第二十章 記憶
あの日、早く帰るから。そう言ったのに。
あの日、早く帰ってきて、そう言われたのに。
帰りが遅くなってしまった。
だから、彼女は死んでしまったのだろうか。
だから、彼女は自分を待たず死んでしまったのか。
だから、これは自分の罪。
自分の罪だ。
蝉の鳴き声が、周りに大きく反響している。養父に手書きしてもらった地図を片手に、最寄りの駅に降り立った。
地図を見ずとも、ある程度の記憶がよみがえり、足がかってに墓場へ向かう道を行く。一年に一回とはいえ、何度となく来た道だ。十分ほどで、墓場に着いた。
墓の位置も、だいたい把握している。墓石が立ち並ぶ道へゆっくりと歩みを進めた。
もうそろそろ、目的の墓に着く。
そう思って、心なし俯けていた視線を上げて、海は足をとめた。
海が目的としていた墓の前に男がいる。手を合わせていたその人が、立ち上がったのが目に映る。
男がこちらに気づいた。ゆっくりと笑顔になったその顔を、海は知っている。
「私市さん、来てはったんですか」
小走りに私市のもとまで来ると、声をかけた。
「ああ。ここで会うのは初めてだね」
穏やかな声音が海の耳を打つ。
毎年、自分が来る前に供えられていた花。
花を供えてくれていたのは、この人だったのか。
「毎年、来てくれてはったんですね。ありがとうございます」
そう言って頭を下げれば、また穏やかな声がその頭に振ってきた。
「そりゃあね、俺にとっては、憧れの人だったからな」
そう言って墓を見る。
海も墓に目をやった。
墓石には、斎藤家の墓と彫らている。
海の血の繋がっていない両親が眠る墓だ。
海がお父さん、お母さんと呼ぶのは、この下に眠っている二人だけ。
私市が火を点けたのだろう線香の香が、この辺りにまだ漂っている。綺麗な花も飾られていた。海の手にも、花がある。
海は花を置いて、墓の前で手を合わせた。
高校生になったこと、兄弟を見つけたこと。いろんなことを報告する。
そして目を開けると、後ろを振り返った。
私市は、海が墓参りを終えるのを待っていてくれたのだろう。所在無げにたたずんでいた。
男前なのにどこか眠たげな、そしてやる気のないような表情は、昔から変わらない。
私市と初めて会ったのは、もう随分と前になる。海がまだ、こちらに居た頃のことだ。近所に住んでいた彼は、海の父親を兄のように慕ってよく家に遊びに来ていた。
海の彼に対する認識は『よく遊びに来る面白いお兄さん』だった。小さな甥っ子がいるとかで、子どもの扱いに慣れている人だった。
そんな彼とは、今年八年ぶりに再開した。数ヶ月前に起こった事件の捜査に、海の通う学校へ来たのだ。
最初は、まったく気付かなかった。昔のことは、あまり思い出さないようにしている。八年という歳月が、記憶を曖昧にしていた。彼から話しかけられなければ、ずっと気付かなかったことだろう。
話しかけられてすぐに思い出したものの、彼が海の父親と同じ刑事となっていたことにまた驚いた。海の父親は、殉職している。そして、母親もその後を追うように……
「海くん? どうした」
声をかけられ、海は我に返って私市を見た。
彼の顔には心配そうな色が見て取れる。
「な……んでもありません。ちょっと、思い出したから」
「そうか……」
私市は、大きな掌を海の頭にやって荒っぽく撫でた。海は慌てて頭に手をやって、髪を整える。
「何するんですか。俺、もう子どもやないですよ」
拗ねた口調で文句を言うと、私市は笑顔を作った。
「ははは。君はまだまだ子どもだよ。さ、せっかく会ったんだし、ゴハンでも食べに行こう。昼まだなんだろ」
聞かれて、海は素直にうなずいた。
私市に連れられて入ったのは、駅前のそば屋だった。広い店内には、結構な数のテーブルが並んでいる。奥には、座敷も見えた。
四人掛けの席に案内された二人は、注文を終えると、冷たいおしぼりを手にとった。
私市がそのおしぼりで顔を拭いているのを見て、おっさんやんと思ったことはふせておく。
「君はうどんを頼むのかと思ったよ」
唐突に言われ、冷たいお茶の入ったコップに向かって伸ばしていた手を止める。
「だってほら、関西の人はうどんが好きだろう」
私市は真面目な顔をしている。海は思わず噴き出した。遠慮なく笑ってから、手を上下に振って私市の気を引く。
「何言うてるんですか、俺もともとこっちの人ですやん。それに、関西にやって蕎麦好きの人もいてますよ」
「そうなのか? 大阪に友達がいるんだが、蕎麦屋でもわざわざうどんを頼んでいたのが印象に残ってたんだ。だって蕎麦屋なのにさ、何でわざわざメインの蕎麦を頼まずにうどんにいくんだって思わないか? 絶対蕎麦の方が美味いだろうに」
私市は腕を胸の前で組んで、首を捻る。相変わらず、妙なところにこだわる人だと海は思う。
「まあそうですよね。俺はうどんより蕎麦派なんで、うどん屋入っても、蕎麦があったら蕎麦頼んでまいますけどね」
「ほー。そういうもんかな」
「そういうもんですって、あ、来たんちゃいます?」
海が厨房の方からお膳を持ってくる店員を見かけて、声を上げる。
案の定店員は、二人の前に天ざるの乗った膳を置いた。
しばらく無言で天ざるを食す。
海はすべて平らげた後で、ごちそうさまでしたとしつけられた通りに手を合わせた。
それを見た私市が慌てたように手を合わせるのがおかしい。
「あの、私市さん」
声をかけると、無言で問い返すように表情を変える。そんな私市に向かって、海はおずおずと口を開いた。
「石井の件ってどうなってます? 犯人捕まりそうですか」
じっと、私市は海に視線を注いだ。それに耐えるように見返していると、不意に私市の視線が逸れた。
「そうか、君も彼女と面識があったんだったね。例の悪戯メールの件で」
海は頷いた。石井睦子の葬儀の数日前に、警察が海の家にも話を聞きに来ていたのである。私市は当然そのことも知っているだろう。
「はい。犯人って捕まりそうですか」
もう一度聞いてみた。せっかくの機会だ、答えてもらえないかもしれないが、駄目でもともとである。
私市は、自身の頭に手をやって、少し長めの前髪を掴んだ。
「んー。まあ、頑張るよ」
なんとも頼りない返事である。
「メールを送って来る犯人と、石井を殺した犯人て同じなんでしょうか」
海の問いに、掴んでいた前髪を放して、少し崩れた髪型を戻すように撫でてから、私市は口を開く。
「それを今、皆で調べてるところだよ。海君は気にせず、春名君と仲直りすることだね」
海は目を見張った。
「な、何で知ってるんですか? 俺らが喧嘩してること」
私市は無言で自身の頬を指さした。
「彼の頬が赤くなってたからね。君と二人で出て行って戻った後に」
「はっ……」
笑おうとしたが、できなくて。海は大きく息を吐きだした。
「さすが、よう見てますね」
テーブルの上に置いた手を合わせて、指を組む。そして、強く握りこんだ。
「私市さん。俺、怖いんです」
私市の視線を感じる。海はもう一度、ゆっくりと息を吐き出してから、声を絞り出した。
「俺、人から必要とされてないと怖いんです。あいつは、光は俺のこと必要やないんですよ。そんなんあいつのせいやないのに、俺、あいつに奴あたりしてもうた……」
視界に私市の手が入った。その手は握り締めた海の手の上に乗る。彼の手がゆっくり二度、海の手を優しく叩く。
海は顔を上げた。私市と目が合う。
「後悔してるなら、謝るのが一番だね」
私市は笑顔を浮かべる。
「経験談。それに、君は春名君が必要なんだろう」
海は目を伏せた。
海からの答えはない。
私市は、そろそろ出るかと、海を促して立ち上がった。
海が墓場で手を合わせていたころ、高橋空は笑顔全開で昼食のそうめんが入った器の前で手を合わせていた。
「いっただっきまーす」
元気にそう言って、箸に手を伸ばす。いつもなら、窓を開けて扇風機をつけながら昼食を食べるのだが、今日はクーラーのついた涼しい部屋で昼食にありつけている。それもこれも、光さまさまだ。つまり、空は数日ぶりに光の家に遊びに来て、ちゃっかり昼食をごちそうになっているのである。
「悪かったな。そうめんしかなくて」
珍しく殊勝な物言いをしたのは光である。光は、薬味のネギを麺つゆに入れている。そのネギの切り方が歪なのは、空が刻んだからである。
「いいよ。俺そうめん好きだし。っていうか、ごちそうになってんの俺だし」
いつもなら、おいしい手料理をごちそうしてくれる家政婦さんが、夏バテで急きょ来られなくなったそうなのだ。
出前を取ると言った光に、勿体ないと台所を物色して、見つけたそうめんを茹でることを提案したのは空だった。
慣れない手つきで作った割には、なかなか美味い。そうめんは時間通りに茹でただけ、つゆは市販のものだから、美味いのは当たり前かもしれないが。
「でも、意外だったな。おまえん家にそうめんがあったの」
空がそう言ってそうめんをすする。光はたいして興味を示す風でもなく淡々と口を開けた。
「ああ、たぶんお中元で送られてきたんだと思う」
「なるほど、おまえん家、すっげーいっぱいお中元とかきそうだよな」
なんとなく、金持ちの家というのはそんなイメージだ。
その言葉に対し、光は否定も肯定もしない。黙々とそうめんを口に運ぶ。
空は、会話の糸口を探してふと思ったことを声にだした。
「なあ、なんかさー、うやむやになっちゃったよな。メール」
「桜田絵里からの?」
問われて、空は頷く。冷えた麦茶を一口飲み、言葉を続けた。
「この間、葬式行っただろ。あの後、川崎さんに聞いたらさ、石井睦子が死んだ後、ぷっつりとメール来なくなったんだって」
「へえ。他の二人も?」
尋ねた光に、空は頷いて見せる。
「らしいよ。あれってさあ。あれかな。桜田絵里の霊が、恨んでた石井睦子を殺して、成仏したからかな」
空は言葉の途中で、身体の前で手をもたげて、幽霊のポーズを取る。
光は呆れたように、鼻で笑った。
「あ、何その態度。ムカツク」
短気な空がすかさず声を上げる。光は、それを抑えるように手を軽く前に出した。
「空の話を前提として聞くけど。どうして桜田絵里は、彼女だけを殺して成仏するんだ? 絵里を虐めていたのは石井睦子だけじゃないはずだろ。石井睦子だけを殺して、メールが来なくなるのは変じゃないか?」
言われて、確かにそうかも知れないと思ってしまった。なんだか悔しい。
「そもそも、どうして桜田絵里が石井睦子を恨んでいると思うんだ?」
「どうしてって……」
それは、石井睦子が桜田絵里を虐めていたからだ。だが、虐めていたのは他の三人も同じだ。そう気づいて、空は言葉を切った。
メールの内容にもあったように、石井達がしていた虐めは、無視をする程度のものだったようだし、それは由香の証言とも一致している。
由香自身は、絵里が自殺した原因は自分ではないかと思っていたようだが、もしそれが原因なら殺されていたのは由香だったはずだ。空が由香から聞いた限りでは、桜田絵里は前向きで元気な明るい性格という人間像が見える。そんな人が、自殺するというのがどうにも解せないのだ。
「空、人を殺せるのは幽霊じゃなくて、人だよ」
光の声が耳に届き、思考の中に埋もれていた意識が顔を出した。
「お、俺だって本気で幽霊が犯人だとは思ってねーって」
声を上げた空に、光が疑いの眼差しを向けてくる。半分は本気だったことを見抜かれてるんじゃないか、という疑念が湧く。
「いや、嘘じゃねーよ?」
「まあ、どっちでもいいけど」
光は興味無さそうにそう言って、ゆっくりとテーブルに手をついて立ち上がった。
「とりあえず、皿を洗ってからもう一度、最初から考えてみないか?」
空は、賛成と挙手をして、皿を運ぶために立ち上がった。