第十六章 思わぬ再会
二人が最寄りの駅に着いたのは、午後五時半頃だった。相手から五時半以降に来いという指定があったのだ。
桜田絵里の父親が住むというアパートに着いたのは、午後六時近くなってからだ。駅から五分とかからないと聞いていたのだが、目的のアパートが民家の入り組んだ場所にあり、三十分ほど道に迷ったのだ。
ずいぶんと古ぼけたアパートだった。外付けの階段はさびていて、所々塗装がはげている。足音高くその階段を上がった二人は、岸谷と表札の掛かった家のドアをノックした。インターホンを探したがみつからなかったのだ。
返事がないので、繰り返しノックする。
「はい」
中から低い声が聞こえたかと思ったら、ドアがゆっくりと開いた。
ドアを開けたのは、中年の男性だった。絵里の父親なのだから、相応の年齢といったところか。学校の先生だと聞いていたから、もっとハキハキとした人が出てくるのかと思ったが、随分と陰気に見える。無精髭を生やした顔は表情が乏しい。
「あの、桜田絵里さんのお父さんですか?」
海が尋ねた。男は返事をしようと口を開いたようだが、言葉を発することはなかった。代わりに大きく目を見開く。
その表情に、訝しげな顔を見せた海だったが、ふと何かに気づいたようにこちらも驚いた表情になる。
「もしかして、斎藤か?」
海を見つめて言う男に、空が違うと声を上げようとした。だが、その言葉を遮るように、海が口を開く。
「はい。今は斎藤やなくて、紫藤ですけど。……名前見たとき、まさかと思ったけど、やっぱり岸谷先生なんですね」
「そうか、紫藤か。そうだったな。それにしても大きくなったなぁ」
破顔する男に、海も笑顔を見せる。何やら分かり合っている二人に、置いて行かれた気分で、空は海の肘をつついた。
「おい、どういうことだよ、海」
小声で聞くがあっさり無視された。
とにかく上がりなさいと、部屋に入るように促されて、二人はおじゃましますと口々に言いながら中へ入った。部屋のほぼ中央に置かれた、小さな丸テーブルの前に、二人は岸谷と対面するように座った。
「にしても、絵里の友達が来るって聞いてたんだがな。まさか男の子が来るとは思わんかったな」
最初に対面した時の暗い雰囲気はどこへやら、日に焼けた髭面に快活な笑顔を見せる。
「ああ、俺ら、まあ代理なんです。な、空」
「あ、そう。そうです」
不意に声をかけられ、空は慌てて男に向かって頷いてみせた。
「そうか。で、交換日記を探してたんだよな。君たちが来る前に一通り見たんだが、見つからなかったんだ。日記の束の中にも無かったよ。せっかく来てもらったのに悪いなぁ」
頭を掻きながら、本当にすまなさそうに言う男に、空と海はいえいえと首を横に振る。
そもそも、交換日記は由香が持っているのだから、ここにあるはずがないのである。むしろ、あったなんて言われたらびっくりだ。
「あ、あの、その日記って、見せてもらったりできませんか」
空が尋ねると、岸谷の日に焼けた顔が少し困ったようになる。
「そうだな、申し訳ないけどね。日記というのは、自己を見つめる手段として書くものであって、人に見せるために書くものではないんだよ。だから、絵里の許可なしには見せることはできないな」
「はあ、そうですか」
はっきり拒否された。とても、残念だ。空は、心の中で舌打ちする。
「あ、そうそう。これも頼まれとったんですけど」
「ん?」
声に反応した岸谷が海をみると、海は笑顔を作った。
「絵里さん、ケータイ持ってましたよね。それに、ストラップついとったらしいんですけど。苺の形した、ストラップ。それ、貰えるならほしいって、君島さんが」
「君島さんというと、ユカちゃんか」
思い出すように言う岸谷に、海が頷く。
「会ったことあるんですか? 君島さんに」
空が尋ねると、岸谷は首を横に振った。
「いや、絵里が生前仲のいい友達だって話してくれたんだよ。ちょっと待ってろ。ケータイだな。持ってくるよ」
そう言って、膝に手をついて立ち上がった男は、背後にあった押入れの襖をあけて、そこから段ボールを取りだした。こちらに背を向けたまま、段ボールの中を探っている。
「やっぱり、桜田絵里はケータイ持ってたんやな」
男に聞こえないように、海が空に耳打ちする。
「うん、お母さんは持ってないって言ってたのにな」
そこまで答えたとき、男がこちらを振り返った。
「あったよ。これがケータイだ」
そう言って、丸テーブルの上に置かれたのは、ピンク色の携帯電話だった。
「おばさんに聞いた時は、絵里さんケータイ持ってないって言ってましたよ」
何気ない風を装って、海が告げると、岸谷は照れくさそうな笑顔をつくった。
「ああ、絵里にねだられてな。あいつには内緒で買ってやったんだよ」
空と海はなるほどと頷いた。どうやら絵里は、母親にばれないよう上手くやっていたようだ。
携帯電話には、由香から別れ際に聞いたように、苺のストラップがついていた。
「あ、これこれ、このストラップちゃうかな」
そう言って、海がその携帯電話を手に取った。
「あ、開いて見てもいいですか? 俺、前これと同じ機種やったんですよ。懐かしいな」
「そうか。触るのはいいが、そのケータイは使えないぞ」
「えぇ? 使えないんですか」
思わず大声を上げた空の横で、海が額に手をやった。
岸谷は驚いたように空を見ている。
「あ、すみません」
「いや、いいよ。使う本人がいないからな。たまに、充電してるから中を見ようと思えばみれるが」
「そうか、そりゃそうですよね」
空は、乾いた笑いを口元に上らせた。
その横で、海は慣れた手つきで携帯電話を触っている。
しばらく触って、海はありがとうございましたと携帯電話を返した。その前に苺のストラップは外している。
「じゃあ、これ貰って帰りますね」
「ああ、どうぞ」
「ありがとうございます。で、先生」
「ん? なんだ」
穏やかに聞き返した男に、海は少し表情を曇らせて言葉を口にした。
「最近、絵里さんの名を騙って変なメールを送るやつがおるんです。先生んとこは何かそういうメールきてませんか」
空は、はじかれたように海を見た。
そんないきなり、直球かよ。と、思ったのである。
海はどこか緊張の面持ちで男を見ている。
「いや、俺のところには来てないが。絵里の名を騙ったメール? それはどういう……」
「いや、いいんです。すんません。気にせんといてください。たぶんただの悪戯やと思います。そのうち犯人も、こんなこと何の意味もないことやって気付いてくれるって信じてますから」
海は半ば岸谷の言葉を遮るようにそう告げ、立ち上がった。
丁寧に部屋に上げてもらった礼を言って、二人は岸谷の部屋を後にした。
「かーい。どういうことか説明しろよ」
アパートの敷地を出てすぐ、空が声を上げた。若干声に不機嫌さが滲み出ている。
やっぱり来たか。そう思って、海は息をついた。
「説明って何を?」
とぼけて尋ねると、即返答があった。
「桜田絵里の父親とどういう関係?」
眉間に皺を寄せて半ば睨むようにこちらを見る空に、海は淡々と答えた。
「俺、実は小学校の二年までこっちにおってな、そんで。あの人は小二の時の担任やねん」
「ふーん。じゃあ、斎藤ってのは?」
顰め面のまま聞かれた言葉に、海は真顔で答えた。
「日本人の名字やな」
より一層睨まれた。
海は苦笑してゴメンと謝る。
「俺な、実はお前に嘘ついとった。俺、最初に貰われたん、紫藤の家やないねん」
空は、何も言わずじっと海を見つめている。海はいつになく堅い表情で、空を見返した。
「それ以上は言いたない」
きっぱりと告げた。拒絶の言葉と取られても仕方がない。ゆっくりと目を逸らした海の背を、空が思い切り叩いた。
「痛って」
「うん、分かった。お前が話してもいいって思うまで待ってる」
その言葉に逸らした目を戻すと、空の笑顔が映る。
どこかほっとした気分で、海は笑顔を返した。