第三十三章 その理由
葉擦れの音が耳に届く。湿った風が強く、廃墟の屋上に立つ二人の間を吹き抜ける。雲の流れが心なし、速くなったように思われた。
「この事件は、二年前の桜田絵里の自殺騒動から端を発している」
静は頷くにとどめた。これは当たり前のことだろう。光は先を続ける。
「君と、石井さんは桜田さんの死の真相を知りながら、それを黙って生活を続けていた。そして、桜田さんの名を騙ったメールが届く。そのメールを見て、石井さんは怯えた」
「ええ、そうね。でも、一番怯えていたのはユカだったわ」
「ああ、彼女も怯えてはいた。それは彼女に負い目があったから。石井さんにも、負い目があったわけだ」
静は頷いた。
「さっき私が話した内容ね」
静と睦子は絵里を揉み合いの末この屋上から突き落としてしまった。それを石井睦子は気に病んでいた。故意ではないにしろ、桜田絵里を殺してしまったのだから。
「石井さんが亡くなったあの日。君は、石井さんが警察へ行くと言ったあと電話が切れたと言っていた」
「その通りよ。ムッコから、あとをつけられてるから、警察へ行くっていう電話の途中で切れたのよ。それがおかしなことなの?」
尋ねられて、光は無表情に応じた。
「ああ。おかしいというよりは、違和感だな。彼女は亡くなる前、僕たちの前で、警察なんていけるわけないと怒鳴ったのを君も覚えてるだろう? なのになぜ、死ぬ前の電話では警察へ行くと言ったのか」
「追いかけられて怖かったからじゃないの?」
静の答えはもっともに聞こえる。だが、光は首を横に振った。
「僕は彼女が覚悟を決めたからじゃないかと思っている」
静が眉を寄せた。訝しい表情で、光に疑問をぶつける。
「覚悟? 意味が分からないんだけど」
「なぜ、彼女は警察なんていけるわけないと言ったのか。彼女は警察に、痛い腹を探られたくなかったんだ。桜田絵里の件で嫌がらせのメールが来ている。その犯人から彼女はつけられていると思っていた。警察に行けば、桜田絵里のことについて話さなければならなくなる」
「そんなの、いくらでもごまかせるのに」
彼女の言葉に、光は溜息をついた。
「石井さんには出来なかったんだろう。でも、何度もあとをつけられている内に、恐怖はピークに達した。桜田さんのことを話してでも、この恐怖から逃れたい。そんな風に思ったんじゃないか」
「あり得ないことはないわね。でも、それでどうして私が犯人になるの?」
「君は、警察に知られたくなかったから。というよりは、世間に公表されたくなかったから、かな」
静が目を細めた。眉間に皺が寄る。だがそれもつかの間で、すぐに微笑みを浮かべた。
「そんなことないわ。私、さっきあなたに話したばかりじゃない」
静の言葉をあえて光は無視した。
「君は石井さんの精神状態を間近で見てきた。彼女がもう限界なのは分かっていたはずだ。だから、彼女が邪魔になった。君は、あの日。電話をもらって、彼女を殺す決意をした。いや、その前から殺そうと思って、彼女の家の近くに居たのかもしれないな」
静は彼の言葉を聞いて、笑った。
「すごい妄想力ね」
口元に拳をやり、また笑う。
「君は彼女を人気の無い、あの廃ビルまで呼び出し、彼女を突き落とした」
「ありえないわ。私、あそこに入ったことないって言ったじゃない。あなたと二人でムッコを探しに入った時が初めてなのよ」
静が言い終わった後、光は少し俯き、ずれてきた黒ぶち眼鏡を人差し指で押し上げた。
「本当に初めて?」
「ええ」
静の頷きに、光はわざとらしく首をかしげて見せた。
「それはおかしいな。なら、なぜあの時。君は僕に注意することができたんだ?」
静は何のことか分からなかったのだろう。不思議そうな顔をする。
「憶えてるだろ? 二人で廃ビルに入って、階段を上っている時。君は僕に言った。危ない、大きな穴があいてるって。まさか、聡明な君が、忘れたなんて言わないよね」
光の言葉に、静が苦虫をかみつぶした顔になる。
「あの時、僕はおかしいと思った。あそこは暗くて、ケータイの僅かな灯りが頼りだった。足元の、ひかりなんてほとんど届かないあの場所の穴を、どうして君が気づけたんだろうとね」
静は答えなかった。右手で左肘辺りを掴み、光から目を逸らす。
「君はあの穴の存在を行く前から知っていたんだ。先に石井さんと、一緒に上ったから。その時、二人の内どちらかが躓きでもしたのかな」
片腕を掴んでいた手に力がこもり、関節の骨が白く浮き上がって見えた。静は一度息を付くと、光を見やった。
「その時からずっと、私のこと疑ってたの? 春名くん」
じっと見つめてくる静を、光は無表情で見返した。
「いや、その前から」
静が首を傾げる。
「その前?」
「君が、キーホルダーを見つけた時から、違和感があった。僕は、君に誘われるように、あのビルに入った。そして、ビルの中に落ちていた鞄。まるで僕らにビルの中を捜せと、誘導しようとしているような気がしたんだ」
「そんなの気のせいよ。きっと、犯人ともみ合って、鞄投げつけたりしたんじゃないの」
投げやりな口調で静が髪に手をやる。
光は息をついてから、静に言った。
「それなら、鞄の中身が飛び出していないのは変だ。それに、あの場所に争った形跡はなかった」
静が皮肉げに、口元を歪めた。
「そう、まあそういうことにしておいてあげるわ。じゃあ、春名君は私がキーホルダーを見つけた時点で、私に疑いを持っていたってことでいいのよね」
「まあ、その時点では微かにだけど。でも、動機が分からなかった。あの時までは」
「あの時?」
静の声に、光は頷いた。
「川崎さんが僕に話があると言って、僕を呼びだして聞かせてくれた。石井さんが、桜田絵里が死んだ時に、その場にいたと。彼女はそれしか言わなかった。桜田さんが落ちた時に、石井さんは一人だったのかという僕の問いに対し、彼女は、春名君はどう思うのと、尋ね返してきた」
そこで一旦言葉を切って、光は先を続けた。
「その時僕は、石井さんは一人ではなかったと確信した。石井さんが川崎さんに、その話をしたということから、川崎さんは除外される。君島さんは、自分が約束の場所へ行かなかったから、桜田さんが死んだと思い込んでいた。と、言うことは、一緒に居たのは、君以外考えられない」
「実際にその通りだったわけね」
静の声は落ち着いていた。少しも追い詰められたような感じはない。
「ああ。川崎さんは、石井さんから、君と石井さんが桜田さんを突き落としたことを聞いていた。それを石井さんが警察に話そうとしていることも。石井さんが死んだ時、彼女は、真っ先に君を疑ったんだ。だから、あんな手紙を書いた」
「春名君は全部知ってる」
静の呟きに、光は首を縦に振った。
「そう。それだ。なぜ、川崎さんはあんな手紙を書いたのか。それは、あの手紙を見た君が、疑心暗鬼に陥るのが分かっていたからだ。それはつまり、君には知られたくない秘密があるということ。あれは一種の脅しだった。彼女は、自分が殺されることを薄々感じていたんだろう。だが、みすみす殺されてやる気はなかった。死んだ後も、君を苦しめるつもりであの手紙を書いたんだ。手紙に書いた名が僕だったのは、単に君と僕がつきあっていると彼女が思っていたからだと思う。彼氏である僕が、君の罪を知っている。そう思って君が戦々恐々とするさまを思い描いていたのかもしれない」
杏奈は光に手紙を渡した後、別れ際に言った。最後に二人に会えてよかったと。最後に。その言葉が引っかかった時、どうして呼びとめ、彼女から全て聞きださなかったのか。そんな後悔が彼の中にあった。
あの手紙を書いた杏奈が、意図していたのかは分からないが、光にとっては静が犯人だと示す告発文に相当していた。
ふと、静の笑い声が耳に届いた。知らず俯けていた顔を上げる。いつの間にか、静がすぐ目の前に立っていた。静が光の顔を覗きこむ。
「ふーん。おっしいなぁ。頭が良くて、顔も良くて、ついでにお金持ち。理想の彼氏になれるっていうのに、死んでもらわなきゃならないなんて」
楽しげな口調で、さらりと告げて。静は満面の笑みを浮かべた。