第4話 地上、あまりに過酷
目の前には、青空。雲ひとつない快晴。
陽の光があまりに眩しく、俺は思わず手で目を覆った。
「うっ、明るすぎる……!」
三年ぶりの地上の陽射しは、刃のように俺の目を刺した。視界が白く染まり、しばらく目を開けられない。まるで洞窟から這い出たモンスターの気分だ。きっと今、すげぇゾンビみたいな顔をしてるんだろう。
そしてふわりと、風が吹いた。ダンジョンの淀んだ空気とは違う、爽やかな風だ。同時に、肺へ新鮮な空気が流れ込んでくる。湿気やカビ臭さとは無縁の、草の香りを含んだ澄んだ空気。
「……うまい」
思わず呟いた。こんな感覚、いつぶりだろう。
だが、それも長くは続かなかった。
「ぐうぅぅぅ……」
静寂を破る腹の音。
──そう、空腹だった。
いや、これはそのレベルを超えているかもしれない。胃が絞られるように痛む。手足は鉛のように重い。戦いの疲れもあるが、間違いなく栄養不足だ。
「ああ、腹減った……」
数日前からまともに食ってない。もう限界だ。
戦いの最中は気力で誤魔化せていたが、今はもうそれすらできない。ダンジョンを出た安堵感のせいか、途端に全身が怠くなる。
「……クソ、マジで何か食わねえと死ぬな」
俺は腹を手で押さえながら、周囲を見渡す。
ダンジョンの出口は、ぽつんと開いた岩の裂け目のようなものだった。そこから少し離れると、踏み固められた道が左右に伸びている。どこへ向かっているのかは分からないが、道があるということはどこかに街があるはずだ。
「……右か、左か」
どちらに進めばいいのかは分からない。しかし、じっと考えている余裕はない。疲労と空腹のせいで、立ち止まっていたらその場にへたり込んでしまいそうだ。
「ええい、適当に右だ!」
理由は特にない。強いて言えば、右の方が日陰が多く、少しでも陽射しを避けられそうだったからだ。
そうして数十分ほど歩いただろうか。
「……マジか!」
視界の先に、巨大な石壁がそびえ立っていた。その向こうには、建物の屋根が折り重なるように並んでいる。
──間違いない。街だ。
腹が減りすぎて、脳みそが誤作動を起こしているわけじゃない。疲労による幻覚とかでもない。石壁は確かにそこにあるし、屋根もある。
これは、紛れもなく文明の香り……!
「……助かった!」
もし逆方向に進んでいたらどうなっていただろう。延々とどこへ向かうかも分からない道を彷徨うことになっていたかもしれない。ああ、考えただけでも恐ろしい。
そこには、ちらほらと行き交う人々の姿があった。それを見て心に安堵が広がる。やっとまともな飯にありつける──そんな希望が生まれた。
だが、それが甘すぎる考えだと知るのは、すぐのことだった。
街の入り口には、そこには当然のように門番が立っていた。武装した兵士が二人、厳しい目つきで人々を監視している。
旅人や商人らしき人々が列を作り、順番に街へ入っていく。俺もその列に並ぶが、すぐに気づく。
「……え、どうやって入るんだ?」
普通、街って入るのに通行料とか必要なんじゃないか?金がないのにどうやって入るんだ?
いや、落ち着け。もしかしたら無料かもしれない。期待を込めて前の人のやり取りを観察する。
「通行料は三百リルだ」
「ほいよ」
目の前の商人が小袋から硬貨を取り出し、門番に渡す。
「はい、通っていいぞ」
「ありがとう」
あ、無理じゃん。完全に無理じゃん。
三百リル?いや、1リルも持ってねぇよ!
どうしよう。どうすればいい。
「おい、次の」
まずい、順番が回ってきた。
とりあえず、何とかごまかすしかない……。
「あ、あの……」
「この街に入るなら通行料がいるぞ。一人三百リルだ」
「いや、ちょっと持ち合わせが……」
「は?」
門番がじろりと睨みつけてくる。
「えっと、その……」
ダメだ、言葉が出てこない。久しぶりの会話。しかも相手はごまかしが効かなさそうな、ガタイのいい門番。
「金がないのか?なら後払いでもいいが……身分証は持っているか?」
「み、身分証……?」
昔、適当に作った身分証ならあったはずだ。
確かあれは、えーっと……うん、棚の中だな。
ニート生活が長すぎて完全にその存在を忘れてたわ。
「……持ってない」
門番が渋い顔をする。
「身分証もなし、金もなしか……悪いが、怪しい奴を通すわけにはいかん」
「ちょ、ちょっと待って。なんかこう、例外とか……」
「出直せ」
追い払われた。
まさかの門前払い。絶望的。
「……マジかよ」
ダンジョンから脱出したと思ったら、まさか門の前で詰むとは。
呆然と立ち尽くす。何とかしなきゃとは思うが、何をどうすればいいのかわからない。
考えろ。こういうとき、普通の人間はどうする?
……誰かに頼る?
いや、無理だ。知らない人に話しかけるなんてハードルが高すぎる。そんな高度な社会スキル、俺には備わってない。
……こうなったら、別の手を考えるしかない。
俺は仕方なく、門の周囲を歩きながら様子を探ることにした。
幸い、ここは大都市ではない。門の作りもそこまで厳重ではなく、門番の数も二人しかいない。人が通るときに身分証を確認しているが、全員細かくチェックしているわけではなさそうだ。
つまり、うまくやれば忍び込める。
「……仕方ねぇよな」
悪いとは思う。が、もうどうしようもない。
「サイレントミスト」
俺は小声で呟き、魔法を発動する。
静寂をもたらす霧の魔法。周囲の空気をぼやけさせ、存在感を薄くする。完全に透明になれるわけじゃないが、「誰かがいる気がするけど、気のせいか?」くらいのレベルにはなる。これでどさくさに紛れて侵入しようってハナシだ。
もちろん、無敵というわけではない。相手が警戒していたら見破られる可能性もあるし、無理に大きな動きをすれば目立つ。つまり、自然に振る舞うのが最重要だ。
そのまま、さりげなく列の最後尾に戻る。
前の通行人が門番と会話している間に、俺は何気ない素振りで列を抜け、脇を歩いた。
極力、音を立てないようにゆっくりと。
一歩。もう一歩。
気づかれるなよ、気づかれるなよ……。
「……おい、次の!早くしろ!」
門番が次の奴を呼ぶ声が背後から聞こえる。
……これはいける!
そのまま、俺は足早になりすぎない程度の速度で街の中へと足を踏み入れた。
──バレてねぇ、よな?
慎重に振り返る。門番たちは、特に気にする様子もなく、通行人の身分証を確認していた。
……フフフ、勝ったな
こうして見事不法侵入を果たした俺は、何食わぬ顔で街の通りへと紛れ込んだのだ。
……これ、大丈夫か?後で捕まらないよな?
そんな不安が湧き上がってくるが、今さら引き返せるわけがない。何事もなかったかのように振る舞うしかない。
そうして俺は息を整えて、ゆっくりと通りを進んでいった。
街は想像以上に賑わっていた。
行き交う人々のざわめき、行商人の威勢のいい呼び込み、荷車の車輪が軋む音。そこかしこに生活の音が満ちている。
──すごいな。みんな、こんな風に生きてんのか。
目の前の光景に圧倒されながら、道の端っこをそろそろと歩く。人混みの中に突っ込む勇気なんてない。
だが、そんな俺の思考をぶっ飛ばすような事態が起きる。
「おいおい、いい匂いすぎるだろ……!」
屋台が並ぶ通りに差し掛かった途端、俺の鼻腔が刺激される。この世のすべての善が詰まったような香りだ。
焼きたてのパンの香ばしい匂い、鉄串に刺さった肉が滴らせる脂の芳ばしさ、スープ鍋から立ち上る濃厚な出汁の香り──
いや、これもう飯テロどころの話じゃない。飯による暴力。圧倒的な破壊力。
「おお、食い物だ……!」
無意識にふらふらとそっちへ向かいそうになる。やばい、今の俺、確実に野生動物の動きしてる。理性ゼロ。
──が、待て待て。
何か一つ、重大なことを忘れていないか?
金が、ない。
いや、ほんとにないよな? 一応確認するか……
手をポケットに突っ込み、服の裾や袖までまさぐる。ないのは分かってるんだが、もしかしたら奇跡的に数枚の硬貨が残ってたり……
ない。完全に、一文無し。
そして売れるものもない。うん、詰んだな。
結局、俺は何もできず市場を後にした。
……社会って、こんな厳しかったっけ?
いや、知ってたけどさ。改めて直面すると、流石にエグいな。
また腹が鳴る。うるさい。
もうお前の気持ちはよーくわかった。俺だって好きで空腹になってるわけじゃねぇんだ、少し黙っててくれ。
しかし何とかなると思っていたが、こうも何ともならないとは。途方に暮れながら、ただただ時間だけが過ぎていくことに……。
「……あれもしかして俺、詰んでる?」
──そして日が暮れた。
何か方法があるはずと街を彷徨ったが、本当に何もなかった。
市場の店はすべて閉まり、先ほどまで賑わっていた街並みも、しんと静まり返る。冷たい風が肌を刺すように吹き抜ける。
俺は路地の隅に座り込み、肩を丸めて震えた。
「……人生、短かったなぁ」
まさか、こんな早くにギブアップとは。おかしいな。俺、もうちょいどうにかなると思ってたんだけど。
何度か、道行く人の足音が聞こえるたびに、話しかけようかと迷った。だが、どうにも勇気が出ない。
──すみません。俺、食いっぱぐれたんですけど、どうしたらいいでしょう?
うん、絶対に無理だ。そんな奴、キモすぎるだろ。もし逆の立場だったら死んでも関わりたくねぇわ。
結局何も言えず、何もできず、ただ寒さに震えるだけ。
「ルゼ、どこ行っちまったんだよ……」
唯一頼れるはずの従者は、どこにもいない。
俺はぼんやりと夜空を見上げる。
──おいおい、生きてくのって難易度高すぎるだろ