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第二十五章 謎の男

 女性が倒れているとの一報が入ったのは、作日の朝、七時過ぎだった。

 栖川という名の川に身体を半ば沈めた状態で発見されたこの女性は、まだ高校生だった。

 駆け付けた捜査員の数名が、彼女の顔と名前を知っていた。

 川崎杏奈。

 先日亡くなった、石井睦子の友人だった。




 聞き込みから戻ってきた私市は、額に浮いた汗を拭くこともせず、荒々しくデスクの椅子に腰かけた。

 その横で、新人の河合が荒い声を上げる。

「あの時アイツを帰さなきゃこんなことにはならなかったのに」

 河合の言葉を耳に止めたのか、紙コップのコーヒーを飲んでいた虻さんが顔を上げた。

「何だぁ河合。おまえ、あの野郎が犯人だとでも思ってんのか」

 虻さんの言うあの野郎とは、数日前、任意同行した植田のことだろう。私市はデスクに肘をついて、その手に頬を乗せると、河合を見上げた。憤慨した表情が目に映る。

「そうすっよ。あいつが犯人に決まってます。石井睦子に気持ち悪いほどの執着を持っていた植田です。彼女に、植田と別れるように勧めたのは川崎杏奈だったらしいですし。それを知った植田が逆恨みして……」

 興奮した河合の顔は赤くなっている。私市はそんな河合に、声をかけた。

「じゃあ河合は、今回のヤマは連続殺人だっていうのか」

「そうに決まってますよ」

 荒々しく頷く河合に、冷静な声を投げかけたのは虻さんだった。

「おいおい。石井睦子に関しちゃ、まだ殺人と決まった訳じゃねぇだろうが」

「じゃあなんで、川崎杏奈は殺されたんです」

 むきになって言い募る河合の肩に、私市は立ちあがって手を置いた。

「間違えるな河合。それを調べるのが俺たちの仕事だ。自分の思いこみで、周りを見失うな」

 河合の顔を覗きこんで言うと、河合の目から興奮した色が薄らいでいった。

「すみません」

 悔しげに、小さく呟く彼の肩から手を放して、また自分の席に腰を下ろした。

 私市とて、年若い少女の命が奪われたことに、腹も経てば、悲しみも湧く。もしも、自分たちが犯人の手に踊らされているのだとしたら。そう思うと、いてもたってもいられなくなる気持ちも分かる。

 だが、冷静に判断しなければならないのだ。

 捜査はまだ、始まったばかりなのだから。


 私市は嘆息して、デスクの上に置いてあった写真に手を伸ばした。

 それには、川崎杏奈の遺体が写っている。全体を撮ったものと、局部的に撮られたものが数枚ある。手の傷を写した写真に目を落として、ふと違和感を覚えた。

 傷にたいしてではない。この傷は、おそらく川原の石か、近くに生えている草の葉か何かでついた傷だろう。

 私市が違和感を覚えたのは爪だった。

 妙に短い。綺麗にマニュキアの塗られた爪だが、何というかおかしいのだ。

「なあ、河合くん」

「なんっすかー、私市さん。私市さんにクンとかつけられると妙に嫌なんすけど」

 先ほどの興奮はどこへやら。河合は沈んだ声で答えた。

「これ、どう思う?」

「どうって、傷っすよね」

 私市は、写真を覗きこんでいる河合の額を、人差し指ではじいた。いわゆるデコピンというやつである。

 額を隠すと、彼は涙目になって抗議の声を上げた。

「痛っ! 痛いっすよ。何するんすか」

「何じゃないよ。違うだろ。爪だよ爪」

 もう一度河合に写真をつきつけると、河合は唇を少し尖らせながらも、写真に目を向ける。

「爪……。何かこれ、模様が途中で切れてませんか? すっげぇ中途半端な感じ。それに深爪っすよね」

「そうか。やっぱりそう思うか」

 私市は写真を自分の前に戻して、頷く。

 白で塗られた爪の下部にはストーンで花の模様が作られている。その爪をよく見ると、上部が数ミリほどピンク色になっているのが分かるのだ。数ミリだけピンクにするのはかなり難しいだろう。これを塗った時には爪が長かったと仮定するほうが自然だ。

「普通は、こういう。何て言うんだっけ」

 爪を指さしながら河合を見ると、河合は簡単に答えた。

「ネイルっすか?」

「そう。それをしている時は、つけたまま爪を切るのが普通なのかな」

「いやー、普通はとってからじゃないっすか? 切りにくそうじゃないっすか。つーか、ネイルとかやってる子だったら、普通はこんなに短く切らないっすよ」

 河合の意見に頷き、私市は呟いた。

「じゃあ、何で彼女の爪はこんなに短いんだろうな」

 河合は半ば呆れたような調子で声を上げた。

「私市さんって、いっつも妙なとこに目をむけますよね。その爪で事件の真相に迫れるんすか?」

 私市は肩をすくめた。

「いや、たんに気になっただけだ」

 私市の言葉に、河合は、あ、そうっすかと、気の抜けた声をだした。




 だから嫌だったのだ。

 由香は、足早に人通りの少ない夜道を通っていた。

 間隔をあけて設置された街灯に、小さな虫が寄り集まって飛んでいる。羽音が耳触りな音をたてていた。

 家から一歩も出たくなかったのに。

 母親の使いで、醤油を買いに行かされた帰りだった。

 自分は狙われているのに。行きたくないと言ったのに、母親は相手にしてはくれなかった。

 由香は先ほど届いたメールの内容を思い出していた。

『ムッコも死んだ。アンナも死んだ。次はユカ。あなたかもしれない……』

 由香は手にしたスーパーの袋を握り締めた。近所のスーパーがお盆休みで、少し遠くのスーパーへ足を延ばさねばならなかったのだ。

 由香はさらに足を速めた。

 次に狙われているのは自分だ。

 由香はそう確信していた。

 そうでなければ、あんなメールは来ないはずだ。まるで、由香をあざ笑うかのようなあの文面。

 由香は顔を顰めた。

 民家の間の細い路地。夕飯時も過ぎたせいか、人通りがほとんどない。

 怖い。

 何度か、後ろから誰かにつけられているような気がして振り向いた。

 だが、誰もいない。

 気のせいだ。気のせい。少しナーバスになっているだけなのだ。

 由香は自分に言い聞かせた。

 その時だった。

 またも、足音を聞いた気がして、由香は足をとめた。振り向くと、やはり人の姿は無い。

「気の、せいよ、ね」

 声にだして自分を励まし、また前を向いて歩きだす。

 だが、歩くたびに、ゆっくりとした足音が聞こえてくるのだ。

 後ろを振り向くと、人の気配を感じた。背筋が一気に冷え、鳥肌が立つ。

 さらに足を速めた。後の足音の間隔も早くなる。

 嫌、嫌、嫌!

 まだ死にたくない。

 誰か助けて。

 由香は必死に走った。持っていたスーパーの袋が大きく揺れて、身体にぶつかり、跳ね上がる。静かな路地に響き渡る足音。由香はスカートのポケットから携帯電話を取り出して、電話をかける。

 耳にあてた携帯電話から、コール音が響く。

 お願い、出て。

 だが、電話はつながらない。後ろを振り返る。人影が見えた。顔立ちまでは分からないが、きっと男性だ。

 由香は電話を切ると、前を向いて走った。

 暗い路地の先に明るい光が見える。

 ここを抜ければ大通りに出る。そこにさえたどり着ければ、自分はもう大丈夫だ。

 明るい光が由香の胸に希望を見出した。

 由香は走った。懸命に。

 そして、大通りに走り出た。

「危ない!」

 どこからか聞こえた叫び声。

 その声に驚いて立ち止った瞬間。

 由香は白い光に包まれた。




 食事を終えて、部屋に来ると置き忘れていた携帯電話が光を点滅させていることに気付いた。電話を手に取ると折り畳み式のそれを開いて中を確認する。

 着信アリという表示に、着信履歴を見れば、一時間前に君島由香から着信があったと知れた。

 電話をかけなおしたがつながらない。

 何かあったのだろうか。

 不安が海を支配した。二度、三度、電話をかけなおすがつながらない。焦りが募る。

 四度目に電話をかけなおそうとした時だった。

 ディスプレーに現れた『風見』の文字に、通話ボタンを押した。

「もしもし、風見?」

『紫藤、どうしよう。由香が、由香が』

 焦った声音が海の耳に届く。

「風見、どうしたんや。とにかく落ち着けって」

『由香が、車に撥ねられたって……』

 海は服の胸元を掴んで、息をのみ込んだ。

「嘘やろ、それで、君島さんは無事なんか?」

『分からないの。由香に連絡取ろうと思っても、ケータイでないから、家に電話して。そしたら、おばあさんが出て、由香が車に轢かれたって教えてくれて』

 海は言葉が出てこなかった。一時間前に由香からきた電話。あの電話に出ることができれば、由香が車に轢かれる事態を避けることができたのではないか。

 そんな思いが海の胸を掠めた。

『はっきりしたこと分かったら、また教えてくれるっておばあさんが。ねぇ。紫藤。由香死んだりしないよね』

 風見の声に涙が滲んだように思えた。海は答えようとして口を開くが、声が出てこなかった。不安が広がる。悪い想像が頭の中を占拠していく。

 海は首を大きく横に振って、想像を追い払おうとした。

「大丈夫や。風見。信じて待とうや。きっと君島さんは大丈夫やから」

 海は自身にも言い聞かせるように、その言葉を口にしていた。

 通話を終えて、海は持っていた携帯電話をベッドの上に放り投げた。

 片手で額を押さえて、顔を歪める。

「信じて待とうって、嘘ばっかり」

 海は自嘲気味に口の端を上げる。

 信じて待とう、言った自分が信じられないでいる。

 海は知っていた。

 信じていたって、運命は簡単に海を裏切る。

 人は簡単に、海の前からいなくなるのだから。




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