1.旅立ち
「では、行ってまいります!!」
リーナ・ジュベルハットは柄にもなく興奮していた。
太陽が頭の真上で照り輝き、木々がサワサワと風に揺れる。鳥の囀りも賑やかに、鼓動が高鳴る。
今日という日のリーナの出立を、皆が祝福してくれているように感じた。
高いヒールのブーツはリーナにとってもはや体の一部だ。ストレッチ性のある細身のズボンと、真っ白なワイシャツに黒のベスト。いつもと変わらぬ出立ちである。腰に刺した細身のフルーレが、光を受けてキラリと輝いた。
艶やかな銀の髪は高めの位置でポニーテールに。こうすれば動きの邪魔にならない。できることなら切ってしまいたかったのだが、それだけはやめてくれと父親に泣きつかれたのが数年前のこと。他の令嬢がやっているような複雑な髪型は性に合わない。このあたりが妥協点だと結論づけたのである。
ここから会場となる王宮までは、競歩で5時間ほどかかる。本来なら馬車で行くのが妥当だが、そんな高級な交通手段はとっくの昔に放棄した。そろそろ出発しなければ夜までに間に合わない。
軽く頭を振って、深呼吸をひとつ。
前開きの玄関ドアを開け、いざ踏み出そうとした一歩は、背後からの声に呼び止められた。
「リーナ。弁当はもう一個持たなくていいのか?」
と一番上の兄上。
「あれ、今日こいつって何しに行くんだっけ?ドラゴン退治?それともゴブリン退治?」
これは二番目の兄上。
「それはこないだ行ってただろ、今日はオーガ討伐だよ。」
一つ下の弟。
みんな言いたい放題だ。
今日はとても大事な日だから静かに送り出してほしいとあれほど伝えておいたのに。
玄関前でギャアギャア騒ぎはじめた男衆を前に、リーナは盛大にため息をついた。
「どれも違います。今日は王宮で武闘会があるんです。招待状が以前届いていたでしょう。」
「ああ、そういえばそんなのあったな。じゃあ弁当はいらないか。」
エプロンで手を拭きながら、一番上の兄上。
「退治じゃないなら賞金は出ないんだよな。仕方ない、今日の夕飯は俺が狩ってこよう。」
手にした剣を磨きながら、二番目の兄上。
「姉貴の代わりだ!オーガスレイヤーに俺はなる!」
古びた鉄仮面をどこからか取り出して被る弟。
言いたいだけ言って満足したのか、男たちはわらわらと室内に戻って行った。
あっという間にあたりは静寂に包まれ、リーナはまたしてもため息をつく。頭が痛いのは気のせいではない。母はリーナが幼い頃に流行り病で死んでしまった。それからは父、兄弟、リーナの5人で暮らしてきたが、やや家庭内が荒んでいるのは否定できない。やはり女性という名の潤いが不足していると感じる。
(...かく言う私も、女性と名乗るには烏滸がましいですからね。)
今の自分の姿を見て、令嬢だと言ってくれる紳士はいない。
男のような出立ちに化粧気のない顔立ち。幼い頃に持っていたドレスは全て売り払ってしまった。それらの衣装はほとんどクローゼットの肥やしになっており、それなら売る方がましだったのである。
もとより祖父の代に王家から賜った男爵位は、ほんのちっぽけな肩書きに過ぎなかった。社交界でその名を轟かせるにはあまりにも脆弱すぎる代物だ。ごく狭い領地で得られる資金は底をつき、今は兄弟みんなでなんとかその日分の命を繋いでいる。貴族に夢を見るのはとうの昔に諦めていた。
(...でも、だからこそ!今日の武闘会でこの名を轟かすことができれば!!)
ーー男爵令嬢レーナ・ジュベルハットとして認めてもらえずとも、一人の戦士として認めてもらえれば。
そうすれば今よりもう少しマシな仕事を探せるはずだ。家族の生活を楽にすることもできる。
招待状は、兄弟ではなく何故かリーナを指名していた。つまり、今日一日のリーナの結果が、ジュベルハット家の未来にかかっている。だからこそ絶対に勝たなければならない。まだ見ぬ強敵たちを想像して鼓動が高鳴る。
背中に柔らかな一陣の風が吹いた。
目を閉じて大きく息を吸い込むと、遥か眼下に見える城を目指しリーナは一歩を踏み出した。
ーーーーと、
「おおーい!ちょっと待てリーナぁ!!」
呑気な声に再度呼び止められて。
大きく踏み締めた一歩もそのままに、リーナは首だけで後ろを振り返った。
「なんですか父上。たった今最高のスタートを切ったところだったのに。」
「おお怖い怖い。そんな顔をするな!せっかく母さん似の美人がそれじゃあ台無しだぞ。」
父、フォルス・ジュベルハットは「あっはっは」と朗らかな笑みを浮かべると、そのまま大きな手のひらでリーナの頭をワシワシと撫でてきた。子供のような扱いにむっとした表情も思わず緩んでしまう。
なんだかんだで父には勝てない。
「どうせお前のことだから、今日もそのくそ地味な格好で行くだろうと思ったが案の定だなぁ。」
「くそ地味とは何ですか。動きやすくていいんですよ。」
「ドラゴン退治ならいいが、流石に今日はそれじゃああかんだろう。ほれ、これを持っていけ。」
差し出されたのは黒いトランク。
両手で受け取ると、艶々とした黒い表面の皮が鈍く光った。
こんなに高そうなものがまだ我が家に残っていたなんて。金目のものはほとんど売り払ったと思っていた。
「...これは?」
「母さんのな、勝負服だ。いつか時が来たらお前に渡せと言われていたんだが、すっかり忘れていたわい。」
あっはっは!と悪びれなく笑う父を横目に、リーナはトランクを見つめた。
こんなものがあったなんて知らなかった。母の遺品と言うことだろうか。正直リーナには母親の記憶はほとんどない。白銀のまっすぐな髪と青空のように澄んだ瞳が、母からの遺伝ということだけ伝え聞いていた。
父の話では、母はとても美しく、強く、聡明な女性だったらしい。
剣舞の踊り子として働いていた店で、客だった父と知り合いそのまま見事ゴールイン。聡明だったのならどうして父と結婚することを選んだのか、甚だ疑問だが、もう彼女に話を聞くことはできない。寂しさを感じる余裕はずっとなかったが、男しかいない家に帰るたび、いつも「自分がしっかりしなければ」という意識に駆られていた。
過去に縋り付いても仕方がない。ただがむしゃらに今を生きるしかない。そんな想いで、いつの間にか自分自身を飾る楽しさなんて忘れてしまっていたのだ。
手にしたトランクはずっしりと重たい。
しかしそれは同時に心温まる重みでもあった。
「城に着いたら適当な部屋を借りてそれに着替えろ。お前の言葉を借りるなら、その服を着た方が相手を「倒せる」ぞ。」
「なんと!服にサイドエフェクトがあるんですか!」
「まあ、大体そんなところだな。」
目を輝かせてトランクを見つめるリーナの横で、父はどこか不満げに口を開いた。
「正直俺としてはなぁ、そのドレスはいささか派手すぎるというか。お前が着るにはまだ早い気もしているのだよ。年頃の女の子がそんな破廉」
「父上、私はもう18です。心配せずとも母上のように立派に着こなして、必ずや相手を倒してまいります。」
「ああうん。まあお前なら大丈夫か。」
遠い目をしながら納得した父上。
なぜだろう、ひどく馬鹿にされた気分だ。
「じゃあ気をつけて行ってこい。ドレスを破いたら天国で母さんきっと怒るだろうからな。」
「ご心配なさらず。このドレスに似合うエレガントな戦いを約束します。」
手にしたトランクをヨイショと肩に持ち上げ、落ちないように片手で支える。
想定外の贈り物に、心がポカポカと温かい。空を見上げるとちょうど雲間から顔を出した太陽が、頭の上で鋭く眩しい光を放っていた。そろそろ出発しないと本当に間に合わない。現地に着いたらこのドレスに着替えるという新たなミッションも生まれたのだ。
「それでは、行ってまいります!」
「おう、行ってらっしゃい。」
緩んでしまう口元もそのままに、レーナは走り出した。
こんなに心躍る幕開けは初めてだ。柄にもなく笑顔になってしまう。母の存在を感じられることが、こんなに嬉しいなんて知らなかった。走るのはみっともないから、せめて競歩にしろと言われたことを思わず忘れてしまうくらいに、彼女の心は弾んでいた。
そうしてレーナは城へと進む。
この先で待ち受ける未来が、彼女の人生を大きく変えることを知らぬまま。