表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/37

第二十九章 焦燥

 チャイムを鳴らしたが、家人はどうやら留守のようだった。

 空と海は困ったように顔を見合わせる。

 以前来たことのある、岸谷の部屋の前に二人は立っていた。このアパートへ来るまでに、前回同様、三十分ほど迷ったのはご愛敬だ。

「どうする。出直すか?」

 空は小首を傾げて海に尋ねる。海は逡巡した。このままここで待っていても、いつ帰って来るか分からない。自分一人ならまだしも、空もいる。かといって、日を改めるという選択肢は、海の中になかった。

 確かめなければならないのだ。

 海は、先生がメールを送った犯人だと思っている。メールの内容。それを知りえた人物。その中で、一番犯人に近いのは誰かと考えれば、絵里の父親である先生しか思い浮かばない。

 勘違いならそれでいいのだ。むしろその方が望ましい。海が一番辛い時に、一緒にいてくれた大人は先生だけだった。そんな先生が、彼女たちに嫌がらせをしていたとは思いたくない。

 信じたくない。

 このまま、もやもやとした気分を抱え続けるならいっそ、先生に嫌われても、本人にぶつからなければならない。海はそう考えたのだ。

「海ってば」

 しびれを切らした空が、海の腕を掴んだ。我に返った海が、口を開こうとしたとき。

 携帯電話の着信音が、海の言葉を遮った。反射的に尻ポケットに手をやって、海は携帯電話の通話ボタンを押すと、それを耳にあてた。

「もしもし」

『紫藤くん。どうしよう、春名くんが帰ってこない』

 切迫した少女の声。風見の声ではない。由香は病院だ。

 海は考えて、浮かんだ名を口にする。

「伊藤さん、やな?」

 確認したが、その声は電話の相手には届かなかったようだ。相変わらず焦った調子の声が耳に届く。

『もう、十五分も経ったのに。どうしよう。春名くん、帰ってこない。殺されてるかもしれない』

 殺されてるかもしれない。

 その言葉に、背筋が凍った。

 何故、急にそんな話になるのか分からなかった。

 言葉を失った海の横で、空が訝しむように海を見つめている。電話の声が漏れ聞こえているのだろう。

 業を煮やしたように、空は海の手から携帯電話をひったくった。

「伊藤さんだよな。どうした? 何があった?」

 空は、所々頷きながら静との通話を終えた。

 茫然自失とした海の肩を掴んで、携帯電話を彼の前につきつけた。

「海、ぼうっとしてんな! 伊藤さんに場所聞いたから、早く行こう」

 そう言って、無理やり海に携帯電話を持たせると、アパートの階段を駆け足で下り始め、階段の半ばで足をとめた。

 海の名を呼ぶ。

 海は、先ほどと変わらぬ位置で立ち尽くしていた。反応がない。

「海、行くぞ。早く!」

 急き立てる空に、海は虚ろな目を向けた。

「怖い……」

 呟くようなその声が、空の耳に届く。

「何?」

 空は、意味がつかめず問い返した。

「怖い。どないしよう。俺、また失くすんか……」

 抑揚の無い声音。表情の無い顔。

 空は、下りた階段をまた上り、海のもとへ走り寄る。

「何で、みんな、俺の前からいなくなるんや」

 そこまで聞いて、空は動いた。

 乾いた音が鳴った。空が、少し強めに海の頬を両手で挟んだのだ。じんと掌に痛みが伝わってくる。海の頬も痛いだろう。

「海! いいかげんにしろよ。居なくなるとか訳わかんねーこと言ってんなっ! 光が居なくなるわけねーだろ。バカ」

 焦点の合わないようだった海の瞳に、空が映る。

「ぐだぐだ言ってねーでさっさと動け。時間が勿体ねー。分かったか」

 強い口調で確認されて、海は思わず首を縦に振った。

「わ、分かった」

 その答えに満足したのか、空は頷いて海を急かした。

「よし、じゃあ行くぞ」

 海に背を向けて駆けだす空。海はその背を追いかけた。




 もう一度、任意同行を求めるつもりで、植田和樹の住むアパートを訪ねたが、空振りに終わった。

 私市は新人刑事の河合とともに、植田の実家まで足を伸ばした。だが、そこにも植田の姿はなかった。

 こちらが来ることを感づかれたか。そう考えたが、自身でそれを否定した。

 警察内部でも、まだ彼は参考人の域をでてはいない。重要参考人ですらないのだ。

 そんな彼が、姿をくらます理由はないはずだ。犯人でもない限り。

 そう考えて、私市は苦笑した。どうやら、河合の植田に対する疑いが、自分にも移ったらしい。

「私市さーん。何、笑ってんですか」

 訝しげな表情の河合に、私市は笑みを深くした。

「聞きたいか?」

 どこか含みのある声に、河合は顔をひきつらせた。

「や、いいっす。何か怖いんで」

 失礼な話だが、そうなるようにみせたのは私市だ。河合の反応に満足して、一度署に戻ろうと提案しようとしたときだった。

 胸ポケットが震えて、思わず手で押さえた。携帯電話を入れていたことを失念していたのだ。胸ポケットから携帯電話を取り出すと、表示を目にしてから通話ボタンを押した。

 親しみのある声で電話に出た私市の声が強張ったのは、ほんの数分後のことだった。




 空と海は、何度か静と連絡をとりつつ、目的の廃工場にたどりついた。

 静に言われた通りに破れたフェンスを潜って敷地内に入る。すると、小さな声で空たちを呼ぶ声が聞こえた。

 門の付近に佇む静の姿が目に入る。つい先ほどまで、その近くの茂みに隠れていたと静は言った。

「光は、まだ?」

 空が尋ねると、静は頷いた。空たちの不安がさらに募る。静が電話をよこした時点で、光が廃工場の中に入って十五分。空たちが駆け付けたのはそれから二十分は経過している。これはもう、何かがあったとしか考えられない。

 空の横にいた海が走り出した。工場の扉へ向かっていると気付いた空は、静にここにいるように言い残し、海を追う。

 工場の内部は、雑多な物でいっぱいだった。いくつもの段ボールが積み重なり、迷路の様相を呈している。段ボールだけではない。汚い布のかけられた、何かの機械らしきものもある。

「光!」

 海が大声を上げた。追いついた空は、犯人がいたらどうするんだと思う。

 だが、もうやけくそだ。空も自慢の大声で光の名を呼んだ。

 しばらく待つが、返事がない。

 返事がないどころか、人のいる気配すら感じない。一体、光はどこへ行ってしまったのか。

 言い知れぬ不安が空を襲った。積まれた段ボールをよけながら、空と海は手分けして工場内を探す。

 空は、突き当りに行きつき、何となく左右を見回した。右横を見ると、壁の前に、何も積まれていない台車が置いてあった。そして、台車の手前に扉があると気付く。

 海を大声で呼んで、扉を示す。

「開けるぞ」

 十分に警戒しながらも、空は扉を開いた。

 狭い部屋だった。デスクが置いてある。事務所として使っていたスペースかもしれない。埃のたまった部屋へ足を踏み入れた。足元で埃がたつ。ここにも人の気配はない。

「おらんな」

「ああ、もうどこ行っちゃったんだよ。光」

 不安で不安で仕方がなくて、空の口から泣きごとが漏れる。

 もしもこのまま、二度と会えなかったら。つい数時間前、一緒にいたのに。喧嘩別れしているのに。このまま会えなければ、仲直りすることもできない。

 空は、どうしても浮かんでくる嫌な想像を振り払おうと頭を振った。顔を俯けると、汚れたコンクリートが目に入る。その時、視界の隅に何かが映った。机の影に何かが落ちている。気になって空は動いた。机の影になっていた部分が見える位置まで来て、空は動きを止めた。

 息を飲む。目に映った光景に、身体が震えた。

「海……」

 掠れるように、名を呼んだ。

 今まさに、部屋を出ようとしていた海が、空の様子に訝しむ視線を送る。

 空のもとまで来た海が声を上げた。

「光!」

 空が机の影に落ちていたと思った物は、光の指だった。倒れた光の指が、机の影からほんの少し覗いていたのだ。

 海は、立ちつくしている空の横をすり抜け、光の横に膝をついて、彼の半身を抱き起こした。

「光、しっかりしろや。光!」

 海は必死の形相で、光の血色の無い顔を軽く叩く。

 光はピクリとも動かない。いつもかけている眼鏡が見当たらなかった。意識の無い素顔の光は、まるで人形めいて見えた。

「嫌や、光。頼むから、目ぇ開けてくれや」

 海の声が震えた。抱いている腕を動かし、光を揺さぶる。

「まだ、謝ってないねん。おまえにまだ、謝ってないんや。なぁ、光……」

 呼びかけるが、光の反応はない。

 空は、動けないまま、必死に呼びかける海と、動かない光をただじっと見つめていることしかできなかった。

「俺が悪かった。なぁ、お願いやから、目ぇ開けてくれや……」

 海は動かない光を抱きしめた。光の顔が海の胸元へ引き寄せられる。

「死んだらあかん。死んだらあかんねん。死んだらあかん……」

 空は見ていられなくて、視線を下ろした。その目に、投げ出された光の手が見える。

 指が、微かに動いた気がした。

「光?」

 空が呟く。

 空は、膝をコンクリートの床につけ、光の手を掴んだ。

 もう一度、光の名を呼ぶ。

「光!」

 空の手の中で、確かに光の指が動いた。

「海、光が……」

 空の上げた声に、海はゆっくりと胸に引き寄せた光を離す。

 その視線の先で、光の眉が動いた。

 小さなうめき声とともに、瞼が震える。

「光」

 空と海の声が重なった。長い睫が持ち上がり、光の少し茶色みがかった瞳があらわになる。

 数度瞬きを繰り返し、光は空と海の顔を視認したようだった。

「何で、二人がここに」

 言いながら、光は自ら起き上がろうとした。それを制して、海が光をまた胸元へ抱き寄せる。

「良かった。光、もう、死んでもうたかと思った」

 心底安堵したように、海は声を上げる。空も同様の気分だ。

「人を勝手に殺すな」

 これだけ心配をかけたにも関わらず、海の胸元で光がいつもの調子で毒づく。

「それと、海。痛い」

 言われて、海は慌てたように力を緩めた。光はそんな海の肩を握って、半身を起こす。

 自力で座った光は、もう一度空と海を眺めて、先ほどと同じ質問を繰り返した。

「何でここにいるんだ」

「それはこっちのセリフだっつーの。おまえ、警察に任せとけとか言っといて、何でこんなとこきて、倒れてるんだよ」

 安心したら、怒りに火が付いてしまった空は、声を荒げた。光は、少し目を眇めて空を見る。

「伊藤さんがどうしてもって聞かなかったからな。仕方ないだろう。でもまさか、いきなり殴られるとは思わなかった。それに、殴られたのは工場の外だったんだけど」

「え? そうなの? じゃあ、犯人はわざわざ工場の中に光を運んだってこと」

 空が驚きの声を上げると、光が頷く。

「……ああ。たぶん」

 肯定して、光は自身の後頭部に手をやった。傷に触れたのか、顔を顰める。

「おまえが、無事でよかった」

 囁くような声が海の唇から洩れた。

 空と光は海に視線を送る。

「おまえを失ったんやと思ったら、ほんまに、怖くて怖くて仕方なかった」

「海、あの……」

 光が、海に声をかける。どこか弱気なのは、海と仲たがいをしていたことを思い出したからだろうか。

「ゴメンな。光。ほんまゴメン」

 海は言うなり光に抱きついた。抱きつかれた光は驚いたように目を見開く。

「俺、ずっとおまえに八つ当たりしとったんや。おまえが、俺のことどうでもええって思ってるんが分かって、拗ねて、勝手に腹立てて、おまえのこと殴って。俺、めっちゃ最低やんな」

 海は光に回した腕に力を込める。

「人の気持ちは、自分ではどうにもならへんって分かっとったはずやのに。ゴメンな。光。大嫌いやって言うてゴメン。例えおまえが俺のこと嫌いでも、俺はずっとおまえのこと好きやから」

 光の震える息が、海の肩にかかった。

「海は間違ってる」

 光の言葉に、海は抱きしめていた腕の力を緩め、光を身体から離した。光と視線が交錯する。空はただ、そんな二人を眺めた。

「嫌いだって言ったのは、海であって僕じゃない。僕は、海のことをどうでもいいなんて思ったことは一度もない」

 きっぱりと告げられた言葉。海は驚いたように目を見張る。

「それ、ほんまか?」

 光は頷く。

「おまえ、俺のこと好きか?」

 ストレートな問いに、光はもう一度頷いた。

「当たり前だろ」

 海の顔に、笑顔が広がる。

 光は顔を俯け、大きく息を吐き出した。

 倒れていたのだ。急に気分が悪くなったのかもしれない。空と海が身構えた時、光は顔を上げて、心底嬉しそうにほほ笑んだのだ。

「よかった。嫌われてなくて」

 空と海は呆然と、光に視線を向けた。

 目と口を大きく開けたその表情に、光は訝しむ。

「あ、何だよ。もう終わり」

「光、もう一回」

 海が人差し指を一本立てて、光に乞う。

 何をもう一回なのか、分からない。

 光が首を傾げると、空と海は互いに目を合わせて笑顔を作った。

「いよっしゃー」

 二人は、片手をあげて、ハイタッチする。

「何なんだ?」

 その行動の意味を掴めず問う光に、海が顔に笑みを乗せたまま口を開く。

「おまえが笑った」

「は?」

「そうそ。俺たち、光が心底嬉しそうに笑う顔見たいって言ってたんだよな」

 空と海はまた目を合わせて笑いあう。光は何故だかいたたまれない気持ちに陥り、顔を伏せた。

「あ、そう言えば、伊藤さんは?」

 光の言葉に、空と海の表情が引き締まる。

「やべっ。忘れてた」

「早くここ出て病院行こうや。頭打ってるんやし」

 海が、光に手を貸して立ち上がった直後。

 女性の悲鳴が工場内に響いた。

「伊藤さん?」

 空たちは顔を見合わせ、慌てて部屋を出た。高く積まれた段ボールの一部が崩れている。

 静がこちらに向かって走ってくる姿があった。

「伊藤さん」

 光が声を張り上げた。こちらに気付いた静は驚いたように一度足をとめた。だが、彼女の背後から音がしたのを機に、慌てて走り出す。彼女を追うように、崩れた段ボールを蹴散らして来る男性の姿が見えた。

「先生……」

 海の呟きの通り、静を追っていたのは、桜田絵里の父。岸谷だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=787011674&s

ランキングに参加しています。
ポチっとしていただけると幸いです。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ