第五章 違う目線
時は少し遡る。
空が店を飛び出した海を追った後。
光は深く溜息をついた。
どうやらまた、自分は失敗したようだ。そう思うと情けなくなる。
光はただ、他人よりも海のことが心配だっただけだ。
まだ、自分は人に思いを伝えることに慣れていないらしい。ずっと、感情を表に出すことをしてこなかったから。
そんなことを考えていると、不意に光は近くに人の気配を感じた。光の座る席の傍らに、誰かが立ったようだ。
そちらを見上げると、光と同じ年くらいの少女がいた。派手さはなく、クラスでも目立たないタイプとでもいおうか。黒髪を両サイドで三つ編みにして、肩に垂らしている。
彼女はおずおずといった体で、光に話しかけた。
「あの……。もしよければ、私と少しお話しませんか?」
小さな声だったが、聞き取れた。光は少し、意地悪をしたい気分になる。海と喧嘩したことが、尾を引いているのかもしれない。
「何? ナンパ?」
少女は赤面し、目を大きく見開いた。そこまでは光の予想範囲内だったが、その後が違った。
「はい、ナンパです。逆ナンです!」
胸の前でこぶしをぐっと握り、少女は店内に響くような大声でそう宣言したのだ。
光は、呆気にとられた顔を少女に向ける。
「あの、ダ、ダメでしょうか」
不安そうにこちらを見る彼女に、光は自分でも信じられないほど自然に笑みを浮かべて見せた。だがそれは、ある種営業スマイルに似たものだった。フィギアスケートをやっていた頃、周りの人に向けていたような作り物の笑顔。
「いいよ。でも……」
「で、でも?」
なぜか呆けたような調子で少女が問う。
「どこか他の店に行こう。喫茶店とか」
光はそう提案する。少女はきょとんとした。ここでいいのにと思っていることは明らかだ。光は、笑顔を持続させたまま指摘した。
「君が、動物園の檻の中にいる気分を味わいたいなら、このままここで話してもいいけど」
そう言うと、少女は気づいたように辺りを見回す。そして、あちらこちらから向けられる好奇の視線に耐えかねたように下を向いた。
「ほ、他の場所がいいです」
少女の呟くような声に合わせて、光は立ち上がり笑顔を向けた。
「じゃあ、行こうか」
それを合図に、二人はそろって店を出た。たくさんの目に見送られながら。
二人はファーストフード店からほど近い喫茶店に入ることにした。店内は昼のピーク時を過ぎたせいか、客はまばらだ。さほど広くはないが、落ち着いた雰囲気を醸し出している。光はカウンター席を避け、店内一番奥の四人掛けの席を選んだ。
少女は素直に後についてくる。
目の細い喫茶店のマスターに、アイスコーヒーとアイスティーを頼む。
二人は、マスターが頼んだ品々を持って来ても、沈黙を保ったままだった。
光は少女が話し出すのを待っていたが、待っていても一向に話し出す気配がないことを悟り、自分から口を開くことにした。
「で、君は僕と何の話がしたかったのかな」
光の問いかけに、アイスコーヒーにシロップとクリームを入れて混ぜていた少女は、顔を上げた。
「あの……」
そこから話が続かない。光は溜息をつきたいのを我慢した。
「本当はナンパじゃないよね。ただ、僕から話を聞き出したかった。違う?」
重ねた問いに、少女は意を決したように、アイスコーヒーから光に視線を移した。光の瞳をしっかりと見つめる。
「どうして、分かったの?」
「そりゃ、普通ナンパするときはあんなにはっきり、はいナンパです。なんて言わないものだよ」
「うっ」
思い出したのか、少女は痛いところを突かれたような顔をした。少し頬が赤くなっている。
「それに君、僕たちが騒ぎ出す前。僕の連れが死人からのメールの話を始めてからずっと、こっちを気にしてただろう。君は僕たちの話が聞こえる程度には近いカウンター席にいたから、すぐに分かった」
「気づいてたんだ」
驚いたように、少女はそう言った。それが肯定の言葉になった。
「実は、そのメール。私のところにも来てるの。あ、あなたのお友達に相談したのは私じゃないけど」
少女はそう言って、またストローでアイスコーヒーをかき回した。氷が音をたてる。
「そう。でも、僕はメールが来るとしか聞いてないよ。それ以外は何も分からない。君に何か言ってあげることもできないな」
相変わらず冷たく聞こえる声音だったが、少女は怯まなかった。
「ねえ、一緒に犯人を探してくれないかしら」
「え?」
「私一人じゃ不安だし。こんな話、誰にも話せないし。でも、あなたは知ってるし、だから、一緒に犯人捜してくれない?」
少女の言っていることは、筋が通っているとは思えなかった。普段なら即断っている。だが、光は断る言葉を飲み込んだ。
どうせ、海は何を言っても、この話に首を突っ込むだろう。そして、人のいい海のことだ。絶対に巻き込まれるに決まっている。それならば、先にこちらで動いてしまった方が、海の危険を少しでも回避させることができるのではないか。そんなにたいした危機があるとは思えないが、少なくともそれを確認することはできるだろう。そんな思いが光の頭を過った。
「分かった。でも、一つ条件がある」
少女は緊張した面持ちで頷いた。
「う、うん。何? 条件って」
光はまた笑顔を浮かべた。海と喧嘩してからこっち、表情がゆるんでしまったようだ。
「君の名前を教えて」
そう言うと、初めて少女は笑顔を見せた。
「あ、本当。まだ私たち名乗りもしてなかったのね。私は静。伊藤静。あなたは?」
「春名光」
光が名乗ると、少女は光に向かって手を差し出した。少しの驚きと躊躇いを持って、光は静を見返した。
彼女は言った。
「握手しましょ。よろしくね。春名君」
光はゆっくりと手を差し出した。
喫茶店で静と別れてから、光は時間を確かめようと携帯電話を見て、着信があったことに気付いた。空の自宅からだ。空はいまどき珍しく、携帯電話を持っていない。
光は逡巡のあと、リダイヤルを押した。
『ありがとうございます。高橋ブック店でございます』
電話の相手がそう告げた。女性の声だ。光は店の方にかかってしまったのかと驚いたが、驚きは表に出ることはなかった。
「春名と申しますが、空君はいらっしゃいますか」
光が尋ねると、電話の向こうの女性の声が先ほどよりも低くなった。どうやら先ほどの声は営業用だったらしい。
『ああ、光くんね。空からはよくお話を聞いてますよ。この間のテスト学年で一番だったんですってねー。すごいわー。空に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいわ』
「いえ、別にすごくは……」
『あらやだ、謙遜しちゃってー。また空に勉強教えてやってくださいね。あ、そうだ、今度うちにご飯食べにいらっしゃいよー。この間も海君がねー……』
口を挟む隙がない。
光がどうしたものかと思いながら、大人しく相手の女性の話を聞いていると、電話の向こうから空の母を呼ぶ声が聞こえた。
『あ、ちょっと待ってね。空が来たから。空ー。光くんから電話よ』
電話の向こうで、なんで母さんが長々しゃべってんだよ。とか、だって一度話してみたかったのよ。などという会話が聞こえ、その後に空が出た。
『あ、ワリ。母さん話好きなもんだからさぁ』
「おまえ、電話って店と共用なのか?」
尋ねると肯定が返ってきた。
『うん。まあね。そんなことよりさ。どうなってんだよ。海カンカンに怒ってるぜ』
「僕は間違ったことを言ってるつもりはないけど」
『じゃなくて、女だよ、お、ん、な。女の子と一緒にいただろう』
「見てたのか」
空の言葉に少なからず驚いた光は、無意識に口走っていた。
『見てたんだよ。海のやつ、光が海と喧嘩したこと全然気にしてないって言って怒ってさ。帰り道口きいてくれなかったんだぜ? あの海がだぜ? ここはひとつ、光、お前が謝っとけよ』
光は見えないと分かっていながら首を横に振った。遅れて言葉が漏れる。
「それは無理だ」
『なんでさー。一言謝ればすむことじゃん』
「海が何に対して怒ってるのかが分からない」
『はあ?』
「そう言うことだから」
光はそれだけ言い残して電話を切った。空が何かを言おうとしていたが構わない。
そもそも海は何を怒っているのだろうか。
最初は光が優しくないと言って怒っていた。
だが、空の話では女の子と一緒にいたのが気に食わないから怒っているという。
女の子と一緒にいてなぜ腹を立てられなければならないのだろう。
光は無意識に首をひねり、ケータイ電話を尻ポケットに突っ込むと、駅へ向かって歩き出した。