9.再び大広間
リーナが会場に足を踏み入れると、先ほどとは違う空気を感じた。
浮き足だった人々の興奮と、ほんの少しの緊張感、そして羨望。
「ーーっ、これは!」
それらの感情が向かう先は広間の中央、そこにはオーケストラが奏でる音楽に合わせて優雅なダンスを披露する一組の男女がいた。
ピンクのドレスをはためかせターンを決める少女は、フォンダンロール・セレネ・ソフィーナ。彼女の腰を支えリードを取るのは、この国の第一王子、エドガーである。大勢の視線を一心に浴びながら、その表情がこわばることは全くない。むしろ口元には微笑を浮かべ、仲睦まじい雰囲気で踊り続けている。ソフィーナが華やかなターンを決めるたび、周囲からはどよめきが上がった。
「こっ、これは一体、何が起こっているのですか...っ!?」
「うん、見ての通り舞踏会やろ。」
困惑した顔で固まるリーナの横で、ユエは冷静なつっこみを入れた。
そう、これは誰が見ても分かる。ただのファーストダンスだ。それ以上でも以下でもない。
次期国王であるエドガーと、その婚約者のソフィーナ。この二人が最初に踊るのは、至極当然の決まりだった。次期王家の人間として、羨望と憧れを集め、その権威を貴族たちに見せつける。王家に繋がりがある有力貴族たちもこの時間は邪魔できない。公爵家として力のあるソフィーナの家はこの夜のために、毎度一人娘を美しく飾り立てるのだ。
「いやぁ、何度見てもフォンダンロールのお嬢さんは美しいな。」
「おまけに抜群の才女らしいぞ。あの方が王妃なら国も安泰だよ。」
「エドガー様も相変わらず素敵ね。あの瞳に見つめられたらどんなに幸せなことかしら。」
ヒソヒソと囁く声が聞こえてくる。
その内容を片耳で拾いながら、ユエは横で相変わらず固まっている少女に目をやった。
「ど、どうして...。今夜は武闘会のはずでは...。」
「うん、せやから舞踏会やろ?ちゃんとお姫様たちが踊ってるやん。」
「私が思っていたのは!剣と剣、拳と拳で語り合うような武闘会であって、こんな優雅な武闘会ではありません!」
「何その頭ぶっ飛んだパーティ。」
思わず真顔で返してしまった。
レディに対しあるまじき態度だ。ユエは謝ろうとして、なお意気消沈しているリーナに愛想笑いを浮かべた。
「え、えーっとリーナ嬢?この二人が終わればあとは僕たちも参加できるんや。良かったら僕と踊らんか?こう見えてもリードは結構得意やねん。」
「.....。」
だめだ。全く聞こえていない。
というより、どんどん落ち込み具合が深くなっている。見るからにどんよりとしたオーラが出ている。せっかく元気になったばかりだというのに、これではバルコニーに逆戻りだ。どうしたものか、とユエはあたりに視線を巡らせて。
「「ーーーっ!!」」
気づいたのは同時だった。
バッと顔を上げたリーナとユエの目が交錯する。
この場にいるたくさんの人々の想いに紛れ込み、巧妙に隠された、ーーーこれは明確な殺意だ。
背中に走るピリついた緊張感を共有しているのは、おそらくリーナとユエの二人だけ。他の貴族たちは大きな音楽と人々のざわめきで何も気づいていない。壁際に立っている衛兵たちも、特に気づいた様子はない。否、これはよほどの実力者でない限り、認知できないレベルのものだった。
「ユエさん、これって、」
「うん、やっぱりな。」
予想通りや。と焦りつつ、どこか楽しそうなユエの表情。
困惑したままのリーナの耳に、ユエは口元を寄せた。
「実はな、僕がここに来た本当の目的、今夜のパーティでとある国が動くんじゃないかって流れてた情報があってな。その監視兼報告役として来たんや。」
「とある国?一体どういう意味です?」
「詳しくは言えんが、この国の誰かが別の国の誰かに狙われてる。もしくはもっと大きな動きかもしれん。僕にも正確なところは分からん。」
そんな適当なことを、と払いのけたいのに、この本能的に込み上げてくる恐怖は無視できない。ユエの言う「狙われている」人物は、この広間にいる誰かだ。そして犯人も絶対に同じ空間にいる。しかし会場に人が多すぎて、それが誰なのか全く判別がつかない。
リーナはいてもたってもいられず、思わずその場を駆け出した。
「ちょっ、リーナ嬢!下手に動いたら君も危ない!」
「ユエさんは安全な場所に逃げてください!ここは私がなんとかします!」
あっという間に人混みの向こうに見えなくなってしまったユエに、リーナは声を張り上げた。ちゃんと聞こえただろうか。
貴族の合間を走り出したリーナに、当の彼らたちはお構いなしだ。みんなソフィーナと王子に夢中で、視界にも入らないようだった。しかし今リーナが下手に騒げば、犯人を刺激してしまう可能性がある。動くに動けない状況に、リーナは思わず唇を噛んだ。
(どうしてっ、どうしてみんな気づかないのですか...!!)
ーー広間中に満ちた、この強い、どす黒い感情を。
目を周囲に走らせ、殺意が向かっている対象を探す。
ソフィーナがターンを決めたのか、貴族たちがまたわあっと歓声を上げた。
(違うっ、ここじゃない...!)
元来た道を引き返して。
背中を伝う汗は、極度のプレッシャーからくるものだ。18年の人生の中で、リーナは一番焦っていた。
(思い出せ、こういう時は....っ、)
昔父から教わった言葉。
ーーいいか、リーナ?強い意志っていうのはな、案外分かりやすいものなんだ。ちょっと鍛えればその辺の人間でも自分に向けられる殺意は察せる。だからこそ、真のやり手は状況を見極めるのが上手い。自分の強い意志がいかに他の人間のものに紛れるか、その状況を作り出すんだよ。
「そうか、狙いはただの貴族じゃない...。本当の狙いは、」
視界の上で、シャンデリアがキラリと輝いた。
息をつく間もなかった。
「ーっ、ソフィーナっ!!!」
無我夢中で地面を蹴った。
紫の瞳が驚きでいっぱいに見開かれて。必死に伸ばした腕で彼女の体を抱きしめる。
勢いのままに倒れ込みながら、ポカンとしたソフィーナの顔を見つめて。
「やっぱり可愛いな」と場違いないことを思った直後。
背後で、耳をつんざくほどの、大きな衝撃音が鳴り響いた。