第二章 はじまりはメール
メール着信音が鳴った。
風呂上り、部屋のドアを開けた瞬間だったので、そのタイミングに少し驚いた。
理沙だろうか? それとも、この間理沙に紹介してもらった男子校の彼だろうか。
そう思って、由香は勉強机の上に置いていた携帯電話を手に取る。そして、新着メールを開いた。
息を飲む。
驚きに声も出なかった。手が、震えた。ありえない。こんなこと、あるはずがない。
由香の目に映る携帯電話のディスプレーには、くるはずのない相手からのメールが映し出されていた。
『ユカ、元気にしていた? 私帰ってきたよ』
由香の足元に、携帯電話が落ちて転がった。由香の手から滑り落ちたのだ。
しかし、由香はそれすらも気づかないように、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
クーラーのきいた涼しい光の部屋で、高橋空は満足気な溜息をついた。
「はー。美味かった」
それはもう、幸せそうな笑顔をつくる空に、隣にいた光が眼鏡の奥から呆れた目を向けた。
「おまえら、コレが目的で家に来てるだろう」
光は空の前から、つい先ほどまでケーキがのっていた皿を取ってお盆に乗せる。
「って、俺まで入れんといてや。ケーキが目的なんは空だけやで。俺は純粋にやな、光に数学教えてもらおうと思って、お前の家に来てるんや」
海が抗議の声を上げた。そう言った彼の前にも数学の教科書ではなく、少しケーキの残った皿が置いてある。
「おい、海。俺だって、ちゃんと勉強しようと思って来てるぜ。ただ、光の家に来るとクーラーきいてるし、必ずケーキくれるから楽しみだけど」
嘘のつけない空であった。
光は呆れたように溜息をつくと、からになった海の皿を盆にのせて、立ち上がった。
「じゃあ、僕が帰ってくるまでに、三問終わらせとけよ」
そう言って、光はドアを開けて部屋を出て行く。その背に、空と海のブーイングの声がかかったが、光は無反応を決め込んでいた。
「ちぇっ何だよ。先生みたいなこと言いやがって」
「ま、宿題さっさと終わらせて、後半遊びまくろう計画のためや。それもしゃあないんちゃう」
「うー」
空が唸ったとき、大きなメロディーが部屋に響いた。
それが携帯電話の着信音だと気づいたのは、その携帯電話の持ち主だった。
「はいはい。誰やー」
気の抜けるような声で電話に出た海は、相手の言葉に目を見張った。
空は、そちらが気になって問題集から、海に目を移した。海はそんな空の様子を気にした風もなく、会話を続ける。
「えっ。風見? ひっさしぶりやん。どないしたん? うん。うん。分かった。じゃあ、明後日な」
通話を切った海にすかさず空が話し掛ける。
「なあ、なあ。誰? 女?」
空の表情は興味津々といった感じである。海はそんな空に意味深な笑みを見せた。
「当たり。女や」
空は海の答えに驚いた顔を向ける。
「な、な、な。か、か、彼女か!」
かなりどもりながらの空の問いに、海は笑顔を持続させながらしばらく黙り込んだ。
空が焦れてきたところで、ようやく口を開く。
「違う。去年のクラスメートや。中学んときのダチ」
その答えに、空はあからさまに安堵の息をついた。
「やっぱりなー。そうだと思った。おまえに俺より早く彼女ができるわけないしな。海はお友達タイプだもんな」
嬉しそうに言う空に、海は恨めしげな目を向ける。
「おまえ、それなんや酷ないか?」
空は、少し言いすぎたかと、失言を笑顔でごまかした。
「で、問題は解けたのか?」
空の背後にあるドアの方から、声が聞こえて、空は慌てて振り返った。
「あははー」
空はペンを持ったままの手を、頭の後にやり、笑ってごまかした。光の眼鏡の奥の瞳が、冷たくひかったように空には見えた。
空と海は慌てたように、光の冷たい視線を避け、問題集に目を落とす。
そんな二人の耳に光の溜息が聞こえた。
「今更、やっているふりしても遅いだろ……」
疲れたような声だった。
あらかた問題集を片付けた空たちは、この家のお手伝いさんが一服するためにと入れてくれたアイスティーを飲んでいた。そんなとき、空が思いついたように口を開いた。
「そういやさ、さっきの電話なんだったの?」
空の問いに、光は眉を軽く上げる。何のことだと思ったのだろう。空は、さっき海の携帯電話に電話があったことを伝えた。
「ああ、あれや。クラス会の会場が急に変わったからそのお知らせや。明後日にあんねん」
海の言葉に、空は目を見張る。
「えっ。大阪帰るの?」
「えっ、何で大阪やねん」
空の大声に合わせたのか、海の声も大きかった。
「だって、中学まで大阪に住んでたんだろ」
空が言うと、海は手を横に振った。
「ちゃうちゃう。俺、関西言うても住んでたん大阪とちゃうし、中三にこっち引っ越してきたから、今回のクラス会はこっちであんねん。ほんま、関東の人間は、関西っていうと大阪やって思うんやからな」
少々機嫌を損ねたような声を出す海に、冷静な声音で光が話しかける。
「中三のときのクラス会か」
「そうやねん。中三のときのクラスは皆仲よかったからな。久しぶりに全員集合やって盛り上がったみたいや」
海は嬉しそうに言った。空は羨ましそうな顔を海に向ける。
「いいなー。俺んとこなんて、そんな話全くないぜ。明後日は家の手伝いだし」
「家の手伝いって何するんだ?」
光が少し興味を惹かれたように空を見た。空は片手の拳を口の前に当て、少し考えるようにしてから、口を開く。
「うーん、色々。レジとか、品出しとか、あと伝票の計算とか」
「伝票の計算までするんや」
驚いた声を上げた海に、空は頷いた。
「そ。まあ、簡単なことしかしてないけど。そのうち俺が継ぐから、今からちょこちょこ仕事覚えてるんだ」
そう言うと、なぜか海と光が驚いた顔をして、顔を見合わせた。
「へー。空、ちゃんと将来のこと考えてたんだな」
「予想に反して真面目やな。そんなん考えてるって思ってもみいひんかったわ」
感心する二人に、空は眉を顰めて見せた。
「おまえら、俺のことちょっとバカにしてないか? いや、してるだろ」
聞いておいて断定した空に、海は言う。
「バカにはしてへんよ。なあ光」
「いや、バカだとは思ってるけど……」
光はさらっとそんなことを言って、少しずれてきた眼鏡を人差し指で押し上げた。
「ムキーっ。ムカつく」
空が光に向かって大声を上げた。
その大声に光が眉を寄せる。
「うるさい、そういう振る舞いがバカなんだ」
「うるさいのはそっちだ。バカって言う方がバカなんだぞ」
「おまえは小学生か」
「う、うるさーい」
海は空と光の口喧嘩を聞きながら、こっそりと溜息をついた。
会った時から、喧嘩をしていたこの二人は、仲良くなった今もこうしてよく口喧嘩をしている。まったく、こりへん奴らやな。そう思ってまた溜息をついた。
もう少ししたら、仲裁に入ろう。そんなことを思いつつ、海は残り少なくなったアイスティーを口に含んだ。