第5話 怪しげな男
「……おい、大丈夫か?」
唐突、頭上から声が降ってきた。かすれた意識の中で、俺はゆっくりと目を開ける。
視界に映ったのは、見知らぬ男。
三十代前半くらいだろうか。短めの茶髪に整った顔立ち。そして、やけにこざっぱりとした服装。身なりが良すぎるってほどじゃないが、少なくとも浮浪者の類ではない。
てか、誰だこいつ?
「……あ? なんだよ」
ぶっきらぼうに返した。話しかけられる覚えはないし、他人と会話する気力もない。空腹と疲労で頭がおかしくなりそうだった。
「別に怪しいやつじゃないさ。ちょっとばかり気になってな……」
男は目の前にしゃがみ込み、じろりと顔を覗き込んでくる。
……いや、距離感バグってるだろ。なんでこんなグイグイくるんだよ気持ちわりい。
「……気になったって、俺にか?」
「そう、お前に」
何言ってんだこいつ。意味が分からない。
「冷やかしか? それならどっか行ってくれ」
思わず眉をひそめる。
「そうじゃねぇ。お前、死にかけてんだろ? こんなところで寝てたら、朝には冷たくなってるんじゃないかって思ってな」
「……はは、そうかもな」
返事をするのも面倒だった。寒さと空腹で思考が鈍る。何を言われても、適当に流してしまいそうだ。
でも正直、もうどうでもよかった。このまま眠るように死ねるなら、それでいいのかもしれない……。
俺はそんなことばかり考えていた。
「ったく、こっちが心配してやってんのにその態度かよ……」
「うるせえ、もう放っといてくれ」
どうせこいつも、俺のことを見下しているんだろう。哀れみか、それとも嘲笑か。どちらにしろ関わらないほうがいい。
そう思って顔を背けた瞬間、男がポケットから何かを取り出した。そして、目の前に差し出されたのは……
──パンだ
こんがりと焼かれ、ほんのり甘そうな香りが漂ってくる。
ゴクリ。
反射的に唾を飲み込んだ。腹の奥が、まるで獣のように鳴いた。
「……なんだよ、これ」
「見りゃ分かるだろ、パンだよ」
「だからなんで俺に?」
「お前、腹減ってるんだろ?」
「……」
いや、まあ、そうだけど……。
「俺は施し受けるほど落ちぶれてねぇ」
「いやいや、どう見ても落ちぶれてるだろ。あんま強がんなって」
ズバッと切り込まれて、何も言えなくなる。
このまま意地を張っても無駄だ。くそ、こんな時に限って余計なプライドが邪魔する。
「……毒入ってたらどうすんだ」
「ははっ、そんなチンケなことはしねぇよ」
男はクスクス笑いながら、さらにパンを押しつけてきた。
「ほら、安心して食えや」
……警戒するべきか?
見知らぬ男が突然食い物を渡してくるなんて、普通に考えて怪しすぎる。
だが──
「……チッ」
結局、俺はパンを受け取り、一心にかぶりついた。噛むというより、飲み込むようにして胃に送り込む。乾いた口の中に広がる、小麦の甘みと香ばしさ。
……うまい
味は問題じゃない。胃に食べ物が入るということ、それだけで感動する。
「ほら、水もあるぞ」
今度は小さな水筒を差し出してくる。
もう警戒することもなかった。無言で受け取り、ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。冷たい水が、渇いた喉を潤していく。
「ぷはぁ……助かった」
思わず本音が漏れる。
気づけばパンは無くなっていた。何かに取り憑かれたように、夢中で食っていた自分に気づく。
……みっともねぇな、俺。
でも、そんなことを気にしている余裕もない。パン一つじゃ全然足りないが、それでも飢えは多少マシになった。
となると、次に考えるべきは──
「……で、お前の目的は結局何だ? 人助けが趣味なただのお人好しってわけじゃないんだろ?」
飯を恵んでくれたのはありがたいが、そもそもこいつは何者なんだ。警戒せずにはいられない。
すると男はニヤリと笑い、「ああ、俺か」と呟く。
「俺の名前はゼクス。まあ、商人みたいなもんだ」
「商人?」
「一応な。ほら、それっぽい格好もしてるだろ?」
確かに、どことなく商人のような風貌だった。
「で、そういうお前は?」
「俺は……ただの一文無しだ。役職も何もねえよ」
「へぇ、一文無しねぇ」
ゼクスは俺をじろじろと観察し、ふっと口角を上げる。
「嘘つけ。お前、何かすげぇモン隠し持ってるだろ?」
「は?」
──何を言っている?
背筋にぞわりと嫌な感覚が走る。
「何の話だ」
「さあな。でもな、俺の勘って結構当たるんだぜ?」
「なんだそれ、適当じゃねえか」
ゼクスはニヤニヤしながら見つめてくる。冗談みたいに言ってるが、目は鋭かった。
……こいつ、何か視えてるのか? まさか、俺が悪魔だってバレてたりしないよな?
「まあ、別に今すぐどうこうする気はねぇよ。ちょっと気になっただけだからな」
ゼクスはそう言って、懐から紙切れを取り出した。
「興味があったら、ここに来い」
渡された紙には、簡単な地図と、何やら商会の名前らしきものが書かれていた。
「……何だよ、これ」
「俺の商会の倉庫だ。今、人手が足りなくてな。住み込みで働けば、飯も風呂も、寝床もついてくるぜ?」
「……労働付きか?」
「バカか、あったり前だろうが」
何言ってんだ? と言わんばかりの顔をされる。
まあ、そりゃそうだよな。タダ飯を食わせてもらえるほど、世の中は甘くない。
「けど金はそこそこ出すし、今のお前には悪くねぇ話だろ?」
確かに、このままじゃ野垂れ死ぬ未来しか見えない。
しかし──
「……いや、働くのはダルいな」
思わず、本音が漏れた。
ゼクスは一瞬驚いたような顔をした後、大爆笑した。
「はははっ!!マジで言ってんのか、お前!?腹減って死にかけてたんだぞ?」
「いや、それと働くのは別問題だろ……」
「どこがだよ!? 飯を食うために働くんだろ!?」
「働かずに食う方法もあるかもしれないだろ?」
「いやねぇよ!!」
ゼクスは笑いながら俺の肩をバンバン叩く。ちょっと痛い。
「だがな、お前はどうせここに来るよ」
「……何でそんなことが分かる?」
「勘だ、勘。商人の勘ってやつよ」
「またそれかよ。お前の勘、そんな当たるのか?」
「まあな。特に人を見る目には自信がある」
どこまでも胡散臭い。ふざけてんのか?
「で、どうする?」
「……ま、考えとくよ」
「そう言うと思ったぜ!」
ゼクスは満足そうに笑うと、軽く手を振った。
「どうせお前、ここで野垂れ死ぬ気はねぇんだろ?だったら、近いうちに顔を出しな。待ってるぜ」
そう言い残して、足取り軽く去っていった。
俺はしばらく奴の背中を見送ったあと、手元の紙に視線を落とす。
「……商会、ねぇ」
ざらついた紙を指先でなぞりながら、ぼんやりと考える。
──どうする? 本当に行くのか?
今の俺には金も飯も、寝床もない。あるのは寒さと空腹、そして無駄にプライドだけ高いこの性格。
働くか、野垂れ死ぬか……って、選択肢の幅狭すぎるだろ。
こんな選択肢、普通の人間なら即決するだろう。だが俺はこの瞬間ですら、現実から目を背けようとしている。
「働くって、どれくらい働かされるんだ……?」
朝から晩まで労働? 無理無理、ありえない。
住み込みってことは、もしかして休日なし?
考えれば考えるほど、頭が痛くなってくる。
でも腹は鳴るし、体は冷え切っている。
そして、なにより──
「……流石に死にたくはないよなぁ」
働くのは死ぬほどダルいが、マジで死ぬよりはマシ。
ならもう選択肢なんて残されてない、か。
「……仕方ねぇ、明日行ってみるか」
そう呟いた俺は、ゆっくりと紙をポケットにしまった。