一話 秘密結社堕天使~prolog~
あたし、葛城恵梨香三十五歳。結婚とは縁の無いままこの歳まで来てしまった天涯孤独の独り身の女。
二十代の頃は、人恋しさも独り身の寂しささえ忘れて仕事に没頭していたのだが、三十路を越えたあたりから急に人恋しさを覚えたあたしは、中卒で働き始めて今日まで長らく勤めた会社を退職して、市内の住居付きの空き店舗を借りて小さなショットバーをオープンさせるのだったが、無愛想にシェイカーを振る事しかできないあたしが、店を売り出す術もなく、ほとほと資金繰りに困っていた時だった。
こんな商才の無いあたしを哀れんでか見かねてかはわからないが、横浜国立大学に通う大学生の男の子が一人、あたしの店を手伝ってくれていた。
彼の名は、露木浩行くん。横浜国立大学の商業学科の二回生で、歳はあたしの一廻り違いの二十二歳。そんな若い彼だったけど、彼がオープン当初からほぼ毎日のように、あたしの店に通い続けてくれていた、店第一号にして唯一のお客だった。
そして不思議な事に、彼が大学を中退して正式にあたしの店の従業員として働き始めた頃から、今までからは考えられないくらいに店の経営が軌道に乗り、当初はお客彼一人で閉店していたのが嘘のように連日連夜満員御礼状態になったのだ。
「ヒロくん…今日は遅くまでお疲れ様でした……」
三派くらいの客の波が去り閉店間際の午前二時、懸命に後片付けをする彼の労をねぎらうように、彼の分と自分の分、二杯分のソルティドッグを作りそのうちの一杯を彼に差し出した。
「あざぁす…けど俺は何もしてないっすよ……やっとここいらの人間にもわかったんじゃないっすか?恵梨香さんの作るカクテルが一級品だって事が……」
彼はそういうと、カクテルをさらっと飲み干して笑った。
あたしは彼のこの笑顔が大好きだ。それに彼のこの笑顔に何度救われただろう。もともとそんなにお酒が強い訳じゃないのに、あたしの作るカクテルをどれもこれも美味しいといって、自分が酔いつぶれるまであたしに付き合ってくれていた彼、最初の頃はどんなに酔っていてもあたしの店から道一本奥にある自分のアパートに帰っていた彼だったけど、そんな関係がつづくうち、あたしと彼の距離は一気に縮まり、いつしかあたしと彼はあたしの殺風景なワンルームマンションで同棲生活を始めていた。
「ねぇヒロくん…大学辞めちゃって大丈夫だったの?親子さんとか心配しない?」
彼と同棲生活を始めて、一ヶ月後くらいの昼下がり、この日は店も定休日にしており、のんびりまったりとした休日を二人で過ごす中、あたしはずっと気になっていた彼の生い立ちについて聞いてみた。
「あ…そう言えば俺の事って何も話してなかったっすね……俺も恵梨香さんと一緒で天涯孤独の身の上です……親父が会社の上司に嵌められて巨額の借金抱え込むことになって両親はそのまま自殺……一家離散ってやつっすよ……大学だって借金を苦に自殺した両親の子供って事がわかりゃあ態度を一変させやがる……そんな居心地の悪い大学通ってるよりはこうして恵梨香さんの店で働かせてもらってる方がよっぽど経済学の勉強になるっすよ……」
彼はあたしだったらとてもじゃないけど堪えられないくらいの壮絶な人生を、時折表情を曇らせながらも何時もはにかんだ笑顔で話してくれた。
「ヒロくん…ごめん……もういいよ…そんな辛い過去の事…思い出さなくても……それから…ヒロくんがいいんなら好きなだけここにいて……まだまだ若いヒロくんと一廻りも歳の違うあたしとじゃ釣り合わないかもしんないけど……」
あたしはそういって、自分よりも肩一つ小柄な彼の背中を無我夢中に抱きしめていた。
「……もう…今の俺には行くとこも帰る場所もないっすよ……恵梨香さんさえ迷惑じゃなかったらこのままずっと一緒に居させてくれませんか?」
おそらくこの時は、彼も泣いていたのだろう。抱きしめた彼の背中が小刻みに震えていた。
「迷惑だなんて絶対ない……ヒロくん変に思うかもしれないけど…あたし…年甲斐も無くヒロくんに惚れちゃったみたいなの……願わくば死が二人を別つまで…あたしと一緒に居てほしい……」
この時初めて見た彼の涙、あたしは完全に思考回路と理性の回路がショートしていたのだろ。
あたしは背を向けて泣く彼に、すがりつくように号泣していた。
「そんな泣かないでよ恵梨香さん……俺…今でもはっきりと覚えてるっすよ……夜の山下公園で互いに一つの恋を終わらせてこの店で朝まで呑み明かした時のこと…その時に俺決めてました……親子程歳の違う二人だけどこの人となら…絶対上手くやっていけるって……」
彼はあたしの目を正面から見つめると、そういって号泣するあたしを力いっぱい抱きしめてくれた。
「……もう…ヒロくんのバカぁ……あたしの涙腺大崩壊だよぅ……あたしこそ末永くよろしくね……」
この時のあたしは、全てが可笑しくなっていたんだと思う。親子程も歳の離れた彼に号泣して抱きついたかと思えば、年甲斐も無くウブに照れてみたりと、こんなあたしが彼の目にどう映ったかなんて、今のあたし達には、くだらないあたしの取り越し苦労だった。
そして、店の方も軌道に乗り始めた頃、大手土建業者に金で雇われた地上げ屋が跋扈するようになり、店を訪れる客層も一変して、一般人の姿は減り、反社会勢力と呼ばれる暴力団関係者が圧倒的割合で来店するようになっていた。
しかし彼等は、あたし達この商店街の人間に立ち退きを迫るのではなく、地上げ屋から、この商店街を守ろうとしていてくれているようにも、あたしの目には映るのだった。
そしてその様子に、安堵の表情を浮かべる彼とあたしだったけど、この頃からだったような気がする。この商店街周辺にある噂が流れたのは。
それは、どんな些細な恨みでも、その人に見合った金額で請け負ってくれるという。とある秘密結社が、この横浜の街に根を下ろそうとしているというものだった。
しかし、この頃だったような気がする。彼が夜な夜なあたしには何も言わず、何処かに出かけていき、明け方にひょっこり帰って来るという彼の奇行が目立つようになったのも。
「ねえ…ヒロくん最近いつも何処行ってるの?」
彼の奇行が続いた三日目くらいの夜、全身黒の革の上下に身を包み何処かに出かけようとする彼を呼び止めて聞いてみた。
「……ごめん…恵梨香さん……今は何も話せないんだ……」
彼はあたしの問いかけに、少し困った様相で応えて、宵闇へとその姿を消すのだった。