第二十九章 焦燥
チャイムを鳴らしたが、家人はどうやら留守のようだった。
空と海は困ったように顔を見合わせる。
以前来たことのある、岸谷の部屋の前に二人は立っていた。このアパートへ来るまでに、前回同様、三十分ほど迷ったのはご愛敬だ。
「どうする。出直すか?」
空は小首を傾げて海に尋ねる。海は逡巡した。このままここで待っていても、いつ帰って来るか分からない。自分一人ならまだしも、空もいる。かといって、日を改めるという選択肢は、海の中になかった。
確かめなければならないのだ。
海は、先生がメールを送った犯人だと思っている。メールの内容。それを知りえた人物。その中で、一番犯人に近いのは誰かと考えれば、絵里の父親である先生しか思い浮かばない。
勘違いならそれでいいのだ。むしろその方が望ましい。海が一番辛い時に、一緒にいてくれた大人は先生だけだった。そんな先生が、彼女たちに嫌がらせをしていたとは思いたくない。
信じたくない。
このまま、もやもやとした気分を抱え続けるならいっそ、先生に嫌われても、本人にぶつからなければならない。海はそう考えたのだ。
「海ってば」
しびれを切らした空が、海の腕を掴んだ。我に返った海が、口を開こうとしたとき。
携帯電話の着信音が、海の言葉を遮った。反射的に尻ポケットに手をやって、海は携帯電話の通話ボタンを押すと、それを耳にあてた。
「もしもし」
『紫藤くん。どうしよう、春名くんが帰ってこない』
切迫した少女の声。風見の声ではない。由香は病院だ。
海は考えて、浮かんだ名を口にする。
「伊藤さん、やな?」
確認したが、その声は電話の相手には届かなかったようだ。相変わらず焦った調子の声が耳に届く。
『もう、十五分も経ったのに。どうしよう。春名くん、帰ってこない。殺されてるかもしれない』
殺されてるかもしれない。
その言葉に、背筋が凍った。
何故、急にそんな話になるのか分からなかった。
言葉を失った海の横で、空が訝しむように海を見つめている。電話の声が漏れ聞こえているのだろう。
業を煮やしたように、空は海の手から携帯電話をひったくった。
「伊藤さんだよな。どうした? 何があった?」
空は、所々頷きながら静との通話を終えた。
茫然自失とした海の肩を掴んで、携帯電話を彼の前につきつけた。
「海、ぼうっとしてんな! 伊藤さんに場所聞いたから、早く行こう」
そう言って、無理やり海に携帯電話を持たせると、アパートの階段を駆け足で下り始め、階段の半ばで足をとめた。
海の名を呼ぶ。
海は、先ほどと変わらぬ位置で立ち尽くしていた。反応がない。
「海、行くぞ。早く!」
急き立てる空に、海は虚ろな目を向けた。
「怖い……」
呟くようなその声が、空の耳に届く。
「何?」
空は、意味がつかめず問い返した。
「怖い。どないしよう。俺、また失くすんか……」
抑揚の無い声音。表情の無い顔。
空は、下りた階段をまた上り、海のもとへ走り寄る。
「何で、みんな、俺の前からいなくなるんや」
そこまで聞いて、空は動いた。
乾いた音が鳴った。空が、少し強めに海の頬を両手で挟んだのだ。じんと掌に痛みが伝わってくる。海の頬も痛いだろう。
「海! いいかげんにしろよ。居なくなるとか訳わかんねーこと言ってんなっ! 光が居なくなるわけねーだろ。バカ」
焦点の合わないようだった海の瞳に、空が映る。
「ぐだぐだ言ってねーでさっさと動け。時間が勿体ねー。分かったか」
強い口調で確認されて、海は思わず首を縦に振った。
「わ、分かった」
その答えに満足したのか、空は頷いて海を急かした。
「よし、じゃあ行くぞ」
海に背を向けて駆けだす空。海はその背を追いかけた。
もう一度、任意同行を求めるつもりで、植田和樹の住むアパートを訪ねたが、空振りに終わった。
私市は新人刑事の河合とともに、植田の実家まで足を伸ばした。だが、そこにも植田の姿はなかった。
こちらが来ることを感づかれたか。そう考えたが、自身でそれを否定した。
警察内部でも、まだ彼は参考人の域をでてはいない。重要参考人ですらないのだ。
そんな彼が、姿をくらます理由はないはずだ。犯人でもない限り。
そう考えて、私市は苦笑した。どうやら、河合の植田に対する疑いが、自分にも移ったらしい。
「私市さーん。何、笑ってんですか」
訝しげな表情の河合に、私市は笑みを深くした。
「聞きたいか?」
どこか含みのある声に、河合は顔をひきつらせた。
「や、いいっす。何か怖いんで」
失礼な話だが、そうなるようにみせたのは私市だ。河合の反応に満足して、一度署に戻ろうと提案しようとしたときだった。
胸ポケットが震えて、思わず手で押さえた。携帯電話を入れていたことを失念していたのだ。胸ポケットから携帯電話を取り出すと、表示を目にしてから通話ボタンを押した。
親しみのある声で電話に出た私市の声が強張ったのは、ほんの数分後のことだった。
空と海は、何度か静と連絡をとりつつ、目的の廃工場にたどりついた。
静に言われた通りに破れたフェンスを潜って敷地内に入る。すると、小さな声で空たちを呼ぶ声が聞こえた。
門の付近に佇む静の姿が目に入る。つい先ほどまで、その近くの茂みに隠れていたと静は言った。
「光は、まだ?」
空が尋ねると、静は頷いた。空たちの不安がさらに募る。静が電話をよこした時点で、光が廃工場の中に入って十五分。空たちが駆け付けたのはそれから二十分は経過している。これはもう、何かがあったとしか考えられない。
空の横にいた海が走り出した。工場の扉へ向かっていると気付いた空は、静にここにいるように言い残し、海を追う。
工場の内部は、雑多な物でいっぱいだった。いくつもの段ボールが積み重なり、迷路の様相を呈している。段ボールだけではない。汚い布のかけられた、何かの機械らしきものもある。
「光!」
海が大声を上げた。追いついた空は、犯人がいたらどうするんだと思う。
だが、もうやけくそだ。空も自慢の大声で光の名を呼んだ。
しばらく待つが、返事がない。
返事がないどころか、人のいる気配すら感じない。一体、光はどこへ行ってしまったのか。
言い知れぬ不安が空を襲った。積まれた段ボールをよけながら、空と海は手分けして工場内を探す。
空は、突き当りに行きつき、何となく左右を見回した。右横を見ると、壁の前に、何も積まれていない台車が置いてあった。そして、台車の手前に扉があると気付く。
海を大声で呼んで、扉を示す。
「開けるぞ」
十分に警戒しながらも、空は扉を開いた。
狭い部屋だった。デスクが置いてある。事務所として使っていたスペースかもしれない。埃のたまった部屋へ足を踏み入れた。足元で埃がたつ。ここにも人の気配はない。
「おらんな」
「ああ、もうどこ行っちゃったんだよ。光」
不安で不安で仕方がなくて、空の口から泣きごとが漏れる。
もしもこのまま、二度と会えなかったら。つい数時間前、一緒にいたのに。喧嘩別れしているのに。このまま会えなければ、仲直りすることもできない。
空は、どうしても浮かんでくる嫌な想像を振り払おうと頭を振った。顔を俯けると、汚れたコンクリートが目に入る。その時、視界の隅に何かが映った。机の影に何かが落ちている。気になって空は動いた。机の影になっていた部分が見える位置まで来て、空は動きを止めた。
息を飲む。目に映った光景に、身体が震えた。
「海……」
掠れるように、名を呼んだ。
今まさに、部屋を出ようとしていた海が、空の様子に訝しむ視線を送る。
空のもとまで来た海が声を上げた。
「光!」
空が机の影に落ちていたと思った物は、光の指だった。倒れた光の指が、机の影からほんの少し覗いていたのだ。
海は、立ちつくしている空の横をすり抜け、光の横に膝をついて、彼の半身を抱き起こした。
「光、しっかりしろや。光!」
海は必死の形相で、光の血色の無い顔を軽く叩く。
光はピクリとも動かない。いつもかけている眼鏡が見当たらなかった。意識の無い素顔の光は、まるで人形めいて見えた。
「嫌や、光。頼むから、目ぇ開けてくれや」
海の声が震えた。抱いている腕を動かし、光を揺さぶる。
「まだ、謝ってないねん。おまえにまだ、謝ってないんや。なぁ、光……」
呼びかけるが、光の反応はない。
空は、動けないまま、必死に呼びかける海と、動かない光をただじっと見つめていることしかできなかった。
「俺が悪かった。なぁ、お願いやから、目ぇ開けてくれや……」
海は動かない光を抱きしめた。光の顔が海の胸元へ引き寄せられる。
「死んだらあかん。死んだらあかんねん。死んだらあかん……」
空は見ていられなくて、視線を下ろした。その目に、投げ出された光の手が見える。
指が、微かに動いた気がした。
「光?」
空が呟く。
空は、膝をコンクリートの床につけ、光の手を掴んだ。
もう一度、光の名を呼ぶ。
「光!」
空の手の中で、確かに光の指が動いた。
「海、光が……」
空の上げた声に、海はゆっくりと胸に引き寄せた光を離す。
その視線の先で、光の眉が動いた。
小さなうめき声とともに、瞼が震える。
「光」
空と海の声が重なった。長い睫が持ち上がり、光の少し茶色みがかった瞳があらわになる。
数度瞬きを繰り返し、光は空と海の顔を視認したようだった。
「何で、二人がここに」
言いながら、光は自ら起き上がろうとした。それを制して、海が光をまた胸元へ抱き寄せる。
「良かった。光、もう、死んでもうたかと思った」
心底安堵したように、海は声を上げる。空も同様の気分だ。
「人を勝手に殺すな」
これだけ心配をかけたにも関わらず、海の胸元で光がいつもの調子で毒づく。
「それと、海。痛い」
言われて、海は慌てたように力を緩めた。光はそんな海の肩を握って、半身を起こす。
自力で座った光は、もう一度空と海を眺めて、先ほどと同じ質問を繰り返した。
「何でここにいるんだ」
「それはこっちのセリフだっつーの。おまえ、警察に任せとけとか言っといて、何でこんなとこきて、倒れてるんだよ」
安心したら、怒りに火が付いてしまった空は、声を荒げた。光は、少し目を眇めて空を見る。
「伊藤さんがどうしてもって聞かなかったからな。仕方ないだろう。でもまさか、いきなり殴られるとは思わなかった。それに、殴られたのは工場の外だったんだけど」
「え? そうなの? じゃあ、犯人はわざわざ工場の中に光を運んだってこと」
空が驚きの声を上げると、光が頷く。
「……ああ。たぶん」
肯定して、光は自身の後頭部に手をやった。傷に触れたのか、顔を顰める。
「おまえが、無事でよかった」
囁くような声が海の唇から洩れた。
空と光は海に視線を送る。
「おまえを失ったんやと思ったら、ほんまに、怖くて怖くて仕方なかった」
「海、あの……」
光が、海に声をかける。どこか弱気なのは、海と仲たがいをしていたことを思い出したからだろうか。
「ゴメンな。光。ほんまゴメン」
海は言うなり光に抱きついた。抱きつかれた光は驚いたように目を見開く。
「俺、ずっとおまえに八つ当たりしとったんや。おまえが、俺のことどうでもええって思ってるんが分かって、拗ねて、勝手に腹立てて、おまえのこと殴って。俺、めっちゃ最低やんな」
海は光に回した腕に力を込める。
「人の気持ちは、自分ではどうにもならへんって分かっとったはずやのに。ゴメンな。光。大嫌いやって言うてゴメン。例えおまえが俺のこと嫌いでも、俺はずっとおまえのこと好きやから」
光の震える息が、海の肩にかかった。
「海は間違ってる」
光の言葉に、海は抱きしめていた腕の力を緩め、光を身体から離した。光と視線が交錯する。空はただ、そんな二人を眺めた。
「嫌いだって言ったのは、海であって僕じゃない。僕は、海のことをどうでもいいなんて思ったことは一度もない」
きっぱりと告げられた言葉。海は驚いたように目を見張る。
「それ、ほんまか?」
光は頷く。
「おまえ、俺のこと好きか?」
ストレートな問いに、光はもう一度頷いた。
「当たり前だろ」
海の顔に、笑顔が広がる。
光は顔を俯け、大きく息を吐き出した。
倒れていたのだ。急に気分が悪くなったのかもしれない。空と海が身構えた時、光は顔を上げて、心底嬉しそうにほほ笑んだのだ。
「よかった。嫌われてなくて」
空と海は呆然と、光に視線を向けた。
目と口を大きく開けたその表情に、光は訝しむ。
「あ、何だよ。もう終わり」
「光、もう一回」
海が人差し指を一本立てて、光に乞う。
何をもう一回なのか、分からない。
光が首を傾げると、空と海は互いに目を合わせて笑顔を作った。
「いよっしゃー」
二人は、片手をあげて、ハイタッチする。
「何なんだ?」
その行動の意味を掴めず問う光に、海が顔に笑みを乗せたまま口を開く。
「おまえが笑った」
「は?」
「そうそ。俺たち、光が心底嬉しそうに笑う顔見たいって言ってたんだよな」
空と海はまた目を合わせて笑いあう。光は何故だかいたたまれない気持ちに陥り、顔を伏せた。
「あ、そう言えば、伊藤さんは?」
光の言葉に、空と海の表情が引き締まる。
「やべっ。忘れてた」
「早くここ出て病院行こうや。頭打ってるんやし」
海が、光に手を貸して立ち上がった直後。
女性の悲鳴が工場内に響いた。
「伊藤さん?」
空たちは顔を見合わせ、慌てて部屋を出た。高く積まれた段ボールの一部が崩れている。
静がこちらに向かって走ってくる姿があった。
「伊藤さん」
光が声を張り上げた。こちらに気付いた静は驚いたように一度足をとめた。だが、彼女の背後から音がしたのを機に、慌てて走り出す。彼女を追うように、崩れた段ボールを蹴散らして来る男性の姿が見えた。
「先生……」
海の呟きの通り、静を追っていたのは、桜田絵里の父。岸谷だった。