第十三章 いい加減にしろよ
お焼香を終えた人々が、彼に声をかけていく。しかし、彼にその言葉が届くことはなかった。
ただ、彼女ともう逢えないのだということが、彼の頭を占めていた。
彼女の明るい笑顔や楽しげな笑い声も、見聞きしてきたはずなのに。
何一つ思い出せない。
いま思い出せるのは、宙に浮いた彼女の足が力なく揺れる様。
自殺した彼女を発見したのは彼だった。
どうしてあの日、早く帰らなかったのか。早く帰ってきてと言われていたのに。なぜ、早く帰らなかったのか。なぜ、どうしてと。後悔ばかりが、彼を苛んだ。
それは数年たった今でも、彼を蝕み続けている。
落ち着いたかと尋ねた光に、睦子は頷いた。喫茶店から一番近いということで、今は静の家に場所を移していた。
光の家と変わらぬほどの大きな邸である。大きなテーブルが真ん中に鎮座している。壁に掛けられた絵画は名のある画家が描いたものだ。壁際に置かれた棚には大きな壺が乗っている。こちらも高価そうだが、洋室であるこの部屋には不似合いだ。
ずいぶん成金趣味だな。この部屋に入った光の第一印象がそれだった。
テーブルを挟んで向かい合わせに置かれた大きなソファーに、彼は座っていた。ちょうど杏奈の正面の位置だ。
光の隣には静が、杏奈の隣には睦子が座っている。
「ゴメン。ちょっとさ、最近、メールの内容がこんなのになってきてブルー入ってたんだ。店で大声出してゴメン」
睦子は顔の前で手を合わせた。
「いーよー。気持ち分かるし」
「そうよ、ムッコ、気にしないで」
女性陣が睦子に口々に声をかける。光はそれを黙って聞いたあと、ゆっくりと口を開いた。
「ところで、石井さん。さっき言ってた呪いってどういう意味?」
単刀直入に聞いた光に、三人の視線が集中した。最初に口を開いたのは睦子だった。
「アタシ黙ってたんだけど、実は最近さ、どうにも誰かにあとつけられてる気がして。それが、もしかしたらエリなんじゃないかなぁって思うときがあって」
「なにそれ。超怖いんだけどー。そう言えば、私もそんな気がしなくもない時もあったけど」
杏奈が声をあげた。結局どっちなんだと言いたくなる。静の方をそっと見ると、静は難しい顔で、立てた親指の爪を噛んでいた。
「静も、同じ目に?」
「え? いいえ。私は……」
抑えた声を漏らす静。光は内心嘆息した。メールだけではなかったのか。否、嫌がらせのようなあのメールのせいで、彼女たちの神経が過敏になっているだけかも知れない。
「必要以上には怖がらなくていいと思うけど、でも気をつけた方がいいな。夜遅く出歩くのを避けたり、どうしても気になるようなら警察へ……」
行ったらどうかと続けようとしたが、それを遮るように、睦子が声をあげた。
「行けるわけないじゃない! 警察なんて!」
叩きつけるような言い方に、全員が睦子に目を向ける。
睦子は我に返ったように、目を見開いた。そして、そそくさと立ち上がる。
「ゴメン、アタシ帰る」
「ちょっと、ムッコー。ムッコが帰るならアタシも帰るー」
すでにドアノブを掴んでいる睦子の背に声をかけ、杏奈も立ち上がる。せわしなく光たちに手を振って、睦子に続いて部屋を出て行った。
「彼女たち、どうしたんだろうな」
光が静に声をかけると、静は首を横に振った。
「さあ、私には分からないわ」
静から、抑揚のない声が返ってきた。
伊藤家を後にした光は、タクシーを拾った。
途中、病院に寄ったので思ったよりも帰宅が遅くなってしまった。光は腕時計に視線を落とす。針は六時半を示していた。この時間では、家政婦はもう家へ帰っているだろう。
誰もいないと分かっているが、鍵を開けて家の中に入るとただいまと声をかけた。
もちろん、返事はない。薄暗い家の中へ上がると、光は二階にある自室のドアを開けた。
「あ、お帰りー」
思いがけず声がかかって、光は珍しく呆けた顔をした。口を大きく開けて、部屋にいた人物を凝視する。
「な、何してるんだ。ここで」
「何って、おまえを待ってたんじゃん」
あっけらかんと、空が笑った。
光は頭が痛くなるような思いで、壁に寄り掛かる。
「坂内さんがさー、光居ないって言うから部屋にあがらせてもらったんだ。今日はアイスケーキっつうのをごちそうになった。んまかったぞー。おまえんち、いっつもお菓子あるから好き」
幸せそうにそう報告する空に、力が抜ける思いがする。坂内さんまで手なずけたか。光は内心苦笑した。
坂内さんとは、この家の家政婦をしてもらっている女性である。誰に対しても屈託なく接する空は、誰にでも大抵好意的に迎えられるようだ。
光はゆっくりと歩いて、床に座った空の前に腰を下ろした。片膝を立て、痛む足は伸ばす。
「おまえさー、あいつどうにかしろよ」
空は唐突に顔を顰めた。よくころころと表情を変えるものだと感心する。
「あいつとは?」
簡潔に疑問を口にすると、空の表情がより苦々しいものになった。
「あいつだよ。朝倉。朝倉の奴、俺んとこ怒鳴りこんできたんだぜ」
怒ったように空は胸の前で腕を組んだ。
「怒鳴りこんできたとは、穏やかじゃないな」
「だろ。しかもあいつなんて言ったと思う? あの女誰! って言いやがったんだぜ、人前で、俺に」
自身を指さす空。光は眼鏡の奥で瞬きを繰り返した。
「おまえたち、そういう関係だったのか」
その発言に、空は大声で答えた。
「お前まで言うか、ちっくしょー朝倉の奴、恨むからな」
頭を抱える空の前で、光は眉を寄せている。
「光、朝倉と会ったんだろ。朝」
聞かれて頷いた。確かに静と待ち合わせしていた噴水広場で会っている。
「けど、朝倉は友達と待ち合わせしていると言ってたけど」
「あいつ、忘れてたみたいだぜ。お前が女と待ち合わせしてたことがよっぽどショックだったんじゃねぇ? 俺にあの女誰って問いただしに来たんだよ」
「へぇ」
としか言いようがなかったのだが、空は不満だったようだ。むっつりと頬を膨らませた。
「へぇ、じゃ、ねぇよ! おかげで俺、二股かけたことが女にばれた男ってことになったんだぜ、近所で」
空は、怒鳴った勢いのまま床を叩く。
「空が、二股かける男? ありえないだろ」
「だろだろ。なのに、そう思われちゃってんの。親までさ、空に彼女ができたっつって、喜んじゃって。二股は俺がやるわけないって思ってるみたいだけど。母さんなんか赤飯炊きそうな勢いでさ」
「それはまた……」
光は緩みそうになる口元を押さえた。結構、大事になっているらしい。はたから聞いていれば、面白いのだが、本人にしてみれば迷惑な話だろう。
「だから、面倒臭くなって、逃げてきた」
「は?」
「今日泊めて?」
空は可愛く小首を傾げた。そんな仕草をすると、本当に女の子のようだ。そう思ったことは伏せておいて、光は無表情で応じた。
「何でそうなるんだ」
「ほら、ちゃんとお泊りセットも用意してきたしさ」
ポンポンと傍らに置いてあった、少し大きめの鞄を叩く空。光は脱力した。答えになっていない。
「坂内さんも、俺の分のゴハン用意してくれたしさー」
いいだろ? と聞いてくる空。
「坂内さんが?」
少し驚いてそう漏らした光に、彼は頷いた。
「そう。来たときちょうどみさきさんが帰ってきててさ、すぐ出てったけど、坂内さんに俺のこと頼んでってくれたんだよ」
光は溜息をついた。まったく、女性陣は空に甘い。ちなみに、みさきさんとは、光の母親だ。
「分かったよ。泊っていけば」
「何その投げやりな感じ」
少し不服そうな空だったが、すぐに気を取り直したように笑顔になった。
何かを思いついたのかもしれない。
「ま、いっか。ってことで飯食おうぜ。腹減った」
どこまでも平和そうな空の顔を見ていると、肩の力が抜ける。
光は、夕食を取る気がなかったのだが、仕方なく空につきあうことにした。