文句を封じるため、あからさまに音を立てて息を吐き、集中したいのだと見せつけると、俺は魔法を習いたての子供の頃みたいに、両掌で握りしめたEAPに意識全てを傾けた。
瞬間。
リンク確立、と瞼の裏にパッとテキストが浮かぶようなイメージを、脳が感じ取るのと同時に、ハッカ油を直接血管に流し込んだような、奇妙で冷たい灼熱感が全身を駆け抜ける。
EAPにより生成された代替魔力素子を、生来の魔力で満ちている肉体へ注いだことで生じる冷たさに、身悶えしたいのを堪えつつ、俺はレベッカ嬢の魔力の流れを「読み」取ろうと、十指の中でも、一際鋭い感覚を宿した右人差し指へ更に意識を没入させていった。
「お待たせ。先生の言う通り『鋏』と、典型的な『二つ身』だな、この娘」
十五秒後。
EAPに積まれた最新版の「あなまほ」に同調してレベッカ嬢の魔法を走査し終えた俺は、思考を指の腹から脳へ引き戻しつつ、測定結果だけをそのまま先生へと伝えた。
通常の測定に比べ、随分と時間がかかってしまっていることは、俺が言わない限りこの時代の先生には分からないはずだ。
「デュプレックス? そんな魔法」
「ルー・ガルーみたいに非スペクトラムな二つの姿を持った魔法使いの総称のこと。ザックリ言えばだけどさ」
しくった!
先生発案の呼称だからうっかり口走っちまった。余計なことを考えているといつもこれだ。
そう思って、更に追求される前に《二つ身》のあらましを口早に返してみたものの、それすら悪手だったようだ。
黙っているように要求した辺りから、傍目にも分かるくらいに、だだ漏れの好奇心で栗鼠みたいに目を輝かせ始めていた先生には、俺の半端な解説は更なる燃料投下にしかならなかったらしい。
「ふうん。未来では人狼の類をそう呼ぶってわけね。なあなあ、ソレの解析で出てきた不明点とか、他にも知りたいことがたっくさんあるんだけど」
などと、俺が握りしめたスマホを視線で指しながら、言ってくる始末である。
いくつあるのかも分からない先生の疑問を、知恵さんの帰宅前に全て解決してやるには、どう見積っても時間が足りない。
仕方ない、ちょっと手荒だけど⋯⋯。
「わーったよ。何から知りたいわけ?」
呆れたように言いながら先生から、やや離れたベッドの端に腰掛け直すのに紛れて、俺はドレスのひだの中へ銀色の筐体を滑り込ませる。
同時にEAPとのリンク経由で「あなまほ」の終了と、別な三つのアプリの起動。
それから指定の座標でのスタンバイをオーダーしつつも、先生の意識が余所へ向かないよう、きちんと話を聞いているフリももちろん忘れない。
「さっきのってさ、ボクのスマホでもできるもの?」
「笙真君の? どうかなあ。スペックにもよるけど、基礎的なアプリなら二〇年代半ば――」
悪いね、先生。その続きはお預けだ。
「笙真、ただいまー。言い訳は思いついたー?」
心のなかで詫びを入れた俺が、脳内のスイッチを叩いた瞬間、居るはずのない知恵さんの声が俺達の真後ろ、天井際から降ってきて先生の目を白黒させる。
「えっ、師匠!? って、昴、お前の仕業かい」
本当に吃驚したらしい。先生が胸に手を当て吐く嘆息。そこに乗せられた声には、たっぷりと非難の感情が籠もっている。
「驚かすなよ⋯⋯」
「ごめんな。でもさ、見てよ時間。俺等AIについて全く話せてなくない?」
「あ」
「――よっせ、と。で、どうする?」
《人工音声》、《光学迷彩》、それから《蛍火》。
起動させたのとは逆順で、三つのアプリの終了プロセスを終えたEAPが、等加速度運動で降ってくるのを背後のベットにもたれ掛かるように上半身を倒してキャッチした俺は、レベッカ嬢の黄金の瞳と声音を先生に向けて聞いてやった。
◇
「それじゃあ、ボクはそろそろ。明日またポテトとトワを連れて早めに伺いますね」
「頼むわね。森屋ご夫妻とみんなにも二匹を見てくれてありがとうって伝えてくれる?」
「もちろんです。じゃあ師匠、おやすみなさい。ポーリャちゃんも、ちゃんと休むんだよ」
「うん! またね、笙真君」
出水邸の玄関先で二十時ちょっと前にそんなやり取りをしてから小一時間、いや、たっぷり七時間。
眠気まなこのままに再接続したEAPの現在時刻で時間の感覚を正した俺は、レベッカ嬢の柔らかいブルネットごと、頭を掻きながらゆっくりと身を起こした。
どうやら、昼間に先生と内緒話を繰り広げたこの部屋で、今日一日の出来事をさらっているうちに寝落ちしてしまったらしい。
「あーあ、レセプションも、先生のスピーチも楽しみにしてたんだけどな」
恐らく、別の部屋で眠っているであろう知恵さんを、起こさないようぼそりと呟くと、俺はカーテンの隙間から外を伺う。
「⋯⋯」
俺が十七年間過ごした東京に比べ、窓枠で切り取られた甲府市郊外の街明かりは、四半世紀分の年数を差し引いたとしても随分侘しい。
明かりと言えば道路沿いに立ち並んだ街路灯と、時折行き交う夜間配送車のヘッドライト、それに、俺の子供時分まで残っていた、川向こうのコンビニの看板灯くらいだ。
夜に沈んだ盆地の景色の中で、唯一見知ったその明かりを見つめていた俺は、気が付けば靴を履いて玄関先にいた。
知恵さんが起きる前に戻れば大丈夫。
ちょっと道長橋を越えてコンビニに行くだけだ。
EAPもあるし、すぐ戻って来るんだから問題なし。
それになにより、
「俺は十七歳だっての。もうすぐ成人なんだから、自分の魔法の責任は自分で取らないと」
その言葉で、午前三時に五歳の女の子が一人で出歩くことのありえなさを、意識の隅に追いやって、俺は頭上に浮かべた《蛍火》の光を頼りに、一歩を踏み出した。