【#09】ホロ苦の初セッションは、雨に打たれて。
視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚。
人間に生来備わるこれらの五感では、「魔力そのもの」の存在は絶対に知覚不能――。
五感に捉えることができる「物理的なカタチ」として残らなかった魔法の痕跡の大半も、魔力と同じく、人の身では窺い知ることはできない。
経験則として世界中の魔法使いが知っていたソレが、「あなまほ」アプリの登場により科学的に正しい事実であるのだと証明されてから、およそ四半世紀。
その間の宮代家が、他家に比べて異様とも言えるほどの発展を遂げたのは、五感そのものの強化・拡張を通じて得た「全て」を以て世界を解析し、己が益とすること。
それこそが、幾星霜にもわたって一族内で磨かれ続けた「読み」という魔法の本質だったからに他ならない。
「あなまほ」という、魔法を射程とする「新たな第六感」を手に入れた宮代家は、それにより、更に得られた発見も、惜しむことなく読み明かし、その成果として、「あなまほ」に続く画期的なアプリを供給し続けることで他家に先んじる形で魔法に関わる権益を独占したのだ。
とはいえ、この場で大事なのは、そんな俺の家にまつわる大成功譚ではない。
五感で捉えられる形さえ残されていれば、魔法の痕跡を見つけることは誰にだって容易い。
それに加えて、俺のEAPに積まれた最新版の「あなまほ」アプリは、まさに魔力を拾うためのツールとしてなら、この時代において、飛び抜けて優秀なはず。そうに違いなかった。
「⋯⋯先生、二年半前に道長橋でスマホを拾ったって言ってたよな。少しでも『顕し』の痕跡が見つかればいいんだけど」
流石に月日が経ちすぎているから、期待は薄いのだが、それでも試さないでいるわけにはいかない。
二〇五〇年のあの日に一刻も早く戻るため、できることは何だってすべきなのだ。
そんなわけで、俺は人っ子一人いない夜更けの道を川向こうのコンビニへと向かって歩いていた。
正直言うと、魔法の痕跡探しだけをするのなら、明るい時間でも全く構わなかった。
十四歳の先生を煙に巻くための方法なら、少し頭をひねれば用意できる自信があるんだから。
にも関わらず、この時間の外出を半ば衝動的に決めたのは⋯⋯。
レベッカ嬢が置かれた環境をより悪くしてしまった自覚が、俺にありすぎるせい。
認めたくはなかったけれどね。
レベッカ嬢のことを少なからず迷惑だと感じているらしい、知恵さんと笙真先生。
そんな二人のどちらにも知られずに、なるべく早く彼女とコンタクトをとらねばと思っていた俺にとって、明け方前の彼女の「お目覚め」は兎にも角にも、最初で最後かもしれない好機かもしれなかった。
◇
“深淵もまたこちらを覗いているのだ”
ドイツの哲学者・ニーチェの残した有名な一節の後半部分であり、近代以降の宮代家の魔法使いたちが、余人よりも多くのことを知る術を持つ、自らや弟子たちへの戒めとして使いがちな言葉の一つでもある。
宮代家に連なる他の魔法使いたちの例に漏れず、師である宮代笙真から幾度かは聞かされていたそのフレーズだったが、彼の口から語られる際には、だから読みに行きすぎないように気をつけるんだよ、という一言が添えられているのが常だった。
そんな先生からの言葉を不意に思い出したのは、まだ明るい時間。レベッカ嬢の魔法の走査を始めて三秒経つか経たないかのタイミングだった。
《鋏》と《二つ身》の測定結果と、この身に残されていた「顕し」の痕跡に関する影響評価をざらりと眺めた俺は、先生の言葉から得たヒントに従い、チル魔法を用いた痕跡を一切片付けることなく――というよりも十秒以上余計な時間を費やすことで普段からするとありえないほど足跡を大量に残して「あなまほ」を閉じた。
昼の間に、深淵の側から気づいてもらえるようにばらまいた撒き餌は、きちんと摘まみ食いされたらしい。
それは全然構わない。
というよりも、俺の予定通りなのでウエルカムだ。
ただ一点を除けば、であるが。
「小鳥といい、こいつといい」
女子ってやつは、どうして年齢に関係なくやかましいものなのだろう。
目を覚まして、しばらくの間は、冷たいだのなんだのとキャンキャンと小うるさい程度だった、脳の底から響いてくるレベッカ嬢の声。
宮代家への怒りのせいか、頭の内で響く彼女の言葉が、ガンガンに近いけたたましさになりつつあるのに辟易しつつも、俺は、EAPの空き領域に突貫で作りかけだったアプリの完成を、足を止めぬままで急ぐ。
さっさと完成させないと、うるさすぎてこちらの方がどうにかしそう。
息を吐く。
◇
桜の季節の甲南湖の朝は早い。
とはいえ、それは観光地である湖周辺に限っての話。
北御坂市の北西方面を占める旧甲南湖町内でも、笛吹川を挟んで甲府市に隣接したこのあたりの主要産業は農業であるため、空が白み始めるまでは、外を出歩く人間はほぼ皆無だ。
それはすなわち、少しばかりの独り言なら誰にも聞きとがめられる恐れがない、と言うことでもある。
二十分ほど喧しいのを我慢して、ようやく最後の仕上げを済ませたばかりのアプリを、俺は早速起動させ、レベッカ嬢の口はレベッカ嬢のもの、と念ずる。
すると、
「ペギーとママがゆってたとおりですわ。キャンディッドのやつらには気をつけなさいって。だから、もう話しかけられてもお返事はしないって決めたんですの。本当にそう決め――あら?」
唐突に、思い通りの言葉が音声として流れ出したことに、彼女はひどく驚いているようだった。
アプリがとりあえず想定と同じ挙動を示してくれたことに内心で小さく拳を掲げつつも、狼狽えている彼女から、たやすく口の主導権を取り上げると、俺は努めて冷静に、諭すつもりで続ける。
「アバキじゃねえし、明かしだ、明かし。その呼び方、他の宮代の連中の前で口にするなよ」
(い・や! キャンディッドのいうことなんて、ぜーったいに聞かないの!)
「あのなあ、ならせめて『読み』って呼」
(聞かないってゆったんだから早くベッカから出てってよ!! バカあ! だいッきらい!)
吐き捨てるような、その声を最後に沈黙。
そのまま十秒ほど待ったが、何も起きず、俺は深々とため息をつき、それでも足らずに毒づいた。
「あんにゃろう⋯⋯。向こう側にこもりやがったな。ったく、言いたいことだけ言いやがって。なあにが大っ嫌いだよ。俺だって、帰れるもんなら今すぐにでも帰りてえよ」
子供の頃の俺や小鳥がそうだったように、菓子を買い与えられて喜ばない子供はそうはいないだろう。
探しもののついでだ。
コンビニでレベッカに何か甘い物でも買って機嫌をとってやろう。
俺としては、あくまでもそんなつもりだったが、甘かったらしい。先程の剣幕ではもう今夜は諦める他はなさそうである。
あえて人目につきにくい時間帯の外出を決めた理由がなくなってしまったことと、理由本人から予想以上に強い拒絶の言葉を浴びさせられた苛立ちのあまり、大股になった俺の足運びが濃緑色のドレスを翻しレベッカの肢体を前へ前へと進めていく。
こうなったら、この外出の残り半分の理由である「顕し」の痕跡探しで何かしらの成果を出さなければ割に合わない。
少しだけやけくそ気味の心持ちのまま、あと幾日かすれば新学期が始まり小学生たちが朝夕に行き来うはずの通学路でもある、一・五車線のまっすぐな道を通り抜け、俺は道長橋へと向かう最後の坂道と通学路が分岐する信号手前まで辿り着いていた。
街灯の明るさがあるので、手元に呼び寄せたスマホが示す現在時刻は、午前三時三十五分 。
二〇五〇年に契約中の通信会社とのネットワークが使用できるはずもないので、天気予報を見ることは叶わないが、星も月も見えないあたり、曇天なのは間違いなさそう。
雨が降ったら最悪だけど、ここまで来て帰るのもな。
そう思い、俺は右手側に延びるゆるやかな上り坂につま先を向ける。
◇
昨日までとは勝手の違うEAPとのリンク可能距離にやや悪戦苦闘しながら、《蛍火》と「あなまほ」の二本立てで道長橋の上空から「顕し」の痕跡を探ってはみたものの、やはり二年半の時間の前には為す術もなかった。
「⋯⋯⋯⋯」
往生際悪く橋の上を二往復しても何一つヒントを得られなかった俺は、唇を引き結んだままEAPを手元に戻すと、雨で顔に貼り付いてくるレベッカの長い前髪を、右腕でまたかき上げる。
道長橋の上を対岸まで渡り終えた頃に、霧雨から始まった雨は、今ではすっかり本降りの雷雨に変わっていて、慣れない家路を急ぐ間にも容赦なくこの身体の温度を奪っていく。
マズったな⋯⋯。
こんな格好で帰ったら、黙って外出したことが、知恵さんにバレちまう。
帰宅を決めた当初こそ、「その程度」だった危機感は、俺の予想を越えた速さで冷えていく体温と反比例するかのように育っていて、正直なところ、俺の意思とは無関係にレベッカの歯が鳴り始めたあたりからは持て余し気味だった。
布をたっぷりとったドレスは、吸い込んだ雨のせいだろうか。重くて重くて仕方がない。
本当は、もっと早く駆けていきたいのに、まとわりついた生地が邪魔で、足が思ったように前に出ない。それに、なにより、酷く寒い。
そんな状態でも、否、そんな状態だからこそ、レベッカを早く帰さないとまずい、やばい。
そう念じに念じて、とうとうむずがりはじめた五歳児に頭の内側を焼き焦がされながら、どうにか重い足取りで一歩ずつ出水邸へ向かう俺を、鋭い痛みが襲ったのは本当に唐突だった。
「痛――」
攣った。
頭で思うより早く反射的に左足のふくらはぎに添えてしまった両手を、無理やり足首へと添え直し、一秒、二秒、三秒。
ゆっくりと伸展させたふくらはぎが、ようやく激痛から開放される。
それでも残ってしまったじんわりとした痛みと、濡れた路面に座り込んでしまったせいで一層ひどくなった寒気に、俺がすぐには立ち上がれずにいると――
「大丈夫?」
傍らから突然降ってきた声と入れ替わるように、体中を叩いていた雨音が遠ざかった気がした。