第十一章 女って
今日もよく晴れていた。最近雨が少ない。このまま降らなければ、また水不足だと騒ぎ出すのではないだろうか。
青空に目を向けていた光は、ゆっくりと視界を街中に戻した。
行きかう人の多い、駅前の噴水広場。その噴水の縁に彼は腰かけていた。時折飛沫が服の背にかかるが、気にしない。
あと五分で、待ち合わせ時間の午前十時半になる。ずいぶんと日も高くなり、暑さも増してきた。
「あ、春名くん?」
突然呼びかけられて、そちらに顔を向けた。そこにいたのは、見慣れた少女の姿だった。
「ああ、朝倉」
「すごい、偶然ね。信じられない。こんな所で何してるの? 待ち合わせ? 私も今日は友達と待ち合わせなの」
嬉しそうに、駆けよってきて光の隣に腰かけたのは、クラスメートの朝倉有紀だ。朝倉は、光と同じクラス委員をしているので、光にとっては話しやすい女生徒だった。
「朝倉、そんなにいっぺんに言われても、答えられないよ」
「えへへ。ごめんね。だって嬉しかったから、春名君に会えて。夏休みってつまらないわよね。だって春名君がいないんだもん」
にこにこと笑顔全開の朝倉。どうして、こうも簡単に、人に好意を向けられるのだろう。
光には理解できない人種である。その、理解できない人種である朝倉を、ついまじまじと見つめてしまう。すると、朝倉の頬がほんのりと赤くなってきた。
光は軽く首を傾げる。
「暑い?」
「へ? 何で」
光は朝倉の頬の辺りを指差した。
「赤いよ、顔」
「もうヤダ、春名君ってばー」
言うやいなや思いっきり背中を叩かれた。
かなり痛い。
「あ、ごめんなさい。春名君」
慌てたように声を上ずらせる朝倉に、なんでもないというように手を上げた。
その時である。遠慮がちに、光を呼ぶ声が耳に届いた。
そちらを振り向くと、光の目に一人の少女の姿が映った。
白い、レトロ調のワンピースを着た少女が光のもとへ駆け寄ってくる。
「あの、ごめんなさい遅くなって。そちらは?」
そう言って、伊藤静は朝倉に目をやった。
「は、は、は、春名君。待ち合わせって女の子だったの?」
「ああ。じゃあ、また学校で、朝倉」
光は、朝倉にそう声をかけ、横に立て掛けていた折り畳み式の杖を手に、立ち上がった。
「あ、うんバイバイ」
どこか力なく手を振る朝倉に背を向けて、静を伴って駅の繁華街の道を進む。
「よかったの? 今の子、彼女?」
「いや、クラスメートだよ」
静は、ふーんと、どこか腑に落ちない顔をしている。先日はお下げにしていた髪を、今日は下ろしている。サイドの髪は後ろで一つにして、バレッタでとめていた。髪型を変えただけでも、ずいぶんと印象が変わる。それに明るい色の洋服を着ているだけで、ずいぶんと垢ぬけて見えるのだ。
「似合うね」
「え?」
「その格好。見たときびっくりしたよ。可愛くなってて」
淡々と、表情すら動かさずに光は言ったが、静は恥じらうように目を伏せた。
「ありがとう。春名君、いつもそういうこと真顔でいうの?」
どういう意味か分からず、光は黙った。光は小さい頃から、育ての母に、女の子が普段と違う格好や髪形をしていたら褒めなさいと教えられていた。それに、母自身も髪形を変えたときに気づかないとむくれてしまうのだ。そのため、女性の変化には敏感になっていた。
静は、どこか落ちつかなげに、視線をさまよわせた後、光の足元を見て口を開いた。
「私も、びっくりしたわ。足、悪いの?」
光は首肯した。以前、事故で足を負傷して以来、遠出をするときはいつも杖をついて歩いている。
「ああ、以前事故に遭ってね。それより、これからどうするんだ」
「あ、ああ、あの、この近くの喫茶店で待ち合わせしているの」
静に導かれながら、光は目的の喫茶店に向かった。
午前十一時を過ぎたころ。暇を持て余していた空は、実家である本屋の前で掃き掃除をしていた。近くにある惣菜屋からとても、いい匂いがこちらに漂ってくる。遠く、魚屋の大将の客引きの声や、小さな子供の鳴き声も聞こえる。自転車が、ベルを鳴らして、空の横を通り過ぎた。
いつも通りの、商店街の風景だ。
あらかた、掃き終えて店内に戻ろうとしたときである。空はどこからか名前を呼ばれた気がして、そちらに顔を向けた。
「いーたー。高橋ー」
そう声を上げたのは、少女だった。まだ結構な距離があるが、その声は商店街中に響き渡るような大声であった。
何事かと、店に前にいた客や、あちらこちらの店から店員が顔をのぞかせる。
「あ、朝倉?」
ようやく顔を認識した空の前に、ものすごい勢いで到着した朝倉は、空の首を絞めるかのごとく襟首を掴んだ。
「ちょっと、どういうことなのよ! あの女誰!」
口調に合わせるように、襟首を掴んだ腕を動かすので、空の体は前後に大きく揺れる。
「ちょ、ちょ、朝倉。離せよ」
空は、堪らず朝倉の手を無理やり外させた。
「おまえ、なんだよ。いきなり」
睨みつけるように、朝倉を見ると、朝倉は怒りの形相を空に向けた。
「だから、あの女誰よ!」
「知らねーよ。女って誰だよ!」
大声に大声で返す空。
「それは、だって。うぅ」
走ってきた勢いはどこへやら。朝倉は顔を歪ませた。
それに、慌てたのは空だ。片足を一歩引いて、朝倉の前に手をかざす。
「な、泣くなよ。頼むから」
気づくと、いつの間にか、自分たちは注目の的だった。人垣ができつつある。様子を見に来たらしい、酒屋の店主と八百屋の店主から、ヤジが飛ぶ。
「おうおう、修羅場だな。空ちゃん」
「やるねー。空。いよっ、色男」
「やめろっつーの。オッチャンたち、面白がってんじゃねーよ」
そのヤジに怒鳴った空に、穏やかな声がかかる。
「空、店の前じゃなんだから、上がってもらいなさい」
声の方を見ると、声と同じ穏やかな表情の父がいた。
「ちょっとは落ち着いたかよ」
自室のドアを開けると、中にいた朝倉に声をかけた。空の手には母に渡された麦茶入りのコップが握られている。
「コレが、落ち着けるわけないでしょ!」
ものすごい剣幕で怒鳴られた。大変不本意である。小さな四足テーブルに麦茶の入ったコップを置く。それを朝倉は一気に飲み干した。その様子を、テーブルに肘をついて見ていた空は、朝倉に声をかける。
「つーか。何で俺が怒鳴られなきゃなんないわけ」
その言葉に、朝倉は虚をつかれた顔をした。
「何その顔」
一応突っ込んでおく。
「あー。ごめん。ちょっと動転しちゃって」
浅倉は落ち込む様に肩を落とす。
「んで、何。女って」
「そう、女なのよ。春名君が待ち合わせで女だったのよ」
言いきった朝倉に、空は変な顔をする。
「はあ?」
「違った。春名君の待ち合わせしてた子が女の子だったの。それも清楚系の。誰あの女。春名君のなんなの? 彼女? 冗談じゃないわ!」
思い切り机を叩く朝倉。手も痛いだろうに、その痛みを感じなくなるほど腹を立てているということか。
「え? 光が女と待ち合わせ?」
昨日言っていた暇ではないという言葉が思い起こされる。彼女とデートがあるから暇ではないと、そう言う意味だったのだろうか。何かムカつく。
「俺、あいつに彼女いたなんて初耳なんだけど」
剥れた様な空に、朝倉は眉を寄せた。
「何それ。高橋は春名君と仲良いくせに知らないの?」
「別に、何でもかんでも知ってるわけじゃねーよ。あいつ、何考えてっか分かんねーとこあるし」
昨日だってせっかく海と仲直りしろと勧めたのに、ヘンな理屈をこねて相手にしなかった。
「高橋も知らないのかー。もう、最低。春名君は私のものなのにー。春名君ー」
「いや、光は朝倉のモノでは絶対ないから」
突っ込みを入れたとき、空は朝倉の鞄から音が漏れていることに気付いた。
「おい、朝倉。ケータイ鳴ってねぇ?」
朝倉はその言葉に、鞄に目を向けた。そして、驚愕したようにカバンをひっつかんで携帯電話を取り出す。
「やばい、友達と待ち合わせしてたんだった。ごめん高橋、行くわ」
言いながら、朝倉は部屋を飛び出した。
「嵐のような奴だな」
半ば呆然と空は朝倉を見送った。