第十九章 後悔
空が目を覚ましたのは、廊下で鳴り響く電話の音のせいである。
眠い頭を一つ振って、部屋を出た。空の家とは違う、広く長い廊下は静で、人の気配がない。
光の名を自慢の大声で呼んだが、返事はなかった。
電話が鳴り続けている。
電話機を見つけて、空はその前で少し迷った。
他所様の電話に出てよいものか考えたのだ。
結局、いつまでもなり続ける電話を前に我慢できず、空は受話器に手を伸ばした。
「もしもし」
『その声、空か?』
唐突に相手が大声を上げた。空は一拍の間をおいて思いついた名を上げる。
「海? え、何で……」
光とは喧嘩してたのに。そんな疑問が頭をかすめた。
『おまえん家に電話したら、こっちやって言われてな』
「ん? じゃあ俺に用な訳か」
『そうやねん。君島さんから連絡あってな』
そこで一度、海は言葉を切った。その間がやけに長かったので、空が不審に思った時、海の声が耳に届いた。
『石井睦子が亡くなったんや』
「え? 嘘だろ……」
空はそのまま絶句した。石井睦子が倒れていた場所へ向かうという海の言葉に、自分も行く、それだけ言って通話を切った。
亀公園近くの交差点で待ち合わせて、空と海、そして由香は睦子が発見されたという廃ビルへ向かった。
その廃ビルが視界に入る前に、人のざわめきが空たちの耳を打った。
それが、野次馬の声だと分かったのは、その廃ビルの前で立つ多くの人影を見つけたからだ。
その中に割って入るようにして、空たちは人垣の前に出た。
先ほどまで、人の頭や背中で遮られていた視界が広がる。立ち入り禁止のテープの向こう。
結構な数の警察関係者と思われる人の中で、見知った人物を見つけて、空は大声を上げた。
「あ、光! 何でここに」
空のあまりの大声に、一瞬身を引いた海は、はっとしたように空の視線の先を追った。
そこには、以前学校で起こった事件の時に顔を合わせた中年の刑事の傍らに、光と伊藤静の姿があった。
「何で、伊藤さんと一緒におんねん」
「俺に聞かれても」
不機嫌な声を上げた海に向かって、空は困ったように頬を人差し指で掻いた。
「ていうか、何で刑事と一緒やねん」
「だから、知らねーっつうの」
光は家にいるはずだと思っていたのだ。空が床に着くまでは確かに部屋にいた。
家を出て行ったとするなら、空が寝ていた間だろう。
「あの人、シズカの彼氏でしょう? アンナが電話で言ってた。シズカが、彼氏と一緒にムッコを見つけたって。紫藤くんたち知り合いなの?」
聞かれて、空と海は顔を見合わせた。
「おーい。光! こっち来いよ」
空はまたも大きな声を出す。
喧騒の中でも、よく響いたその声に、光は顔をこちらに向け、微かに眉をひそめた。
そして、刑事に何か話してから、空たちのもとへやって来る。
「空。起きたのか」
光は開口一番そう言った。
「悪かったな、寝穢くて」
「誰もそんなこと言ってない。で、要件は」
相変わらずの無表情で問う。海はそんな光に不機嫌な眼差しを向けた。
「おまえ、ちょっとこっち来いや」
そう言って、海は光の手首を掴んで引っ張った。光は立ち入り禁止のテープを潜るしかない。
そのまま二人は人垣の向こうへと消えていく。
「え、ちょ。おいてけぼり? 俺たち」
「どうしよう」
由香に不安そうな顔で見つめられ、空は反射的に笑顔を作った。
「俺、あいつら追いかけるからさ。君島さんは川崎さん来るのここで待ってて。来るんだよな? あの子」
「う、うん」
頷く由香にぜったいここを動くなと言い置いて、空は海たちの後を追った。
しばらく歩いて、足をとめる。
細い路地へと続く角の向こうから、声が聞こえた気がしたのだ。
そちらに向かうと、案の定、光と海がいた。
壁に背を持たせかけて立つ光の前に、海が腕を組んで立っている。
「日記のこと、空に聞いておかしいなとは思っとったけど。まさかお前が調べてるなんて思わんかったわ」
光は無言で眼鏡の奥から、海を見つめている。
「俺が、メールのこと言うた時は他人なんか関係ないとか、やめろとか言うとったくせに、どういうことや!」
詰め寄る海を前に、光は溜息をつくと顔を背けた。
「別に……」
「別にって何やねん!」
怒鳴る海と光の間に、空は割って入る。
「まあまあまあ。海、落ち着けって。そんで、光。さっき君島さんが、お前が伊藤さんの彼氏だって言ってたけど本当? 伊藤さんに言われて、事件調べてたのか?」
取り合えず話題を逸らそうと、気になったことを聞いてみた。だが、聞いた内容は話題を逸らしたことになっていない。
光は相変わらず表情一つ変えずに、口を開いた。
「関係ないだろ」
抑揚のない声が耳に届き、空は短気ぶりを発揮して怒鳴ろうと口を開けた。
「か……」
「関係ないって何やねん」
空が上げた声にかぶせるように海が怒鳴った。空は度肝を抜かれて、口を開けたまま海を見る。
「俺ら、兄弟やろ。そういうこと、何も言わんとこんなことに巻き込まれて、俺がお前に相談した時は、動こうともせんかったくせに。女に言われたら動くんか。最低やな」
怒声を上げて疲れたのか、肩で息をしている海の前で、光は俯き、口元に手をやった。
そして、ふっと鼻で笑う。顔をあげて、冷たい視線を海に向けた。
「そう思いたいなら、そう思ってればいいじゃないか」
光と海の視線が交錯する。
海を突き放すように見る光の視線。
その視線を感じた刹那。
海は手を上げていた。
あっという空の声。その前に響いた乾いた音。
海はゆっくりと、己の右手の平に視線を落とした。
「海、何も殴ることないだろっ」
その声を聞いて顔を上げる。頬を押さえて、珍しく驚いた表情をしている光と目があった。眼鏡が、ずれている。
「あ、俺」
しびれるような手のひらの痛み。
海は後退りした。
「俺は……俺は謝らへんで! お前なんか、もう知らん。大嫌いや」
大声を上げ、踵を返して走り出す。
「待てよ、海」
空の声が背にかかるが、海は振り向くことができなかった。
見知らぬ夜道を、海を捜して走り回るうちに、小さな公園に辿り着いた。そこの遊具場で、海の背を見つけて空は安堵の息をつく。
彼が、海と呼びかけようとしたとき。
「うがぁ! やってもうた」
海は妙な声をあげると、頭を抱えてしゃがみこんだ。
「ぬぁ、何って声出すんだよ」
驚いた空は、自身も妙な声をあげて、海に駆け寄った。
「空?」
「おう。空さまだっつーの。お前、殴った挙句何で逃げてんだよ」
「光は?」
問いに答えず尋ね返した海に、空は呆れたような眼差しを向ける。
「戻ったよ。まだ帰るなって刑事に言われてんだってさ」
「そうか……」
空は、海に手を差し出した。暗に立てと言っているのである。海はその手を取って立ち上がった。
二人して公園を出る。由香を待たせているのだ。もう杏奈も着いている頃だろう。
空は、海の顔をしばらく見つめたあと、口を開いた。
「やっぱ、お前最近変だ。変だよ変」
「へんへん言うなや」
「変なものは変だよ。光と喧嘩するしさ。かと思えば殴るしさ。普段のお前なら絶対しないだろ。光の言うことなんかにこやかに聞き流せるだろ。いつものお前なら」
俺は聞き流さないけどな。と、続ける空の横で、海はしばらく無言のまま歩みを進めた。
「光、殴ってもうなたなぁ、しかも大嫌いって、俺は小学生か。ほんま俺何やってんねやろ」
大きく溜息ついて、掌を見る海。空はそんな海に目を向けた。
「後悔するなら、やんなきゃいいのに」
「……そうやな。俺、あいつに八つ当たりしてるんかもしれん」
「え?」
「最低なんは俺の方や……」
意味がつかめず問い返したが、海は言いなおすことはしなかった。
石井睦子の葬儀は、睦子の遺体が見つかってからちょうど一週間後に行われた。
睦子の遺体は司法解剖に回されたと聞く。空はお焼香をあげたあと、海や由香たち五人で葬儀会館を後にした。光は別行動を取っている。
日が沈んだばかりの道は街灯が少なく、暗い。人通りの少ない坂道をゆっくりと駅に向かって下って行く。
「どうして、こんなことになったんだろう」
由香が涙声で呟いた。
きっとこの場にいた全員が思っていた言葉だろう。
杏奈が、流した涙をぬぐって声を上げた。
「ユカは、喜んでんじゃない? アタシらのこと本当は恨んでんでしょ」
泣きすぎたせいではれぼったくなった目で、由香を睨む。
「川崎、何で、そんなん言うねん」
海が鋭い声を上げる。杏奈は俯いた。
「だって、そうだもん。アタシらユカがおとなしいから、けっこうやりたい放題やってたし。ざまあみろって思ってんでしょ。本当は」
足を止め、拳を握りしめて叫ぶように言った杏奈に、全員の視線が向かう。
由香は二度、大きく首を横に振った。
「違う。そんなことない。悲しいよ。悲しいに決まってるじゃない。中学の時、友達できなかった私に、はじめて声掛けてくれたのムッコとアンナだったじゃない。嬉しかったのよ。本当にうれしかった。あれから、今まで、エリのことがあっても。私のこと見放さないでいてくれたじゃない。ざまあみろなんて、思うわけないじゃない」
珍しく大きな声をあげた由香を、驚いた顔で杏奈が見詰めた。
「私たち、友達でしょう」
涙ながらに訴える由香に向かって、杏奈は手を伸ばした。ゆっくりと、由香の体を引き寄せる。
「ゴメン。ゴメンねぇユカ。変なこと言ってゴメンねぇー」
抱き合ったまま、声をあげて大泣きする二人を黙って見ていた空は、どうしようかと海を見る。海は肩をすくめた。
どれくらいたっただろうか。空と同じく二人を静観していた静が動いた。
二人の肩に手をおいて、宥め始める。
しばらくそんな様子を眺めていた海が、三人にそろそろ行こうと声をかけた。
また、五人で駅に向かって歩き出す。湿っぽい空気の中、静が声を上げた。
「やっぱり、あのメールを送った人がムッコを殺したのかな」
「そんな」
由香が怯えたように声を上げた。
「でも、ムッコ誰かにつけられてるって言ってたし、どういう理由かは分からないけど、エリを私たちに殺されたって思ってる犯人がムッコを……」
「やめて、シズカ! そんなこと、あるわけないよ」
由香が耳をふさいで、首を振る。
静は、由香に目を向けた。
「なら、ムッコが言うようにエリの呪いだっていうの? それこそあるわけないでしょう」
静の冷静な口調に、空は、それは確かにそうだよなと思う。
そんな空の横で、杏奈がこぶしを握った。
「どっちにしろ、ムッコを殺した犯人、アタシは許さないけどね」
前へと向けられた強い視線。
杏奈の言葉に、全員が彼女に視線を向ける。
「絶対に、許さない」
彼女の言葉が、暗い夜道を通って消えた。