第三十章 願い
走ってきた静の身体を受け止めた光は、震える彼女の肩に手を置いたまま、彼女を追ってきた男を見つめた。隣に立つ空に小声で問う。
「誰だ?」
「岸谷さん。桜田絵里の父親で、海の小学校の時の先生だってさ」
小声で返した空から、光は海に視線を移す。海は岸谷に向かって声を上げた。
「先生、何でこんなとこに」
岸谷が海に目を向けて、口を開こうとしたとき。静が、彼より先に声を上げた。
「あの人が犯人よ! 由香が事故にあったのもあの人のせいよ」
数メートルの距離をあけて、立ち止った岸谷を静は指さす。
「先生、ほんまですか? 君島さんのあとをつけてたの、先生なんですか!」
海が半ば怒鳴るように問う。
岸谷は、どこか憂う表情で、海に目をやった。
「斎藤……」
海の以前の姓を呼んで、言葉を詰まらせたように口を閉ざした。
「ほんまに、先生なんですか? 君島さんらに絵里さんの名を語ってメールを送ったんも、先生なんでしょう」
海が勢いの余り足を一歩前へ踏み出した。
岸谷は海とは対照的に、静穏とした口調で答える。
「ああ。すべて俺のせいだ」
海は明らかに傷ついた表情で、岸谷に視線を注ぐ。
光は軽く背中を引っ張られたような気がして肩越しに後を見ると、海が光の服を掴んでいた。
光は嘆息し、中年の男に目を向ける。
「すべて俺のせいとは、どういう意味ですか?」
光の問いに、彼に目を向けた岸谷は訝しむ表情をつくった。
「君は?」
光は、岸谷に向かって軽く頭を下げた。
「はじめまして、春名です。海の友人です」
こんな時だというのに、生真面目に挨拶をする光。兄弟だと名乗らなかったのは、話をややこしくしそうな気がしたからだろうか。
岸谷は、そうかと呟いただけだった。
「岸谷さん。あなたが言っているのは、メールの件だけですか? すべてとはどこまで含まれるんです?」
一度聞いただけの名をすぐに覚えたのだろう。岸谷に呼びかけた光は、じっと男の顔を見つめた。眼鏡をかけていないせいか、少し目を細めている。
「全部に決まってるわ! 何もかも、この人のせいよ。この人さえ、メールなんて送ってこなければ、きっとみんな死ななかった」
光に肩を抱かれていたままだった静が、突然声を荒げた。静は一歩足を踏み出した。光が彼女の肩から手を離す。
「メールが来るようになってから、私たちはおかしくなっていったわ。特にムッコはものすごく気に病んでた。ムッコを追い詰めたのは、あなたよ。ムッコはあなたに追い詰められたせいで死んだのよ。ユカだってそう。あなたがエリの名を騙ってメールなんてしなければ、怯えて車道に飛び出したりしなかった。そうでしょ」
大きく肩を揺らして、静は言い終えた。荒い息遣いが聞こえてくる。空は、岸谷に視線を注いだ。その前で、彼はゆっくりと首を縦に振った。
「その通りだ。俺が、メールなんて送らなければこんなことにはならなかったんだろう。俺はただ、本当のことが知りたかったんだ。娘の死がどうしても自殺だとは思えなかったから」
「だからって、あんなメール送る必要ないだろ」
思わず、空は声を上げていた。だってそうだろう。絵里の死が自殺だとは思えなかったなら、静達を問い詰めたかったのなら、どうして、メールなんてまわりくどいことをしたのだ。直接、会って聞けばよかったではないか。そんなもの、正当な理由になんてならない。
「ああ、まったくその通りだよ。俺は少し、おかしくなっていたのかもしれないな」
岸谷は、嘆息して視線を落とした。空たちの見守る中、岸谷は話を続ける。
「絵里の日記を見たんだよ。あの子の日記には、克明に自分がされた虐めのことが書かれていた」
静が軽く息を飲んだ。
「それでも、それに懸命に耐えて、いつかきっと仲直りできると信じているあの子の姿が見えた。日記は決して後ろ向きな気持ちでは書かれていなかったんだ」
岸谷は片手で顔を覆って大きく息を吐き出した。
「そんなあの子が何故、自殺しなきゃならない? 自殺するわけがないんだ」
辛そうに歪められた男の顔から苦悩が見て取れるようで、空の胸も痛む。
「絵里が亡くなる前日の日記で、あの子は友達の一人と仲直りできたと書いていた。その子と次の日一緒に買い物をすると。なのにあの子は死んだ。あんな場所に一人で!」
男の声は叫びに近かった。娘の死が、彼にどれほどの傷を与えたのか。空には量り知ることはできない。それでも、彼の大きな悲しみは、伝わってくる。
「なぜ、あの子は一人で死んだ? 会うはずだった友達はどうした? そんなことを考えているうちに、ふと思いついたんだよ。あの子は自殺じゃない、誰かに殺されたんじゃないかと。日記の中に頻繁に出てくる名前。ムッコ、アンナ、シズカ、そしてユカ。この中の誰かが、絵里を……」
岸谷は、片方の顔を覆っていた手を離して狂気じみた目を静に向けた。
「殺されただなんて。エリは自殺よ。警察だってそう判断したわ!」
「例え絵里が自殺だとしても、君たちに、何の責もないとは言わせない。学校はいじめを認めはしなかったが、あの子は君たちがしたことを虐めだと思っていたんだ」
「いい加減にして」
声を上げた静の肩を後から光が叩いた。光は一歩足を前へ動かし、静の横に並ぶ。
「あなたは日記にあるあだ名を、絵里さんのケータイの電話帳で見つけたんですね」
岸谷は、光の言葉に頷いた。
「ああ、その通りだ。悩んだ末にメールをしてみることにした」
「どうして?」
空が尋ねると、岸谷は自嘲気味に口の端を上げた。
「春になり、真新しい制服を着ている女子高生を見て、絵里も生きていれば高校生だと思うとやり切れなかった。あの子を虐めた子たちは、のうのうと学校へ通っているのに……俺は、絵里を虐めていた彼女たちに、絵里を思い出してほしかった。そして、絵里の死の真相を知っているなら教えてほしかった」
だから、メールをしたと、岸谷は言った。
「私たちは何も知らない。絵里のことを忘れたことなんてなかったわ。だから、私たちはあなたが送ってきたメールに怯えたのよ。ムッコも、アンナも、ユカも私も」
静は息をついて、呼吸を整えるように息を吸った後大きく吐き出した。
「追い詰めたのはあなた。ムッコもアンナもあなたが殺したのよ」
岸谷を指さし、叫んだ静。
その直後、第三者の声が廃工場に響いた。
「やっぱり、おまえが睦子を殺したのか」
積まれた段ボール箱の陰から男性が姿を現した。
急に現れた男の姿に、唖然と皆が目を向ける。空には見覚えの無い若い男。この男の名を知っているのは、本人以外、この場には一人しかいなかった。
「植田さん?」
呼びかけると言うよりは、囁くような声が静から洩れる。
静の横に立つ光が、静に目を向ける。
「何? あの人を知ってるのか」
光の問いに、静は頷いた。視線は前方にいる岸谷と男を捉えたままだ。
「植田さん、ムッコの元彼」
驚いて男に視線を向けた面々に、男の狂気に満ちた顔が映る。
「君は、一体」
岸谷の声が聞こえているだろうに、男は答えず、咆哮を上げた。
ジーンズのポケットから光るものを取りだす。それをナイフだと認識する間もなく、男は岸谷に向かって走った。
「危ない!」
その声は誰のものだったか。ほぼ逃げることもかなわないまま、岸谷は男とぶつかった。
小さなうめき声が岸谷の口から洩れる。
「先生!」
海が叫んで岸谷へ駆け寄ろうとする。空も海の声で我に返り、そちらに向かって走った。
屑折れた岸谷の前で、呆然と立ち尽くす植田の手には、赤く染まったナイフが握られていた。彼は一歩二歩と後退して、二メートルほど岸谷と距離をあけて立ち止った。
「は、はは、はははは。やった。やったぞ、睦子。やった。やった」
植田は狂ったように、歪んだ顔で笑い続けた。ナイフをきつく握った手は小刻みに震えている。
「先生!」
海が倒れた岸谷の横で膝をついて、上半身を抱き起した。
「斎藤……」
岸谷の顔から血の気が失せている。汗と震えが身体に伝わり、海は言葉を失った。
「海、これでとにかく傷口押えてろ」
光の声が近くで聞こえたと思った直後、海の前に白いハンカチが差し出される。
「え? 傷」
そう言って、海は無意識に避けていた岸谷の赤く染まった腹の辺りに目を向けた。血が、岸谷の服を染めている。
海は流れ続ける血の辺りにハンカチを当てて抑えた。
空と光は、狂ったように、笑い続けている植田と倒れた岸谷の間に立った。
「先生、頑張って。死んだらあかん」
海は岸谷の頭を自身の太腿に乗せ、声をかける。
「もう、先生じゃない。絵里を失った時、俺は教師で、あることを、捨てた」
切れ切れに、そんなことを言う。海は大きく首を横に振る。
「絵里を、虐めた、子たちを、恨んでた……でも、一番恨んだのは、自分自身だ。あの子の悩みを何故、気付いてやれなかったんだろうと」
岸谷は、そこまで言って、大きくうめいた。
海が先生と岸谷呼ぶ。岸谷は、大儀そうに腕を持ち上げ、傷口を押さえている海の腕を掴んだ。
「もう、いい。斎藤。これは、報いだ」
海は唇をかみしめた。
もういいって何だ。
報いって何だ。
確かに、岸谷のしたことは簡単に許されることではないだろう。だが、苦しんで追い詰められたのは、死んだ睦子や杏奈だけではない。岸谷自身もだ。海は知っている。大切な人を亡くした人の気持ちを。なぜ、どうしてと、考えても考えても抜け出すことのできない思いも。後悔も、苦痛も。
それでも、前に進めと言ったのは誰だ?
海は、岸谷を泣きだす寸前のような、濡れた目で睨みつけた。
「もういいって、先生が言うな! 俺に、言うたん、あんたやないか……。あんたが前に進めって言うたんやないか。過去にとらわれるなって言うたんはあんたや!」
大声で怒鳴りつけた海を、目を見開いて岸谷は見つめた。
「斎藤……」
「俺は忘れてないで、先生。先生が俺に言うたことちゃんと覚えてる。こんな先生の姿、絵里さんが見たら悲しむで。亡くなった絵里さんに、安心して見てもらえるように、生きなあかんねやろ?」
岸谷が目を瞑った。はっとした海の目に、岸谷の目元から涙が伝うさまが映った。
「俺は、先生が死んだら、悲しいし辛いよ」
かつて、海が岸谷に言われた言葉。それをそのまま海は口にした。本心だった。このまま岸谷に、生きることをあきらめてほしくなかった。少しでも、生きたいと思っていてほしかった。
どうか先生を助けてと、祈る海の耳に、サイレンの音が聞こえた。
救急車のサイレンではない。パトカーのサイレンの音だ。
「私市さんが来た」
空が、声を上げた。ここへ来る直前に連絡しておいたのだ。
空たちの正面で笑っていた植田の耳にも、音が届いたのだろう。苦み走った顔を入口に向けた。植田が走り出そうとしたとき、空はその前に回り込む。逃がしてたまるか。そんな思いで植田を睨みつけた時。警官が足音も荒く踏み込んできた。それを目にした瞬間、岸谷は咆哮を上げると、空に突進する。
「空!」
光が声を上げた。海がその声に顔を上げて息を飲む。
植田が、空の左手首を掴んだ。人質にでもしようというのか。光よりも、空の方が弱いと踏んだのかもしれない。植田は掴んだ空の手を引き寄せようとした。植田の顔に笑みが浮かんだのは、空が大人しく人質になると踏んだからなのか。
しかし、植田の予想ははずれた。
空は、素早い動作で植田の手を振りほどくと、逆に植田の右手を掴んだのである。そのまま回転するように動き、植田の右手を引き上げると、植田の身体を投げつけた。かなり素早い動作に、投げられた植田はもちろん。それを目撃していた光も海も、何が起こったのか分からなかった。
空は植田の右手を掴んだまま、仰向けにした彼の左手首を思い切り踏み抑えた。
植田の動きを封じた空は、入口で驚いたように立ち止っていた警官に目を向ける。
「ちょっと、ぼっとしてないで、助けろよ」
このままでは動けないと訴えると、呆然としていた警官は我に返ったのだろう。慌てて空のもとに駆け付け、植田の身柄を拘束した。
私市がいつの間にか姿を現し、負傷した岸谷を病院へと運んで行った。この辺りの道路は、一方通行が多い上に狭く入り組んでいるため、救急車を呼ぶよりも速いと踏んだのだろう。そこに海も同乗することになった。
頭を殴られていた光も、別の車で病院へと運ばれることになり、そちらの車には空が便乗した。
若い刑事の運転する車の後部座席で、窓の外を見ていた空に、光が尋ねた。
「空、柔道でもやってたのか?」
空は窓の外から、光に視線を移す。
「いや、柔道じゃなくて、合気道みたいな。えっと、護身術?」
「何で疑問形なんだ」
光が突っ込むと、空は情けない表情を作った。
「いや、実は近所の道場にガキん頃通ってたんだけどさ。なんかそこの道場、いろんなものをごっちゃに教えてるとこでさぁ。結局なにならってるか分かんなかったんだよな。正式名称憶えてねぇし」
あははと笑ってごまかす空に、光は息をついて見せた。
「まったく、空らしいよ」
光の苦笑が車中にもれた。