8.バルコニー
ソフィーナと別れたリーナは、壁側を目指して移動した。このまま突っ立っていても、他のご令嬢の邪魔になる。会が始まるまでは大人しくしている方が賢明だ。
人の流れを逆流していくと外へと続く小さな扉を見つけた。片手で扉を押し開ければ、甘い薔薇の香りが一気に香る。どうやら庭園へと続くバルコニーのようだ。涼しい外の空気に、リーナは思い切り息を吸い込んだ。少しほてった頬に風が心地よい。リーナは足取り軽くバルコニーの先まで進み、手すりに頬杖をついた。幸運にも周りに人はいない。少しくらいだらしない格好をしても、文句は言われまい。
「きもちいー...」
ふにゃりと気の抜けた声がこぼれた。
考えてみれば、今日は昼間から長距離を移動して、慣れないドレスを身にまとい、今はこうして煌びやかな宮殿に一人。ダンジョンや森への探索に明け暮れる日常とはかけ離れた時間の過ごし方だ。今ごろ兄上たちは何をしているだろう。ちゃんと夕飯を食べれているだろうか。遠くに見える街明かりに、少しだけ寂しい気持ちになる。俯きかけた顔を、グラスを持っていない方の手で小さく叩いた。
「...何を弱気になっているんですか私!まだまだ、本命はこれからですよ!」
武闘会はこの後だ。
慣れない場所とはいえど、言い訳も失敗も許されない。精神を統一し、気分を落ち着かせよう。その一瞬に全力を出せなければ意味がないのだ。
長居しすぎても体が冷えてしまう。
夜の空気をもう一度吸い込み、会場へ戻ろうとドレスの裾を翻した。
ーーと、いつの間にか目の前にひょっこり立つ影が。
ギョッとして足を止めると、その影は陽気に話しかけてきた。
「おやー、別嬪さんがこんな場所に一人かいな。まったく、この国の男たちは見る目がないわぁ。月夜に煌めく銀の髪に、ブルーサファイヤの青い瞳!おまけにその真っ黒なドレス!まるでテラスに降り立った夜の女神さまみたいや。お嬢さん、お名前は?」
「は、はぁ。リーナ・ジュベルハットと申しますが。」
初対面だろうか。いや、初対面のはずだ。
こんな男一度出会っていたら、絶対に忘れない。初めましてとは思えない距離の詰め方に、リーナはやや気圧されながら答えた。
「ほな、リーナ嬢。僕の名前はワン・ユエリャン。ユエって呼んでや。クローア大陸からやって来た、こう見えて一応貴族ですわ。よろしゅうお願いしますな。」
「こ、こちらこそ、よろしくお願いします。」
人好きのする笑みを口元に浮かべ、ユエと名乗る青年は手を差し出してきた。灰色の髪に深い赤色のロングコートが暗闇にも目立つ。首元についた毛皮は、この国では見かけないデザインだ。大陸のものだろうか。
長い前髪のせいで目が見えない。しかし悪い人ではなさそうだった。貴族同士の交流の仕方は分からないが、人脈は広げておくに限る。反射でリーナも手を握り返した。
「大陸からということは、船でいらっしゃったのですか?」
「うん?僕に興味持ってくれるん?...そうやねん!5日前に出発して、どんぶらどんぶら波に揺られてな?道中退屈すぎて死にそうやったわぁ。」
そうまでしてやって来るとは。
ソフィーナ同様、今夜の武闘会はかなりの強者が集まっている。しかも志が高い。競歩で歩いてきたリーナに比べ、わざわざ船に乗ってやって来たユエとでは、大会にかける想いが違いすぎる。家の力も彼の方が明らかに格上だ。名を広めたいなどという野望とは違う、もっと崇高な考えを持って彼はここまで来たのだろう。
目の前の青年が途端に眩しく見え、リーナは思わず俯いた。
「本来ならな、わざわざ海超えて来るほどのパーティじゃないんやけど、僕の目的は別のところにあるんや。...あれ、どないしたん?リーナ嬢。腹でも痛いか?」
「...いえ、違うのです。自分が急に場違いに思えてきて。」
「えええ、そないなことないと思うけどなぁ。」
ひとまず座ろか、と背中を押されるがままに、近くにあったベンチに腰掛ける。ユエはリーナが持っていた飲みかけのグラスをさらりと回収すると、一度室内に戻り、今度は両手に一つずつ新たなグラスを持って帰ってきた。
「ほい。これでも飲んで落ち着きや。といってもただのオレンジジュースやけど。」
「あ、ありがとうございます。」
リーナはそれを両手で受け取る。
一口飲めば爽やかな柑橘の香りが鼻を抜けた。「おいしい」と素直に思った。
座る二人の間を一陣の風が通り抜ける。
室内の人々の声と賑やかな音楽が途切れ途切れに聞こえてくる。早く中に戻らなければと思う気持ち反面、もう少しだけこの場所にいたいという気持ちもあって。上手く言葉にできないまま、リーナはジュースで唇を湿らせた。
「一個聞いてもええか?リーナ嬢はどうして今夜、この舞踏会に来たん?」
「...名を、広めたいと、思ったんです。」
ほお、と隣で意外そうな声。
目元は見えないが、きっと笑われている。こんな小娘一人に一体何ができるのかと。
「幼い頃からずっと一人で戦ってきて、でもそれには限界までがあるって気づきました。...だから国中からたくさんの人が集まる今夜、この場所で、少しでも自分の力を認めてもらいたいって、...そう思ってたんです。」
「.....。」
「でも甘かった。自分より強い人はたくさんいました。クベールさんもソフィーナも、ユエさんも。...いいえ、ほんとはずっと前から頭のどこかで分かっていたのかもしれません。分かっていたけど認めたくなかった。私が弱い人間だってこと。」
クベールの纏うオーラ、実力はリーナよりはるかに格上だった。
ソフィーナの落ち着きや人望も、すぐに身につけられる代物ではない。
ユエの人柄にも、リーナにはない深みがある。
みんな、それぞれの人生の中で着実に積み上げてきたものだ。
剣を振るうしか脳のないリーナには持ち得ないもの。
「...うーん、名を広めるっていう目的なら、もう達成されてると思うよ?」
「へ....?」
ポカンと横を見上げれば、ニヤニヤとした笑みが。
ユエはグラスを空に掲げて、言葉を続けた。
「さっき、大広間で落とされたワインを、すんでのところで掴んだやろ?」
「え、ええ。落とされたというか、落ちてしまったの間違いだと思いますが。」
「あの時な、会場中のほとんどの人間がリーナ嬢に注目してたんやで。」
「ええっ!?」
全く気づかなかった。
殺気なら無意識でも分かるのに、ただ注目を集めただけの視線には全くセンサーが働かない。そんなに目立った行動をしていたとも思えないのに何故。ハテナだらけで困惑するリーナを、ユエはふはっ!と笑った。
「ソフィーナ嬢に目ぇつけられただけでも注目の的やのに、その後のあのグラスキャッチときたら!僕も笑い堪えるのに必死やったもん。」
「そ、それは、申し訳ありません...?」
「謝らんでよ!...だからそんな訳で、あの奇怪な美少女はどこの誰だって中ですっかり話題になってたで。ソフィーナ嬢の後にみんな表だって動けんから、腹の探り合いが起こってたけどな。」
そう言ってユエはまたケラケラと笑った。
どうやら随分と笑い上戸のようだ。それともリーナのせいなのだろうか。
「だからな、僕が思うに君は十分魅力的や。自分が思ってる以上にな。」
「ーーっ、」
唐突な真剣なトーンの言葉に、リーナは目を瞬いた。
前髪の向こうに隠れた瞳は、きっとまっすぐにリーナを見ている。
「...なんて、初めましての僕から言われても響かんかもしれんけど。でも僕は今夜この場所で、君に出会えてよかったと思ってるで。五日も船に揺られて来た甲斐があった。」
「そ、そんなことは。」
ありません、と言おうとしてふと視界に入ったのは黒いドレスの裾。
風にたなびくレースが、きらきらと光を放っている。母の形見の勝負服。
スリットの入った慣れないスカートも、青い薔薇のコサージュも、今はリーナを飾る鎧だ。クベールの助けを借りながら着た時はあんなに胸を張っていられたのに。いつの間に下を向いていたのだろう。
「ーっ!」
「うわぁ!びっくりしたぁ...。」
リーナは勢いよく立ち上がった。
胸に手を当てて深呼吸をする。目を閉じれば母の声が聞こえてくるような気がした。前に進めと。笑っていろと。
(...私は私。大丈夫。きっと母上が見守っててくれる。)
「っ、ありがとうございますユエさん!ちょっとホームシックになっちゃってたみたいです!」
「...うん。もう大丈夫そか?」
笑って振り向けば、ユエも柔らかく微笑み返してくれた。
大きく頷きその場でくるりと回ってみせる。勢いでスカートがふわりと広がって、薔薇の甘い香りが鼻をくすぐった。
「皆さんの強さは私にはないものですから羨ましがったって仕方ありません。私は私が持てる全てで戦おうと思います。」
これがリーナの本心だ。
嘘偽りのない本当の気持ち。
その言葉にユエも立ち上がると、空になったグラスをこちらに傾けてきた。
「ほな、リーナ嬢の心機一転、新たな門出に乾杯!」
「乾杯!」
カチリと涼やかな音が鳴って。
それが始まりの合図だった。大広間のほうからも、雰囲気の変わった盛大な音楽が流れて来る。
「お、やっとこさ舞踏会の始まりか!」
「!?始まったんですか!?急いで行かなければ!遅れを取ってしまいます!!」
駆け足で戻ろうと意気込むリーナ。
その腕を「待て待て」とユエが掴んで引き留めた。手を離せば飛んでいきそうな勢いだ。途端に元気になった少女を前に、ユエは肩をすくめた。
「最初のファーストダンスは、王子とソフィーナ嬢の時間や。僕らが行っても踊れへんで。」
「さっそくソフィーナが戦っているんですか!?しかも王子と!?彼女はそれほどの実力者なんですね!」
「うーん、なんか絶妙に話が噛み合ってない気がするのは気のせいなんかなぁ...?」
言葉の節々でユエが感じていた違和感。
リーナが繰り返していた「戦う」という言葉は、一般的なご令嬢が使うものではない。弱いと嘆いていた先ほどの様子も、パーティ会場でのテンションとしてはあまりに深刻すぎて、思わずガチトーンで返してしまった。結果として元気になってくれたのは良かったが、自分は何か盛大なミスを見逃しているのではなかろうか。今にでも飛び出していきそうなリーナを前に、ユエは漠然とした不安を感じた。
「まあ、ええか...。見るだけならオッケーやから、僕らも広間に戻ろ。」
「敵を知るには十分です!しっかりと目に焼き付けておきます!」
「そ、そう...?」
半ばリーナに引きづられる形になりながら。
二人は大広間へ続く扉に向かった。
作者は関西人ではないので、エセ関西弁です。
これ違うやろ、という本家の方のご指摘お待ちしております。