第二十七章 次は
海から知らせを受けた空は、光とともに由香が入院する病院へ見舞いにやってきた。海と同行しなかったのは、光と海が互いに嫌がったからだ。
病室へ入ると、今までになく由香は穏やかな表情をしていた。
「来てくれてありがとう。シズカは、一緒じゃないんだね」
光の顔を見て由香は言った。光は相変わらずの無表情で、軽く頷いた。
「ごめんな。こいつ無愛想で」
空は用意された椅子に腰かけて、由香に笑顔を向ける。彼女もまた笑顔になった。頬に貼られた大きなガーゼは痛々しいが、前よりも元気そうに見える。
「大変だったな」
空が言うと、少し表情に影が落ちる。
彼女は、事故に遭ったいきさつを語った。海たちに話したのと同じ内容だ。
「そのあとをつけてきた男って、犯人だったのかな。だったら、これだけの怪我で済んでよかったかも……あ、ゴメン」
空は言い終わる前に、自分が無神経なことを口走っていることに気づいて謝った。由香は慌てて首を横に振り、ベッド脇に置かれた棚に目を向ける。そこには小ぶりの箱が置いてあった。
「ううん。あ、お菓子もありがとう」
お見舞いとして持ってきたのは、可愛らしい箱に入ったクッキーだった。空の住む商店街の中にある洋菓子店の品だ。話を逸らそうとしてくれたのだろう。由香は思いついたように声をあげた。
「あの、朝は、紫藤くんも来てくれたのよ」
どこか嬉しそうに報告してくれる由香に頷いた時。抑揚の無い声が、空の横から聞こえてきた。
「君島さんに、聞きたいことがあるんだ」
「なあに?」
小さく首を傾げた彼女に、光は言った。
「本当のことを知ったら、シズカは私を軽蔑する。公園で、君はそう言ってたけど。あれはどういう意味?」
由香の表情が凍りついたように、空には見えた。震える手で口元を覆った彼女は、光の顔から視線を外した。何も言わない。しばらく、沈黙が三人を支配した。
「君が、メールの犯人と繋がっていることをさしているのか?」
「なっ」
何を言い出すんだと言おうとした。だが、その言葉を空は途中で飲みこむ。口を開いた空に、光がここは病院だと指摘したからだ。
思わず口元を押さえた空の横で、彼は淡々と言葉を続けた。
「君は、犯人に石井さんたちのメールアドレスを教えたね」
由香は目を見開いた。胸元へ持ってきた手で、服を強く握る。
そんなはずはないと、空は思った。彼女は人一倍あのメールに怯えていた。そんな彼女が犯人と繋がっているなんて、考えられない。あれが演技だったとでも言うのか。
由香はゆっくりと光に顔を向けた。
「アンナが言ったの? アンナの手紙、春名君が全部知ってるって、こういうことだったの?」
光は黙したまま、由香を見つめた。そうすることで、肯定を表しているように見える。
せわしなく視線を動かした後、彼女は意を決したように口を開いた。
「私、怖かったの。エリからメールが来て怖かった。エリが死んだのは私のせいだから、エリが私に復讐しに戻ってきたんだと思った」
胸元を掴んでいた手を放して、由香は頬に手を当てた。
「そんなことあるわけないって、心の中で否定しても、怖くて怖くて仕方なかった。三人のアドレスを教えてって言われたから、教えた。ユカは友達だよねって、そう言われたら教えないわけにはいかなかった」
由香の目から涙がこぼれた。
「だって、こんなことになるなんて思わなかった。ムッコたちが死んじゃうって分かってたら、あんなことしなかったのに」
声を上げた由香に、光はハンカチを差し出した。彼女は驚いた表情で光を見る。
「君がメールアドレスを教えたから、石井さんたちが死んだわけじゃないよ」
由香は恐る恐るといったように、光からハンカチを受け取った。
「俺もそう思う。でも、ちゃんと謝るべきだとも思うよ。俺は」
空はそう言って立ちあがった。
「ごめんな。俺、帰るわ。光、行くぞ」
空は、そのまま背を向けて、病室を後にした。
病院を出ると、とたんに熱い空気に包まれる。流れてくる汗をぬぐうこともせず、空は歩き続けた。
しばらく歩いたとき、後ろから光が空を呼ぶ声が聞こえた。
振りかえると、数メートル先で、光が壁に手をついて前かがみになっている姿が目に映る。空は、慌てて走り寄った。
光は荒い息を繰り返している。
光の足が悪いことを失念していた。
速足で歩いていた空を追いかけようとして、無理をしすぎたのかもしれない。
「おまえ、速いよ」
「ごめん」
上目づかいで謝ると、光が嘆息した。
「空、怒ってるだろ」
その言葉で、眉間に皺が寄った。ぐっと拳を握る。
「怒ってるよ! 当たり前だろ」
あのまま病室にいたら、空は絶対に由香を怒鳴りつけていた。彼女はずっと友達を裏切り続けていた。そうしていることで、自分も傷ついているくせに。
だが、空が彼女に対して怒るのは違う気がした。彼女を怒る権利があるのは、死んだ二人や、静であって空じゃない。
だから、病室を出た。
「あの子は、自分の友達を裏切ってたんだ。ずっと。でも、可哀相だとも思うよ」
光は軽く、口の端を上げた。
「空らしいよ」
「何だそれ」
「言葉のまんまだろ。ほら、手、貸せよ」
光が空に手を向けた。空は、顔を顰める。
「え? 嫌だよ、暑いのに。杖は?」
「持ってきてない」
「何で持ってきてないんだよ」
「煩いな」
都合が悪くなるとすぐそれだ。空は頬を膨らませながらも、光に肩を貸して歩き出す。
二人の言いあいはしばらく続いた。
光は途中でタクシーを拾って帰宅した。
自室で、家政婦の坂内さんが持ってきてくれたオレンジジュースを飲んで一息つく。テーブルを挟んだ向かい側には空がいる。一緒にタクシーでここへ来ていた。
「なあ、光。どう思う? 二人を殺したのは、メールを送ってきた犯人かな」
ストローでオレンジジュースをかきまわしながら言われた言葉に、光は答えた。
「正直、分からないな。でも、全ては桜田絵里の死からはじまった。そんな気がする」
空は頷いた。そもそも、桜田絵里の死がなければ、メールが送られてくることは無かった。
「そういえば、本当に何も聞いてないの? 川崎さんから」
川崎杏奈の静に宛てた手紙。
『春名君は全部知ってる』
あの手紙は何を意味していたのだろうか。
「聞いてない。おまえが信じる信じないは勝手だけど」
「すぐそういうこと言う。信じるよ。決まってんじゃん」
怒った口調の空に、光は珍しく、ゴメンと謝った。空はそれに頷いた後、腑に落ちないことがあることに気付いた。
「ちょっと待てよ。じゃあ、何で君島さんがメールをしてきた犯人と繋がってたって分かったんだ?」
あの時は、てっきり、杏奈から聞いたのだと思ったのに。
「公園で本人が言ってたじゃないか」
「え? そんなこと言ってたっけ」
考えてみるが、思い当たらない。空は何かを考えるときの癖で、口元に拳をあてた。
「シズカは何も知らないからそんなことが言えるのよ。本当のこと知ったら、シズカもきっと、私を軽蔑する。……彼女はそう言ったんだ」
光は由香の言った言葉を正確になぞって見せた。はっきりと記憶していない空には、そのセリフの正確さは分からなかったが。
「だから?」
要領を得ないという顔で、空が問う。
「君島さんは、伊藤さんに軽蔑されるようなことをしていたということになる。静もということは、複数の人間から軽蔑されるようなこと」
空は、頷いた。そこまでは分かる。だが、どうして、それが犯人にアドレスを教えていたことにつながるのだろう。
「彼女はこうも言った。ムッコとアンナが死んだのは自分のせいだと。それを合わせて考えると、君島さんは自分が犯人の利益になることをしたんじゃないか。少なくとも、彼女はそう思ってるんだろうと考えたんだ」
光は、そう言って息をついた。
「前に話しただろう。メールを送って来る犯人には協力者がいるんじゃないかって。それと結びつけて、君島さんに鎌をかけてみた」
「え? 鎌をかけてみたってことは」
空の問いかけに、光は頷いた。
「ああ、半信半疑だったんだ。決定的な証拠なんて一つもなかったからな」
空は驚き呆れて、しばらく言葉にならなかった。光がそんな大胆なことをするなんて思っていなかったからだ。
「結果的に、彼女は認めたわけだから僕の推論は正しかったということだ」
「まあ、確かにな」
同意はしたが、どうにもすっきりしない。空の表情を目にした光が、自嘲気味に呟いた。
「だからと言って、犯人が誰かも、どうして二人が死ななければならなかったのかも分からないけどな」
それでも、一つの謎は解決したのだから、これは大きな一歩だ。空は前向きにそう思うことにした。
「君島さんのあとをつけてたのは、やっぱり川崎さんを殺した犯人だと思う?」
「どうかな。まあ、それを考えるのは警察の仕事だろ。警察がそのうち解決してくれるさ。ここ最近はメールでの嫌がらせも無くなってた訳だし。もういいんじゃないか?」
空は一瞬耳を疑った。もういいんじゃないか? とは、どういう意味だ。もう、この件に関わるなということか。二人も死んで、残りの二人も襲われているのに。まだ、犯人は残りの二人を殺そうと狙っているかも知れないというのに。見捨てろということか?
「何で、そんなこと言うんだよ。二人のこと、心配じゃないのかよ」
「それとこれとは、話が違う」
眼鏡の奥の瞳が、冷たく見える。声さえも冷ややかに聞こえて、空の頭に血が上った。
「だから、おまえは何でそう、冷たいわけ? 考えてやるくらいしたっていいじゃん。これだけ係わっておいて、後は警察の仕事だっつって、投げ出すのかよ」
テーブルが音を立てて揺れた。空が、言葉の後半でテーブルを叩いたのだ。光はそんな様子を眼鏡の奥から冷ややかに見ていた。
「別に、投げ出してるわけじゃない。事実を言ってるんだ。これ以上僕たちにはどうしようもないだろう」
それが、正論なのかもしれない。光の言いたいことも分かる。だが、空にはどうしても納得できないのだ。
メールを送ってきた犯人も結局のところ分かっていない。睦子と杏奈の死の真相も。何一つ分かってはいないのに。悔しいという感情が光にはないのか。何一つ解決できていないこの現状で、どうしてよしと言えるのか。
空には分からない。
「どうしようもないって、簡単に言うな。どうにかしようってどうして思わないんだ? 警察がそのうち解決してくれるって? 解決するのをただじっと指をくわえて待ってろってのかよ。川崎さんは、光に、何かを伝えたくてあの手紙残したんじゃねーの? 何かあるからおまえに会いに来たんじゃねーのかよ。おまえが言ってるのは、それ全部無視するってことだろ」
睨みつけてくる空を、平然と見返して、光は嘆息する。
「結果的にそうなっても仕方がない。僕は自分が間違ってるとは思わない」
空の頭に血が上った。自覚した瞬間、怒鳴っていた。
「どうして、分かんねーの。おまえは」
「分かってないのは空の方だろ。正義感だけで、何もかも解決できるなら警察なんていらない。おまえらは他人に同情しすぎなんだよ」
なぜ、こんなに分かり合えないのだろう。怒りを通り越して、悲しくなってくる。
「もういい。俺、帰るわ」
そう言って、空は立ちあがると光に背を向けた。ドアノブに手をかけて、部屋を出ようとした時。その背に声がかかった。
「海とおまえは良く似てるよ」
抑揚のないその声に、空は振り返らずに答えた。
「おまえは全然似て無いな。兄弟だってのが不思議なくらいだよ」
そう言い捨てて、空は部屋を出ると思い切り強くドアを閉めた。