【#12】呼称(後編) 「明かし」の魔法に彩られるレベッカ
俺の言葉に、零れ落ちる光に彩られたレベッカが目の前の二人を見あげた。
自分の口から出たようにしか聞こえなかった声は、他家の魔法使いの男女のうち、どちらのせいかしらん?
そう言いたげに、視線を左右に巡らせる。
EAPへかかる負荷を軽くするため、こちらの支配領域内の下り回路のほとんどを彼女に従うように装わせている俺は、例外として俺の意思の方が優先される状態になったまま残されていた発声器官を操って、彼女に言ってやった。
「俺はここだよ。君のこころの中さ。魔法抑制AIの《ポーリャ》って言うんだ。よろしくな、ベッカちゃん」
「東京で《鋏》の魔法が『あなまほ』にかからないように処置してもらったこと、覚えてるよね? AIはそのときから君についているんだけど」
「あなまほ? えい、あい⋯⋯?」
俺をフォローするつもりなのだろうが、却って解り辛く言い換えてくれた先生の言葉に、レベッカがおずおずと口にしたのはオウム返しのような台詞だった。
そんな弟子と幼女の様に、俺と似たような感想を覚えたのだろう。
知恵さんが傍らから助け舟を出してくれる。
「そんな難しい言い方じゃあダメよ、二人とも」
おいおい、二人って俺も入ってるわけ?
会話の腰折れにならないよう口に出すことは我慢した俺の――いや、レベッカの目線の高さに合わせて身を屈めた知恵さんは、今度は小さな子供向けの声を唇に乗せてきた。
「レベッカちゃん。今のはね、宮代家自慢の技で作ったお化けさんの声よ」
ちょ、知恵さん。お化けさんって、それはないだろ!
二〇五〇年の最新の魔法技術と、当代一の「読み」の使い手である宮代笙真に鍛えられた、俺の合せ技で成立中の現状に対する表現としては、流石にあんまりな大師匠様の物言いに、何か一言申し上げなければと思った時だった。
言葉通りのお化けのイメージに引きずられて、レベッカが思い出した一部始終が、彼女に脳裏のほとんど全てを明け渡す形になっていた俺にも去来する。
彼女からしてみればポーリャによる金縛り体験にほかならない、夜更けの出来事――怒りと不安、それから寒さと痛みに縁取られた記憶――のせいで、胡椒でもかけられたみたいにツンと痛んだ鼻の奥と、滲む視界に俺はこう思うのが精一杯だった。
⋯⋯ああ、これは絶対泣き出すやつだ。
知恵さんへの一言を発するどころか、チル魔法の設定値を変える時間の確保さえ叶わなかった俺は、目に涙を浮かべて身体を奮わせているレベッカの感情が赴くままに、夜具を撥ね除けて先生の身体にしがみつくほかなかった。
そこから、物凄く長い数分の後。
俺とレベッカだけが知っているやりとりの末、ようやくポーリャがお化けではないことを信じる気になった彼女へ「いいな? 今から切り替えるぞ」と断りを入れた俺はくだんの――いい加減呼称を与えないと面倒になりつつある――アプリを操って、全身の自由を再びこちらに引き込んだ。
《顕し》のせいで荒みに荒んだ彼女の神経系へ、今以上のダメージを与えないよう、気を配りながらこなした引き込みの所要時間をナノセカンドまで、頭に叩き込みつつ、数分の間この身体を抱きとめ続けてくださったばかりか、癖のあるブルネット越しに、背中まで優しく叩き続けてくれた、先生の胸を全力で押し返す。
嗚咽がやみつつあった幼女の突然の動作に、おや? とばかりにこちらに視線を向けてきた彼へ向かって、腕の中の子供の中身が別のものにすり替わったことを、睨みつけて伝えると、身体を支えていた腕の力が緩む。
その拍子にこれっぽっちも望んでもなかった抱擁から、するりと抜けだした俺は、裸足のまま床に降り立った。
もう名残だけになっていた涙を、ドレスの右腕で乱暴に拭って、さっきまでの全権委任とは違い俺の側に重心を確保した「自由」をレベッカへ返す。
「ベッカたちを助けてくれてありがとっ。『明かし』のお兄ちゃま」
小さいとは言え、流石は《狐》の子。二人で持ち合うことになった身体を転ばせやしないかと、気を揉んだのは杞憂だったようだ。
少しだけ息を弾ませている舌足らずの声が、ついさっきまで抱っこを提供してくれていた少年に、今朝までの剣幕が嘘みたいな態度で礼を告げる。
「たちっていうのは《狐》の連中のことな。ベッカちゃん、さっき話したとおり、私たちは」
「あっ、ごめんでした。みやしろのお家におせわになる間はポーリャがなまえってゆわれてた。ええと、ポーリャ⋯⋯」
声とともに披露された彼女のカーティに続く次のひと呼吸に乗せられた、俺の注意を促す言葉。それが終わるのを待てずに、再び話し出すレベッカ。
理髪店のサインポールよりも目まぐるしく回り始めたかに思えた、俺たち二人の交替交替は、次の句を探し出せなかった幼女の口先で、すぼんだように溶けて止まる。
「やめた方がいいわよ。それこそお化けに取り憑かれているようにしか見えないもの。二人で交互に喋るのは私たちの前だけにして、よそでおしゃべりするのはどちらかにするか決めとくべきだわ、あなたたち」
そんなタイミングで知恵さんが差し挟んできたのは、明らかに俺に向けた一言。
口中で噛み殺されている笑いとは裏腹な、大師匠さま直々のクラシカルな警句と、彼女に賛同するか決め倦ねているらしい弟子の無表情に、まあ、そりゃそうだわなと、正直な感想を俺は思い浮かべたのだった。
◇
「⋯⋯リャちゃん? 昴?」
「ねえ、スヴァルくん。『明かし』のお兄ちゃまが呼んでるよ?」「悪い、ぼうっとしてた」
消化に良いからと知恵さんがくれた、おろしリンゴを喜んでいたはずの彼女から昴とよく似た音を持つヴェーダ語の単語で呼びかけられ、俺は意識を浮上させた。
それとほぼ同時に、無遠慮にこちらの肩に触れかけていた先生の手首を掴んで止めつつ、二人に向かって軽めの詫びを入れる。
この身体になったことの唯一の利点は、俺が居眠りしたとしてもレベッカが起こしてくれそうなことだな。
そんなふうに愚にもつかないことを考えつつ、反射的に握ってしまった彼の手首を離すと、色素の薄いブラウンの瞳に睨めつけられる。
「しっかりしろよ、まさか良児おじさんが言ってたみたいに熱でも出てきたんじゃないだろうね」
「ねえよ、そんなもん」
熱があるのだとしたら、俺じゃなくてEAPの方だっての。
昨日からいくつも抱えることになった現在進行形の懸念事項。
その中でも目下、最大の頭痛の種になっているEAPのことにまた意識を取られたせいで、会話に短い空白が落ちる。
その隙間を縫って、性懲りもなくこちらの額を目指そうとしていた彼の掌から、今度こそパッシと破裂音が上がる。
もちろん音を立てたのは俺の意思で振り上げたレベッカの右手だ。
「⋯⋯確かに元気そうだな。師匠の言ったことなら、お前が注意して過ごせばなんとかなるんじゃない?」
「んなわけあるかよ」
一瞬だけ俺を睨み返したと思いきや、はたかれた手を眇めた目で返すがえす眺めて――痛いわけでもあるまいに、なんのつもりだか――呑気なことを言ってきた先生。
あまりにも脳天気なその口ぶりに、俺は苛立ちを隠しもせず短く答えたが、悲しいかな、やはりこの身体では如何にしたって迫力不足だ。
「注意云々じゃなくて、俺にも事情があるんだよ。だから考えてるんだけど、なかなか決心がつかなくてさ。――話は変わるけど、昨日の続きでもどう? まだ聞き足りないことがたくさんあるんでしょ?」
がらりと口調を変え、言いたいことを言った今は、さほど機嫌が悪くないことを俺はアピール。
同時に《蛍火》を操って、さきほどからずっと空中で光を纏ったままのスマホを先生の眼の前に差し出してやる。
煌めく銀の筐体にまんまと注意を引かれたのか、目を輝かせだす少年。
そんな彼に俺は小さく頷くことで、触れてもいいよのサインを送った。
人好きのする嬉しそうな顔のまま、EAPに向って彼は指を伸ばし――その僅か手前で拳を握る。
「レベッカ嬢も触らないでね。火傷するよ」
自身と同じく、スマホに腕を伸ばしかけていたレベッカへ、注意の声を上げながら銀色の筐体ではなく、翻した右腕でこちらの左手を掴んできた彼に、俺は、やっぱりじゃねえか⋯⋯。そう思ったのだった。