6.黒猫会議 その2
リーナの後ろ姿を見送った後。
静寂が落ちた室内で、クベールはおもむろに声を上げた。
「ジャスティいるんだろ。出てきていいぞ。」
「...全く!殿下!あなたという方はっ!」
物陰から姿を現したのは、数刻前に見放して置いていったはずの従者。こうしてクベールの呼びかけにはきちんと答えてくれるあたり、彼の能力の高さと懐具合が知れる。気づかれることを危惧してか、声のボリュームは落としつつ、ジャスティは怒り心頭とばかりに声を荒げた。
「突然女性に噛み付くなんて!しかも人間の女性に!なんって破廉恥なことを!わたくし物陰から飛び出しそうになるのを必死に抑えてたんですよぉ!」
「あれは無防備だったあいつが悪い。」
「だからっていきなり噛みつきますかぁ!一国の王子が!」
「俺は猫だ。」
「だまらっしゃいぃ!」
はー、はー、と肩で息をする従者をクベールは気遣わしげに見やった。誰のせいで彼がこんなに疲れているのか、自覚はあるが同情はしない。自分に仕えているこいつが悪い。
カタ、と小さな物音がした。
クベールが立ち上がった弾みに、椅子の位置がずれたのだ。つい先ほどまでリーナが座っていた椅子だった。
それをしばらく見つめた後、クベールは静かに口を開いた。
「やや段取りは狂ったが、計画は手筈通りに行う。いいな?」
「...はい。問題ありません。」
計画、という言葉で部屋の空気が変わるのをジャスティは感じた。
自分の返答に、クベールの瞳が満足げに細められる。先ほどまでこの部屋で少女といちゃこらしていた男とは思えない、冷たく威圧的な空気だった。あの少女が今のクベールを見たら、きっと恐怖で逃げ出してしまうだろう。
「しかしよろしいのですか、殿下。」
「何がだ?」
「計画を実行すれば、先ほどの少女も巻き添えになってしまう可能性があります。...その、僭越ながら、殿下はあの子をかなり気に入ってらっしゃるのかと。」
恐る恐るの進言だ。しかし、それはジャスティの本心だった。
冷酷な主があそこまで特定の誰かに、しかも人間の少女に肩入れするのは珍しい。異性に噛み付くというのも、ガルティアでは一般的な求愛行動だ。現場を目撃した時は確かに取り乱しそうになったが、クベールにもそんな一面があるのかと驚いたのも事実だった。
ーーもしや、クベールの心に何か変化があったのではないか。
そんな従者の一縷の希望は。
「ほう、俺があの人間を気に入っていると?」
「ーーっ!申し訳ありません!」
見る者全てを屈服させ、跪かせるオーラ、空気、視線。
条件反射で跪いた自分の膝が恐怖で震えないように必死に力をいれながら、ジャスティは数秒前の呑気な思考回路を呪った。言葉にせずとも分かる。目の前の主人は今、猛烈に怒っている。口元に浮かべた微笑は全く笑っていない。黄金の瞳の中の暗闇が全てを物語っていた。
「ジャスティ、俺はな、恋愛感情というものがこの世で一番嫌いなんだ。」
「ーーっ、はっ!」
「もし仮に、この俺があの人間にそのような感情を抱いていると気づいたら、怒りと悲しみで首を掻き切ってしまうだろうよ。」
「ーっ、はっ!」
「...だからな、ジャスティ。」
目の前で立ち止まった影に、ジャスティは必死に頭を垂れる。
もうこれ以上、何も愚かな言葉を口にしないように。
しかし、そんな健気な従者の頭をクベールは掴み、無理やり顔を上げさせた。
そうして交錯した主人の瞳は、真っ暗で何も映っていなかった。
「....っ!?」
「俺はお前に誓うよ。目的のためなら俺は手段を選ばない。...あの人間が邪魔をするなら、もし恋に落とさせようものなら、俺はあいつをこの牙で殺す。」
数秒の沈黙の後。
頭を解放されたジャスティはそのままゆっくりと頭を下げた。おでこを床につけ、深々と礼をとる。
「このジャスティ。殿下の意思の固さ、確かに受け取りました。この度の無礼、謹んでお詫び申し上げます。」
「...構わん。さっさと失せろ。」
「はっ。」
そうして再び戻ってきた沈黙に、クベールは小さく息を吐いた。
怒りの感情というのは案外体力を持っていかれる。感情の振れ幅は小さい方なのに、なぜか今回は抑えが効かなかった。どっと疲れた胸のあたりを軽く抑えると、わずかに痛みを感じた。
(.....?)
心不全だろうか。
長旅に疲れが溜まっているのかもしれない。今夜が終わったらさっさと国に帰って十分な休息を取ろう。リーナが使っていた椅子に腰掛け、そのまま大きく伸びをする。音もなく訪れる睡魔の誘いに、クベールは抗うことなく意識を手放した。