【#28】ポニテの魔女に暴き立てられる、銀灰色の仔狼。その心は:星の形をしたしるし
ヒトの身体と違う、チルで無理やり動かしていた狼としての四肢に力が入るのが分かった。
目を覚ましたレベッカという油を差された前足は、俺が操るのよりずっと滑らかに先生の上着に爪を立てる。
始めの一秒こそ、前後不覚に陥っていた彼女は、訝しげに左前足を握ろうとし、そこに星がないことに気付いたらしかった。
人工にしろ、生来にしろ、あらゆる魔法を通しにくい身体に阻まれ、俺の操作が及ばない喉が、小さく息を呑んだあと、思い切り唸り声を上げた。
すると、リニア姉さまが何かを捉えたのだろう。
興味深そうに細められた視線が、最高の居心地悪さを俺達へと突き刺してくる。
「⋯⋯ポーリャちゃん、向こうで練習しようか?」
先生が、全身の毛を逆立てた仔狼を宥めようと、不自然に差し伸べた手のひらを、牙のような尖った目線で睨め付けながらレベッカが飛び退いた。
「いやよ。うすぎたないキャンディッドども。ベッカのしるしをかえして!」
「あらまあ、恐い言い方。おかしな聞こえ方がすると思ったら、こっちが本性なわけね」
ッ、違うから! 「これ」は間違いなくベッカちゃんの本心だってば。星への執着で、歪んで聞こえるだけ。それだけなんだ!
口にしたかった反論は、少しも音にならなかった。
出水邸への帰路の時とは逆に、俺を完全に絡め取って低く唸るレベッカに向かって、リニア姉さまが見せつけるように星を掲げた。愉しそうな声が、響く。
「そんなに大事な星なら、取り返してご覧なさいよ、おちびちゃん。笙真! 悪いけど邪魔したら承知しないから!」
りんごのような小さな頭蓋に上っていた血を、さらに沸騰させるようなリニア姉さまの言葉。
レベッカが、ばねみたいに全身に力をみなぎらせ、刹那の間隙ののち、大きく躍動した。
畜生! なんてことだよ、もう!
選択肢は、どちらにしたって、選ばれ済のものしか目の前にはなかった。
リニア姉さまに、俺の存在を明かさないことより、二人の諍いを止めなければ。レベッカのための黒衣として、それだけを念じながら、俺は力尽くで仔狼の身体を押し留めようと、EAPに新たな命令を送った。
桁違いの速度で生成されたチルの物量に翻弄されながらも、がむしゃらに彼女の振る舞いに介入する。
俺がここにいると知れたら――。そんな不安や躊躇いは、疾うに流されきって、遥か後ろに去ってしまっていた。
「止まって、ベッカちゃん!」
「うるさい! スヴァルくんはだまってて!」
交錯しながら響いた二人分の言葉。それを正しく解釈するために、リニア姉さまの魔法が俺たち二人の間に割り込んだ。
視界の外れで、先生が諦めたように、目を伏せる。
俺とレベッカの対立で鈍っていた俺たちの身体へ、リニア姉さまの攻撃的な「読み」が容赦なく襲いかかった。
俺たちの声が、そのまま反射された。
そう気がついた時には、ポーリャ・カントリー・ロードの偽名を持つ仔狼は嫌な音を立てて、弾き飛ばされた茶器とともに床に転がされている。
「道理で聞き取りにくかったはずだわ。もう一匹ネズミがいるなんて、面白いじゃない!」
のしかかるようなプレッシャー。
宮代家とは違う風土と歴史の中で発展を遂げた、ロウ家の魔法――マイナス倍方向に拡幅されたリニア姉さまの声――に、押し潰されそうになりながら、俺は身を捩った。
銀灰色の毛皮に包まれた小さな全身を再び立ち上がらせようとレベッカが四肢に込めた力が、彼女の諦めの悪さと、動揺を表わしている。
先生――。
行き渡り切らないチルのせいで、一緒くたになりかけた心。ただそれだけで構成された視線を、懸命に先生に向ける。
「やめなよ、リン姉さん。それ以上やったら、怪我人が出―― 」「やかましい! 邪魔するなって言ったわよね!?」
留めようとする少年と、反発する少女の怒声。
ますます混沌としかけた場を壊したのは、俺の大師匠様だった。
ぱっしゃん。
場違いなほど響いたコップ一杯分の水音とともに、リニア姉さまが制圧していた空気が、嘘みたいに溶ける。場が凪ぐ。
「お客様の貴女に、こんなことを言いたくはないけどね。よそ様のお宅で、大立ち回りする十七歳のお転婆娘を笑って許せるほど、私の心は広かないのよ。郷に入ったら、郷に従えって、英語だと確か⋯⋯」
「When in Rome, do as the Romans doよ、知恵。ロウ家の習わしは、私が状況よ、だけどね! 水をかけるなんて、あんまりだわ。こんな野蛮な止め方、信じられない」
「お湯でないだけ感謝なさい。『読む』のは、おしまい! 過干渉はロウ家の伝統なのはよく知ってるけどね。これはさすがに看過のしようがないわ、リニアさん」
「⋯⋯宮代家の秘密主義も相当だと思うけど」
冷ました白湯を、前髪からぽたぽたと滴らせながら、憮然とした表情の少女が、吐き捨てるように呟く。
「黙らっしゃい。――笙真」
沈黙を命じた短い言葉。鼻白んでいるどころではない日焼け知らずの顔が、みるみるうちに朱に染まった。
けれども、リニア姉さまの反抗もそこまでだった。
噛みしめた唇を、再び開こうとしたリニア姉さまを、魔法ですらない無言の一瞥で難なく退けた知恵さんが、首を巡らせて、先生を呼びつけた。
「何です、師匠」
宮代家の魔法の最高峰でもある「先読み」で、こうなることを知っていたのか、当たり前とばかりに応じた先生の声は、表向きは落ち着き払っているかのように聞こえた。
「片付けは私とリニアさんだけでやります。貴方は、ペトロワさんたちを連れて、二階に行ってなさい」
「やだ、いかない! ベッカの――、ベッカのしるしをかえして⋯⋯ッ!」
「リニアさん、いますぐに返してあげて。本家から正式にお願いされた、ペトロワさんと貴女の引受人として言うわよ。断わることは許しません」
ほんのわずかな、あるかないか判然としないくらいの小さな嘆息を挟んで、知恵さんが他家の娘たちを睥睨し、淡々と紡ぐ決定事項。
「⋯⋯⋯⋯」
「“ロウ家のちいっちゃなリーリャちゃん”、嫌なら帰りのフライトを用意してあげても私は全然構わないのよ?」
小刻みに唇を震わせたリニア姉さまを堂々と無視する形で、きっぱりと最後通牒を告げた知恵さんが、彼女の手のひらから、小さな星をスッと掠め取ると、暴れていたレベッカの肉球にそっと触れさせる。
拳にはなりえない左右の前足で、どうにか星を捕まえたレベッカが、目一杯身体を膨らませて、大きく涙交じりの息を吐いた。
安堵と歓喜、わずかばかりの怨嗟が綯い交ぜになった彼女の感情を、目をぎゅっと瞑った仔狼の胸郭の隙間に閉じ込められたまま、骨の髄まで堪能させられる。
そんな俺含みのポーリャの体躯、「ベッカの特別なしるし」を全身全霊で握りしめた小さな身体を、先生が、ぶかぶかの麻のワンピースごと両腕に抱え、二階へと運んでいく。
遅れてやってきた重苦しい痛みを、なるべく俺の方へと掃き寄せながら、ねえ、ちゃんと凌げてた⋯⋯?
熱に浮かされたような苦しい息継ぎの合間に、先生の淡い色の目をチラと見上げて、視線だけで問いかける。
先生は踊り場で足を止めると、腕の中のポーリャを仕方なさそうに見遣って、眉尻を下げてくれた。
この身を抱き直した先生の袖に、銀灰色の仔狼が湿った鼻先を潜らせた。
◇
「⋯⋯練習にする? それとも、先に沁みるほうがいい?」
泣き虫の五歳児には、いかにも効果覿面にみえる青いキャップの傷薬と脱脂綿を手に、階下から戻ってきた先生が、相変わらずの毛皮姿でいる俺たちに、尋ねてきた。
「どっちもぜったいにやなの! あさになれば、もとにもどるから、それまでがまんする! いたくないもん、じっとしてればだいじょうぶだもん!」
「我慢って⋯⋯。少し触覚を戻しただけで、痛くて泣きそうなくせに。俺、分かるんだからね。素直に練習にしとこうよ。ベッカちゃん」
「そうよ。彼の言う通りに、さっさと練習なさい。星を返してあげたのに、見苦しいわよ。チビ狼ちゃん」
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯。えーと⋯⋯何で貴女がここにいるわけ。リニア姉さま。
先生に引き続いて、再び現れたストロベリーブロンドの横柄小柄な少女。
俺はよもやの第二幕かと、「ショウ兄ちゃまにばらしちゃうなんて、さいあく!」と涙目で訴えてきたレベッカと、二人羽織状態のまま、特大の身震いをしてのけた。
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あらすじでお示したとおり、このお話は既存別タイトル作品のスマホ向け加工作のため、次話以降は作業済み次第掲載になります。お話自体の続きの回は既存タイトル
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