第十七章 まさか……
また、誰かが後をつけてくる。彼女の履くミュールの音が、夜道に響く。その後に、微かな靴音が続く。
彼女が足をとめれば、後ろの靴音が少しずれてとまる。
もう嫌だ。
どうして、つけてくるの?
彼女は足を速めながら、鞄の中の携帯電話を探った。
家まであと数メートル。あの角を曲がって少し行けば家に着く。
彼女はさらに歩みを速めた。
携帯電話をようやく鞄から取り出して、開こうとした彼女の手が止まる。メールが来たことを知らせるマークが点滅していたのだ。
また、エリから?
もう、嫌!
手にした携帯電話を、路面に投げつけたい衝動を抑え込む。
後ろから、足音が聞こえてくる。つかず、離れず。彼女は後ろを振り向いた。街灯から離れた場所に人影が見える。
背筋が凍る。
彼女は走り出しながら、携帯電話を開いた。メールは無視して、電話をかける。
ワンコールで出た相手に、彼女は声を上げた。
「もうイヤよ。ねぇ。もうイヤ、またつけられてるの。きっとエリの呪いよ。アタシ達呪われてんのよ。アタシ、もう警察行く。警察言って全部話す。そうすれば……」
『何言ってるの? 落ち着いて。今どこ?』
相手が、驚いたように声を上げた。
彼女は今いる場所を言いながら、角を曲がった。
その時。
彼女は横の路地から伸びてきた手に、捕らえられた。叫び声を上げようとした口を背後から塞がれる。そのまま細い路地に引き込まれていった。
夜九時過ぎ。
今日も泊りに来た空は、光の座る机の後ろで、健やかな寝息を立てている。夕飯を食べて風呂に入ったあと、すぐに寝てしまったのだ。別の部屋を用意すると言ったのだが、せっかく泊まりに来たのに一人じゃつまらないと、空は主張した。その割に早く眠ってしまったのだから、意味がないのではないかと光は思う。
彼は、することもないので、机に向かって予習をしていた。
それもひと段落し、強張った肩をほぐすように動かした。
夕食の時、空に聞いた話を思い出す。それを整理するために、ノートを一枚ちぎって、そこに思いつくまま書きだした。
・一番最初のメールは、絵里のメールアドレスから送られてきた。
・内容は細かく、すべて真実。
・メールに書ける内容が書いてあるであろう日記は存在した。
・桜田絵里の母親は、日記の存在を認めたが、携帯電話を持っていたことは知らなかった。
・父親の方は、どちらの存在も知っていた。
・絵里の携帯電話は、父親が持っていた。
・そのケータイ電話は使用不可能だった。
・その携帯電話から、メールが送られた形跡はなかった。
こうやって書き出してみると、一番怪しいのは、携帯電話と日記を持っていた父親だろう。空の話から、海もそう考えたことがうかがえる。
海が桜田絵里の父親に対して、メールが送られてくることを告げたのは、父親に対しての牽制だろう。そうでなければ、信じているという表現は使わないはずだ。
そこまで考えた時だった。携帯電話が机の上で、動き出した。マナーモードにしていたので、振動したのである。
机から落ちたところを、キャッチして、光は携帯電話を開いた。
「もしもし」
『助けて、春名君』
静だ。緊迫した声に、嫌な予感を覚えた。
「どうした」
『ムッコから電話があったんだけど、途中で切れちゃって』
「それで?」
『だから、ああ。えっと、ムッコ後をつけられてるって怯えてて。家の近くだけど、警察行くって、そしたら電話切れて』
「分かった。とりあえず、そっち行くから。今どこ?」
『ムッコの家の近所まで来てるの、亀公園近くの大きな交差点のとこ』
そこなら知っている。光はすぐさまその辺りの情景を思い浮かべた。車の通りも、人の通りも多い場所だ。
「じゃあ、そこで待ってて。すぐ行くから」
そう言って、電話を切って。光は立ち上がった。ドアまで歩いて、一度後ろを振り返る。
空がちょうど寝返りを打ったところだった。
幸せそうな寝顔が目に入り、光は空をおいて行くことを決めた。
「春名くん」
タクシーを降りたところで、声をかけられ、光は声のした方向へ視線を向けた。
静が街灯の近くで手を振っている。そちらに歩み寄って声をかけた。
「大丈夫?」
「ええ。でも、どうしよう」
「警察に連絡は?」
静は首を大きく横に振った。
「警察にいったって、きっと信じてくれないわ。それより、ムッコ捜さなきゃ」
「……分かった。この辺りにいるって彼女は言ってたんだね?」
「ええ……」
不安に強張った顔の静。光は彼女の肩に手を置いた。
「不安だろうけど、とりあえず彼女を見つけることだけを今は考えよう。いいね」
ゆっくりと言い聞かせるような声音に、静は頷いた。
まず、睦子の家に電話をかけた。もしかすると、睦子は家にいるのではないか。そんな希望的観測からだ。しかし、睦子は家に帰っていなかった。家の人に、睦子が帰ってきたら連絡をくれるようにお願いして、通話を切った。
二人は睦子の家の前まで来ると、その付近を捜して回った。だが、どこにも姿はない。この辺りの道は、人通りが少ないせいもあってやけに静だ。
街灯も少なく、暗い路地を、目を凝らして捜す。
「あっ。春名くん」
細い路地を覗いていた静が声を上げた。そちらに歩み寄った光に彼女が何かを差し出す。
それは、小さなキーホルダーのようだった。
「これ、中学の修学旅行で買ったやつなの。皆色違いで。この色はたぶん、ムッコのだと思う」
光はそのキーホルダーを街灯のある方へ掲げてみた。
ハート型のキーホルダーだ。よく見ると、爪切りとしても使えるようだ。土産物というだけあって、地名も入っている。
少し傷はあるものの、たいして汚れてはいない。最近落としたものだろう。
「この、路地の先には何がある? 例えば、人目につかないような場所はないかな」
静は、眉を寄せ考えるようにしたあと、何かを思いついたように声を上げた。
「あ、廃ビルならあるわ。この間、ムッコに聞いたの。二、三年前に立て直すって言ってたけど、そのまま放置されてるビルがあるって。そこなら、中へ入ってしまえば、周りからは見えないかも」
「行ってみよう」
光は、静の背を押して促し、自身も歩き出した。
細い路地を抜けてすぐ、その廃ビルに着いた。五階建くらいの小さなビルだ。月をバックに建つ廃ビルは、さながら悪の巣窟といった雰囲気だ。街灯の光も弱いため見えにくいが、壁のあちこちに罅が入っている。
入口には立ち入り禁止のロープが張られているが、入ろうと思えば誰でも簡単に入れるだろう。
「中へ入ったことは?」
光が尋ねると、静は激しく首を横に振った。こんな薄気味の悪いところ入るわけないとでも言いたげだ。
「ねえ、中入るの?」
怖気づいたような静の声。
「僕一人で入ろうか?」
その言葉に、静は大きく首を左右に振った。
光が、ビルの中へ向かうと静が慌ててついてくる。
中は真っ暗だ。月明かりもほとんど入ってこない。光は、ポケットから携帯電話を取り出した。開くと、明るいひかりが周囲を照らす。射光は弱いがないよりはましだ。
床は、砂のようなもので汚れて、足跡がいくつも残っている。コンクリートの欠片なども落ちており、壁には無数の落書きがあった。ふと、何かが落ちていた気がして、先ほど照らしたばかりの場所に携帯電話の弱いひかりを向ける。そこには、カゴバッグが落ちていた。
「このバッグ」
光の呟く声が届いたのか、静がそちらに歩み寄ってバッグを拾い上げた。
「これ、ムッコのだわ! ムッコここに来たのよ」
静に手渡されたピンク色のカゴバッグは、確かに光も目にしたことがある。一度、睦子と会ったときに彼女が手にしていたものと同一だ。
だが、なぜこんなところに落ちている?
「ムッコー。いないの? いるなら返事して」
静が声を張り上げる。光が階段を見つけてそちらに進むと、静が光の片腕を掴んだ。
ちょっとした重みに驚いて見ると、不安げな表情の静と目が合う。
溜息をつきたいのをこらえて、静に掴まれた腕はそのまま、光はゆっくりと階段を上りはじめた。足が痛いがそうもいっていられない。
「あ、そこ危ないわよ。大きな穴があいてるから」
言われて、携帯電話を下に向けてそこを照らせば、コンクリートが削れたようになっていた。穴というほどではないが、ここに足を取られたら転んでいただろう。暗くて、見落とすところだった。光は眉をひそめたあと、静に顔を向けた。
「……ありがとう」
呟くような小さな声だったが、光に身を寄せている静には聞こえただろう。
しばらくして、二階に着いた。
こちらも、ひどく荒れている。壁の落書きも一階と同様に、所狭しと描かれていた。とても口には出せないような下ネタに、相合傘も書かれている。
「ムッコー、いないの?」
廊下にむなしく響く声。
何故か落ちている段ボールやゴミをよけ、光と静は二階にあるフロアをすべて見て回る。
三階、四階ともに見て回るが人の姿はどこにもない。ここにはいないのではないか。そんな思いが頭をかすめた。
五階の最後のフロアに来た時だった。静は携帯電話を取り出し、睦子に電話をかけた。
しかし、コール音が鳴るばかりで、電話がつながる気配はない。
何かに気を取られたように、窓の外を見た静が声を上げる。
「春名くん」
呼ばれて歩み寄ると、何かの音が聞こえる。はやりのアイドルの歌声が微かに。音に気を取られていると、静がまた光の腕に抱きついた。勢いに危うくバランスを崩しかける。
「どうした?」
「外、外見て」
震える声で促され、光はゆっくりと窓に近寄り、外に目をやる。
月が見えた。そして、町の明かり。
先ほどより、はっきりと聞こえる音。
「下、下を見て」
言われて下を覗き込む。
息を飲んだ。
月明かりの下。
ビルと塀の狭間。
そこに見えるシルエット。
人が、倒れている。
月明かりをもってしても、ここからだと人物の特定はできない。
「音が、ムッコの着うた……ムッコ、なの? ねぇ、ムッコなの? どうして……」
震える静の声を聞き、光はそっと静の背に片腕をまわした。