第三十四章 何が幸せ?
光が静と待ち合わせるよりも前の時間。
岸谷の入院先の病院から出てきた二人は、その足で、私市が勤めているはずの警察署に足を運んだ。
署内に入って、探す間もなく二人は私市に呼びとめられた。
「やあ、海君と、高橋君」
海を呼んだあとに空の名を呼ぶのが少し遅れたのは、きっと空の名字を思い出すのに時間を要したからだろう。
二人に近づいてきた私市は、眠そうな目をさらに細めて、二人を見下ろした。別にえらそうにしている訳ではなく、たんに私市の背が二人より高いからである。
「あの、私市さん。これから少し時間もらえませんか?」
「いいよ。ちょうど今から一度家に戻るところだったからね」
そう言って、私市は話があるなら外へ行こうと二人を促すように背を押した。
駅から少し歩いた場所にある喫茶店に、私市は二人を案内した。四人掛けの椅子に腰かけた私市に、細い目をしたマスターが氷水の入ったコップを置いた。
「私市、おまえまさか、援交じゃないだろうな」
声を落としてはいたが、マスターの言った一言は空と海の耳に届く。
驚いた顔を私市に向けた二人に、私市は慌てた風もなく笑顔を向けると、横に立つマスターに仏頂面を向けた。
「人聞きの悪い。俺は立派な公僕ですよ」
私市は言いながら、胸に手を当てる。純粋であるというアピールのつもりだろうか。
「どうだか」
そう毒づいて、細い目を空たちに向け、マスターは冗談だからと言って席を離れた。
「友達ですか?」
海がカウンターの奥へと戻る背を見つめながら尋ねると、私市はああと頷いた。
「学生のころからの腐れ縁だよ。で、話って?」
私市は二人の顔を交互に見る。空は胡散臭そうに私市を見ていたが、表情を改めて口を開いた。
「教えてほしいことがあるんです」
私市は空に目を向け、顔にほほ笑みを浮かべた。その時、席に着く前に私市が勝手に頼んだ、アイスコーヒーが三つ運ばれてきた。それが全て机の上におかれ、店員が持ち場へ戻ったのを見届ける。
「教えてもらいたいのは、川崎杏奈さんが死んだ時の状況です」
「例えば」
教えないと言われなかっただけましか。そう思って海を見ると、彼は頷いて空の言葉の続きを引き取った。
「例えば、爪。可笑しなことになってへんかったですか? 」
私市はストローに口をつけたまま、変な顔をした。二口程コーヒーを飲むと、ストローから口を離した。
「なんで、そんな風に思ったんだ?」
「ほらドラマとかで、ようあるやないですか。被害者が、犯人ともみ合って、爪に犯人の皮膚が残ってるーとか」
私市は、テレビの見すぎだよと言って笑った。だが、その瞳は笑っていないように、空には見えた。
「川崎さんの爪、切られてたんじゃないですか?」
空の問いに少なからず驚いた表情を見せた私市は、ゆっくりと口角を上げて口元だけの笑みを見せる。
「その通り、爪は切られていた。どうして分かった?」
私市に聞かれ、空と海は顔を見合わせた。
「光が、言ってたんです。手は、水に浸かってたか、爪が切られていたかしたんじゃないかって」
代表して空が答える。私市は、光君かと、何かを考えるように呟いた。
「犯人は、川崎さんに傷を負わされた可能性がある。とかなんとか言うてたんですよ。で、川の水で川崎の手を洗ったか、爪を切ったかしたんちゃうかって」
ふむ。と、私市は顎に手を当てた。
「あんがい、揉み合った時に引っ掻かれたから、爪を切ったってことも考えられるな。少量の血痕も見つかったし」
私市の言葉を聞いて空が声を上げた。
「え? それって犯人の?」
「こらこら、声が大きいよ」
私市が苦笑とともに、空を窘めた。
「そんなん、俺らに言うていいんですか?」
思わず聞いた海の横で、空は、砕けた敬語だと関西弁入るんだと関係の無いことを考えてしまっていた。
「ああ、まあ。どうだろうね」
空は、そんなんでいいのかと突っ込みたくなった。だが、せっかく話してくれたのだからと思いとどまる。
海は、目の前に置かれたアイスコーヒーを啜ってから口を開いた。
「血痕が残っとったってことは、調べれば誰の血か分かるんですよね」
私市は訝しい表情を作った。
「それは、まあ。そうだが。君たちはその血の主に心当たりでもあるのか」
身を乗り出した私市に、空と海は昨夜、光と話した内容について語ったのだった。
「ねえ、春名君。私のために死んでよ」
光は一歩後退った。ここに来て、すぐに、自分が絵里をここから突き落としたのだと、静が告白した時から思っていたのだ。
「最初から、僕を殺すつもりで呼びだしたんだね」
静は一歩一歩と光との間合いを詰める。
「そう、だから今日はスカートやめたの」
静の口調は楽しげだ。
カンと音が鳴った。ベルトが、背後にあった柵にぶつかった音だ。光はいつの間にか隅に追い詰められていたのである。
「あなたも、可哀相よね。アンナがあの手紙なんて残さなければ、殺されずに済んだのに」
光は我知らず唾を飲み込んだ。
「死ぬ前に聞かせてくれ、君は本当に石井さんと川崎さんを殺したのか」
静は光の目の前に立ち、顔を近づけ、満面の笑みを浮かべた。
「ええ。殺したわ。だって、邪魔だったの。あの子たち」
「邪魔?」
光の口から洩れた声は、少し掠れて聞こえた。
「そう。邪魔だったの。ムッコってば、あんなにここで言い含めたのに。エリが落ちたのは自業自得、ムッコのせいじゃないよって。あんな奴のことは忘れて、楽しく生きましょうって。なのに、あのメールのせいで、すっかりおびえて。エリを突き落としたことを警察で言うなんて言い出すから」
「あの廃ビルで彼女を突き落とした」
光の確認に、彼女は素直に頷いた。風に揺れた長い髪が彼女の顔を覆い、それを手ではねのける。
「そうよ。あなたの言うとおり、あの日、私はムッコと話し合うつもりでムッコの家に向かってた。そして、電話をもらったのよ。警察へ行くってね。だから、途中で捕まえて、あの屋上へ行った。せっかく一年も黙ってきたのに、今さらあの話を蒸し返すなんてどうかしてるわ。黙っていれば誰にも分からない。それなのに。あの子はエリの父親の嫌がらせに屈して、私との約束を破ろうとした。ずっと黙ってるって約束したのに」
静は睦子に裏切られたような気がしていたのだろうか。ふと、光はそう思った。
静は、口元を歪めて声をだした。
「私はこれから、もっともっと幸せにならなきゃならないの。エリやムッコに私の幸せを奪う権利なんてない」
「それを言うなら、君にだって彼女たちの命を奪う権利はないだろう」
光の言葉に、静は冷笑を浮かべた。
「権利? そんなのどうでもいいわ。私は、前に立ちはだかる邪魔な虫を退治しただけ。あなただって、蚊が腕に止まったら叩くでしょう?」
当たり前のことのように紡がれる静の言葉。矛盾していると気づかないのか。
静の言葉がどれも本気だと察して、光の背に嫌な汗が伝う。
「君にとっては、川崎さんも邪魔な虫だったってわけか」
「ええ。あの子、私を呼びだして何て言ったと思う? 友達を殺すなんて許せない。一生苦しめてやるって言ったのよ。馬鹿な子。何が友達よ。自分が私より勝ってるとでも思ってたのかしら。あれも死んで当然よ」
光は、柵に背を押しつけた。静から少しでも距離を置きたかったのだ。
「あの子ってば無防備に私に背を向けるんだもの。一生苦しめてやるって言っておきながら。私に歯向かったらどうなるか教えてあげたの。頭を押さえて、川にね、顔を抑えつけてあげたの。そしたら、思ったよりあっさり死んだわ」
そんな惨いことをよくやれたものだ。当たり前のことのように喋る目の前の少女が、光は恐ろしくなった。
「君たちは友達だったんだろう」
「友達? ばかばかしい。さっきも言ったけど、ムッコもアンナも友達なんかじゃないわ。しいて言うなら、私の下僕。お金を出せばついてくる卑しい奴らよ」
光は眉を寄せた。静の顔にはいまだ笑みが張り付いている。
「君は、そうやっていつも人を見下してるのか」
「私に見合う相手がいないんだもの、しょうがないわよ。あなたは私に見合うかと思ってたんだけど、思い違いだったみたいね」
静の雰囲気が不意に変わった気がして、光は声を上げた。
「あの時! あの時も君は、僕を殺すつもりだったのか?」
光の声は若干上ずって聞こえた。光にしては珍しく内心の動揺が表に出たのかもしれない。静は訝しむような表情を見せたあと、答えた。
「ああ、廃工場でのことね。そう。確かにあの時、あなたには死んでもらいたかったのよね。アンナの手紙、あなたは何のことか分からないって言ったけど、ほら、用心にこしたことはないじゃない」
彼女はふふっと笑い声を上げた。
「君はあの日、僕に犯人から呼び出しがあったと嘘の電話をよこして僕をおびき出した。でも、君が呼び出したのは僕だけじゃなかった」
光の言葉に、静は口を挟む様子を見せずじっと耳を傾けている。
「桜田さんの父親、岸谷さんと、石井さんの元彼、植田も君は呼びだしたんだ」
「ん。正解」
静は言葉とともに手を叩いて見せた。
岸谷が刺されたあの日。植田が何故あの場所へ現れたのか。それが不思議だった。石井睦子と別れていた彼は、睦子が悪戯メールに悩まされていたことを知っていたとは思えない。
誰かが、彼に教えない限り。
悪戯メールのことを知らなければ、岸谷が睦子を殺した犯人だと思い込むことはなかったはずである。
では、それを彼に教えたのは誰か。そう考えれば、静しかいない。そう、光は思ったのである。
「岸谷さんには、桜田さんの死の真相を教えてあげるとでも言ったのかな。植田には……」
「ムッコを殺した犯人を突き止めたって話したの。あと、ムッコをたぶらかした男も呼びだしたって言ったのよ」
その言葉で、光は悟った。
「僕を殴ったのは、植田だったのか……」
静は、出来のいい生徒を見る先生のように目を細め、光を褒める言葉を吐いた。
「そうよ、よーくできました。あの男にはがっかりだったわ。死んだと思ってたあなたが、普通に立って私の前に現れるだもん。びっくりしちゃった。死体になったあなたの発見を遅らせようと思って、あんなとこまで運んだってのに全部無駄。まあ、全てが上手くいくとは思ってなかったけど。私にとっても大きな賭けだったし」
あの時。廃工場で岸谷に追われるようにして入ってきた静は、光を目にした時、確かに驚いた表情をしていた。あれは、死んだと思っていた光が生きていたことへの驚きだったのか。
「あなたを殺して貰って、ぜーんぶの罪をエリの父親に被せて、絵里の父親の口を封じれば、それで終わりだったのに。植田の奴」
最後は憎々しげに、吐き捨てた。だが、ふと気を取り直したように、俯きがちにしていた顔を上げた。
「でもまぁ、絵里の父親を殺してくれたのはお手柄だったかな」
静は光の表情を見て、眉を顰めた。光は、嫌悪の念を隠さず顔に出していた。
「嫌な顔。そんな顔しないでよ。……少し喋りすぎちゃった。さ、もう死ぬ時間ね」
そう言うや否や、静は腰をかがめた。不意な動きに、光は虚をつかれた。
静は光の片足を取るとそれを高く持ち上げたのである。
光の身体のバランスが崩れた。
体が傾いで、視界に灰色の雲が広がった。