第十章 光はその日
駅前の繁華街を抜けると、急に寂しい住宅街になる。ビルや店のあかりで明るかった路地は、住宅街へ入ると暗さが一気に増した。等間隔に並んだ街灯の数が不十分なのだと、彼女は思う。
送ると言っていた男に、頷けばよかったと少し後悔する。彼氏と別れたばかりで、下心のありそうな男性の申し出を受ける気がしなかったのが、正直なところだ。だが、こうして人通りのない夜道を一人歩いていると、不安になる。その不安を煽るように、背後から足音が聞こえてきた。
驚き、彼女は振り返る。
だが、暗い夜道の向こうに人影はない。
気のせいか。そう思い彼女は、また前を向いて歩きだす。
心持ち、速度を速めて。
だが、その速度に合わせるように、また彼女の背後から足音が聞こえるのだ。
かかとを擦って歩くような足音。
彼女のミュールの音が歩幅に合わせて、大きくそして早くなる。
後の足音もそれに合わせるかのように速度を上げる。
つけられている。
彼女の中で、疑惑が核心に変わった。
振り返るのが怖い。
彼女は、全速力で家へ向かって走った。
いつの間にか、足音は聞こえなくなっていた。
クーラーのきいた自室で、たった今通話を終えた携帯電話を、ベッドの上に放り投げた。
自身の身体もベッドへ投げ出す。すぐに顔を顰めたのは、先ほど放った携帯電話が背中に当たったからだ。寝ころんだまま少し背を上げて、手探りで携帯電話を取る。
さて、どうしようか。
そう思って、光は携帯電話を顔の上に掲げた。逆光で影に隠れた携帯電話をただ見つめる。
不意に、咳が襲ってきた。慌てて携帯電話を握った手の甲を口元にあてる。
苦しい。咳が止まらない。
光はパニックになりそうな思考を抑えて、咳を繰り返しながら、注意深くゆっくりと、荒い呼吸を抑えるように息を吐く。
大丈夫だ。これくらい。大丈夫。
自分に言い聞かせながら、深呼吸を繰り返した。それでも合間に、咳が漏れる。
幸い軽い発作だったらしく、しばらくすると咳は治まった。薬を使うほどでもなかったようだ。
楽になってきた呼吸を整えるように、息を大きく吐き出す。
まったく、こんなことで発作を起こすなんて。
しばらく、喘息の発作はでなかったので、油断していた。
光が喘息の発作を起こすのは、心因的要因が大きいと医者に言われている。
今、考えうる心因的要因と言えば……。
海のことか。
そう、結論付けて、光は苦い顔をする。
いつものことじゃないか。嫌われるのは。
そう、いつものことだったはずだ。いつもの。
そこまで考えたとき、ずっと握ったままだった携帯電話が、バイブレーションとともに音をたてた。
半身を起こすと、相手を確かめずに、光は通話ボタンを押した。
「もしもし……」
『あの、春名くん?』
聞き覚えのある声に、思い当たった顔を脳裏に浮かべる。
「ああ、伊藤さん。どうかした?」
我ながら、ひどい声だ。掠れたような低い声。さっきまで発作を起こしていたのだから仕方ないが。
『あ、ごめん。寝てた? 今、話しても大丈夫かしら』
掠れ声を寝ていたせいだと誤解したのだろう。静の言葉に光は苦笑いを浮かべた。
「いや、大丈夫だよ。何?」
問いかけると、静は話し始めた。今日、メールの来ている友人たちと集まったこと。その時、メールが来たこと。空から聞いたこととほぼ同じ内容だった。
『春名君はどう思う? 誰が、私たちにメールを送ってきてるか、分かるかしら』
「分からないな」
間髪入れずに答える。静からそれに対する返答はなかった。
「でも、可能性のある人物なら数人いる」
『なら、聞かせて』
静の挑戦的とも取れる口調に、どこか違和感を覚えたが、光はそんなことはおくびにも出さずに口を開いた。
「それだけ君たちのことに詳しいなら、人数は限られる。君たちのまわりにいた人物、もしくは君たちの中の誰か」
そこで、光は一度息をついた。そして、沈黙を守っている静に届くように続ける。
「もしくは、君自信か……」
光の耳に、静の笑い声が響く。驚いて、光は少し携帯電話を耳から遠ざけた。
『ごめんなさい。あんまりはっきり言うからおかしくなっちゃって』
笑われるとは思わなかった。笑い続ける静に、光は憮然とした表情を作り、携帯電話をまた耳にあてた。
『ねえ、他には? 他にはいないの?』
笑いを押さえた静に問われ、光は一度顎に手をあててから口を開く。
「そうだな。あとは、亡くなった彼女の家族の誰かかな」
『うん、実は私もその可能性が一番高いと思ってたの』
「どうして」
興味を引かれて尋ねると、静はどこか嬉しそうに先を続ける。
『だって、最初に来たメール。あれ、エリのケータイのアドレスと同じものだったって、ユカが言ってたから。それが本当なら、エリのケータイを持ってる人物は、家族くらいしか思い浮かばなくて』
確かにそうだ。一番、亡くなった少女の携帯電話を手に入れやすい環境にあるのは、その少女の家族だ。静や、他の関係者では難しい。
「明後日、空たちがその亡くなった子の実家に行くらしい」
『空って、ああ、高橋君ね。仲直りしたの?』
聞かれて、思わず咳きこんだ。これは発作ではない。
「いや、仲直りって。そもそも喧嘩してないし」
『でも、初めて会った日、喧嘩してたでしょう……あ、喧嘩してたのは紫藤君とか』
言い当てた静に、苦い思いを抱きながら、光は溜息をついた。
『早く仲直りした方がいいわよ。で、それより明日なんだけど』
余計なひと言の後に、静が言い淀んだ。何かと思い言葉を待つ。
『明日、時間ないかしら。あの、会ってもらいたくて。ムッコたちに』
ムッコの名は空の口からも聞いている。空には暇じゃないといったが、本当は特に用事はなかった。それに、一度会って話を聞いた方がいいだろう。海は光の危惧したとおり、この件に首を突っ込んでしまったのだから。
もう一度溜息をついて、光は肯定の意を静に伝えた。