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第三十二章 本当は

 暑い日差しを覆う雲は、どんよりとした空気をまとわせ上空に漂っていた。日差しが遮られるものの、周りの気温は高く、湿気が多い分、蒸し暑さを感じる。

 光は、以前待ち合わせたのと同じ、駅前の噴水広場で、静を待っていた。

 静の方から話があると電話があったのだ。光の方にも静と話しておきたいことがあったので、昼の二時半に待ち合わせをすることになった。

 現在の時刻は二時二十八分。あと、二分で待ち合わせの時間になる。

「ごめん、春名君待った?」

 すっかりと聞きおぼえてしまった静の声に振り向けば、静は初めて見るパンツ姿だった。丈の短い──クロップドパンツという名称だったか。その白いパンツの上に、ピンク色のフリルとリボンの付いたブラウスを着ている。決してボーイッシュではなく、清楚系を崩してはいない。そんなことを考えている光の前で立ち止り、静は笑顔を向けてくる。

「待ってないよ。今日はパンツなんだね。似合うよ」

 にこりともせず告げたが、静の頬はほんのりと赤く染まった。

「あの、春名君。今日呼びだしたのは、お願いがあって」

 言い淀み、下を向いた静を、光は見下ろした。

「私と、付きあってほしいの。ムッコやアンナに言ったみたいに、嘘じゃなく、本当に付き合ってくれないかな」

 光の眉間に皺が寄った。静が潤んだ瞳で、光を見上げる。光は軽く息を飲んで、そんな静を見つめた。

 静はゆっくりと動く。周りに人が居ることなど気に留めていないのかもしれない。光の首に腕をかけると、背伸びして光に顔を近づけた。唇と唇が触れそうになる。

 反射的な行動だった。光は掌で静の唇を受け止める。

 その感触に気付いたのだろう。静は目をあけ、しばし、光と見つめ合った。

 彼女はゆっくりと手を離すと、苦笑いを浮かべる。

「やっぱり駄目か」

「僕は、君のことが良く分らないな」

 少し呆れたような声が光の口から洩れた。静は、首を傾げる。

「大人しいかと思ったら、大胆だし。人見知りするタイプかと思ったら、そうでもないし」

「何が言いたいの?」

 静が穏やかに尋ねた。光は口元だけで笑んで、静の耳元に唇を寄せた。

「でも、僕は知ってるよ」

 静は慌てて、耳に手をやって光から距離を取った。行き交う人々から見れば、恋人同士がじゃれ合っているように見えるかもしれない。だが、二人の間にはそんな空気は微塵もなかった。

「な、何」

「君がやったこと」

 静の顔から表情が消えた。耳にやった手を下して、光を見つめる。彼は口元の笑みをより一層深めた。

「川崎さんの手紙に書いてあっただろう? 春名君は全て知ってるって。あの時は周りに人がいたから惚けたけど」

 静の光を見る目に鋭さが生まれた。

「……じゃあ聞くけど、何を知ってるっていうの?」

 静が強い視線はそのままに、笑顔を作って見せた。

「川崎さんが知っていたことは全部、かな」

 光の顔には冷笑が浮かんでいる。綺麗な顔立ちの彼にはとても似合う表情だ。

 静はじっと彼を見詰めた。

「人目に付かない場所に移動しようか」

 光が、小声で告げた。静が聞き返す。

「え?」

「人には聞かれたくないだろ」

 静は否定も肯定もせず、光に背を向けて歩き出した。光はその後をゆっくりとついて行った。




 この建物は以前病院だった。

 夜この建物に入ると神隠しに遭うだの、四階の五○一の病室には少女の霊が出るだのという噂はこの辺りに住む人々にとっては周知である。実際に、建物を壊そうとしたことは数度あったのだが、そのたびに事故が起き、持ち主が壊すのを諦めたという。壊すのにも費用はかかるのだ。

 そんな廃墟に、静は光を伴ってやってきた。

 所々破損した壁や床。割れたガラスやゴミが床に落ちている。長い廊下を進み、クモの巣を避けて、静の後を追いながら、光は屋上へ出た。灰色の雲が光を出迎える。

 光は額の汗をぬぐって、静と対峙した。

「ここ、知ってる?」

 静が、にこやかに問いかけた。光は頷く。

「ああ、桜田さんが亡くなった場所、だろう」

 静は笑みを深くした。

「ご名答」

 ふざけた様に、拍手する。光は眉を潜めて見せた。

「あら、ご機嫌そこねちゃった?」

 そう言う静はやけに機嫌が良いように見えた。

「ここは、私にとって、落ち着く場所なの」

 弾むような口調で静が続けた。光は理解できない思いを胸に抱く。

「ここは、君の友達が亡くなった場所だろう?」

 それが、なぜ落ち着く場所になるのか。

 静は、光に背を向け、錆の浮いた柵に手をかけた。柵の向こうには灰色の空が広がっている。

「あんなの、友達じゃないわ」

 静がこちらを振り向いた。その顔から笑みが消えていた。

「さあ、教えて? 春名君は何を知ってるの?」

 探るような眼。光はその視線を受け止め、口を開く。

「君は、二年前。桜田さんがここから落ちた時、この場所に居た」

「それだけ?」

 即座に問い返されて、思わず言葉に詰まる。

「私とムッコが、エリをここから突き落としたことは聞いてないの?」

 光は目を見開いた。嫌な汗が頬を伝う。

 やはり、そうだったのか。

 光が、杏奈から話を聞いていたというのは嘘だ。本当は空と一緒に杏奈と話したことが全てで、杏奈から詳しいことは何も聞いていない。

 なぜ、静は自ら口にしたのか。光は疑問を振り払うように頭を一度振って、息を吐いた。

「ああ。でも、そんなところだろうとは思ってたよ」

「そうなの。せっかくだから教えてあげる。どうして、エリが死んじゃったか」

 静は手すりに背を預けて、光をまっすぐ見つめる。

 二年前。由香が待ち合わせ場所に来ないことを告げ、睦子と静は絵里をこの場所へ呼び出した。

 ここで、絵里をいたぶることが目的だったらしい。

「でも、あの子ったら、自分がしたことは棚に上げて、私たちに食ってかかってきたわ。本当に、身の程を知らないバカだったの。エリって子は。あの子、ムッコに掴みかかってきてね。ムッコとエリはここで揉み合ったの」

 そう言いながら、静は手すりを二度叩く。

「そう、ちょうどこの辺り。いい加減うざくなってきて、私、ムッコに手を貸したの。ちょうどムッコもエリを付き飛ばそうとしてたときだったから、二人の力が加わって、エリはここから、下に落ちちゃった。あれは事故、いいえ、正当防衛とでもいうのかしら。私がムッコに手を貸さなきゃ、エリはムッコをここから下に突き落としていたでしょうね」

 静の口調は軽かった。その上、最後に小さく笑う。

 光は気味の悪いものを見ているような気分になって、静から目を逸らした。

「君たちは、落ちた桜田さんをそのまま放置して逃げたんだな」

「ええ。それはアンナに聞いたの?」

 その問いには答えず、光は逸らした視線を無理やり戻した。

「石井さんは、随分と呵責の念を抱いていたようだけど、君はそうは見えないな」

 風が吹いた。一際強い風が、この廃病院の周りに植えられた木々を揺らし、大きな音がなる。静はたなびく髪を手で押さえて、それをやり過ごした。

 その時、光の携帯電話が着信を知らせるメロディーを奏でた。尻ポケットに手をやった光を見やって、静は可愛らしく首をかしげて見せた。

「出れば?」

 光は無言で、携帯電話を耳にあてた。二言三言相槌を打って、携帯電話を閉じる。

「誰から?」

 静の問いに、今度は答えた。

「海から、桜田絵里の父親が死んだそうだ」

 少なからず驚いた後、静の顔に嬉しそうな表情が浮かぶ。その表情を見た光の顔とは対照的だ。

「当然の報いよね。私にあんな嫌がらせして」

「随分、嬉しそうだな」

 光の顔に、珍しくはっきりと、嫌悪の念が現れる。静は表情を変えず、頷いた。

「当然でしょう?」

「当然、ね。まあ、確かに。全ての罪を彼にかぶせて、これで君は安泰だもんな」

 どういう意味? と、彼女は尋ねた。

 光は、ゆっくりと、申し訳程度につけられた柵に向かって歩いた。じっと立っているのに疲れたのだ。

「君は石井さんと川崎さんを殺したのが、さも桜田絵里の父親……岸谷さんのように言っていたけど、僕は二人を殺したのは君だと思っている」

 静は、凭れていた柵から背を離し、光と相対して腕を組んだ。

「どうして私なの? あの人が全て自分のせいだって言ってたじゃないの」

「そうだな。でも、あの人が認めたのはメールの件と、君島さんを事故に追い込んだことだけだよ」

「そんなこと……」

 ないと続けようとしたのだろうが、光はその言葉を遮って続けた。

「君は、桜田絵里の父親にこう言った。あの人が犯人よ。由香が事故にあったのもあの人のせいよ。あとは……何もかも、この人のせいよ。この人さえ、メールなんて送ってこなければ、きっとみんな死ななかった」

 静は目を細め、前にかかった髪を肩の後ろに払った。

「それがどうしたの?」

「この時に、彼は認めるセリフを吐いた。君は彼にそのセリフを吐かせるために、敢えてこう言ったんだろう。ムッコはこの人に追い詰められたせいで死んだ。この人がエリの名を騙ってメールなんてしなければ、怯えて車道に飛び出したりしなかった。と」

 静は光を黙って見つめた。口を開こうとはしない。

「この時、君は川崎さんが殺されたことは省いていた。忘れていたんじゃない。君は敢えて川崎さんのことは言わなかったんだ。彼が否定するのを恐れて。君が石井さんと川崎さんを殺したのはあなただと、言った時。石井さんの元彼が現れたのは偶然じゃなかったんだろう。君は、彼があのタイミングで出てくるのが分かっていた……」

「そんなのあなたの勝手な妄想でしょう? それに、もし、仮によ。あの人が犯人じゃないなら、私よりも怪しい人がいるじゃない」

「誰?」

 光は簡潔に尋ねた。静は考えるように顎に手をやった。

「ムッコの元彼。ムッコの元彼はすごく嫉妬深くて、執念深い人だったの。ムッコは一方的に別れを告げたけど、彼はそれが許せなかった」

「だから殺したっていいたいのか?」

「ええ。それに、アンナも。アンナはムッコに彼と別れることを勧めていたから。それを逆恨みしたんじゃないかしら」

 自信に満ちた静の口調。光は一度階段へと続くドアへ目を向けて、すぐに逸らすと静に視線を戻した。

「なるほど。でも、その話は少しおかしい」

 静が不機嫌をあらわにした。光は気にした様子もなく、言葉を続ける。

「なら、なぜ。彼は岸谷さんを刺したんだ? あの時彼はこう言った。やっぱりおまえが睦子を殺したのかと」

 静の反応をうかがったが、彼女が表情を動かすことはなかった。光は息をつく。

「その言葉から、彼は少なくとも石井睦子を殺してはいない。そうでないと、岸谷さんを刺す意味がないからだ」

「二人を殺した罪を、エリの父親になすりつけるためだったのかもよ。私たちにそう印象づけるために、エリの父親を刺した」

 静の反論に、光は首を横に振った。

「罪を逃れようとする人間が、わざわざ人前で、人を刺さないだろう。それなら、人気の無い場所で、遺書でも用意して、それこそ自殺に見せかけて殺せばいい。あんな場所でわざわざ刺す必要はない」

 静がふと口元で笑んだ。少し顔を俯けたせいで、彼女の瞳は前髪に隠れた。

「なら、教えて? エリの父親でもない、植田さんでもない。私が犯人だと思う理由を」

 静はゆっくりと顔を上げ、挑戦的な目を光に向けた。光は頷き口を開いた。



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