夏の日
半年前
……あの日は夏の陽気、しかし例年に比べると妙に蒸し暑い日だった。
白い袖の長いシャツに黄土色のベスト、ズボンは馬の革色で膝の丈まで捲しあげられており、ずり落ちないように革製のサスペンダーでつ吊るし上げられている。半年前のあの日、ハリスは両親から久々に畑仕事の手伝いの休みをもらって一人、エピル村から離れた渓流で釣りをしながら休日を楽しんでいた。
糸の先に針を括り付け、そこに川辺で捕獲した巻貝やら虫やらを刺してそれを川の方に向かって出っ張った岸の上から垂らす。後は魚が食いついてきたら思いっきりその糸を引っ張ってやるわけだ。
この場所は外部者のみならず村の人でも滅多に近寄らない場所のためかなり静かだ。長年の浸食によって川の両岸には崖が聳え立ち深い谷を作り出している。そのためか谷では獣は見られず、時折崖の上から水を求めて小鳥が舞い降りて来るくらいだ。
この空間はハリスの幼いころからのお気に入りだ。
人も獣も立ち入らないこの秘境は幻想的でハリスにとっては何もなくてもいつまでいても飽きることのない最高の場所だ。上流は太陽の上る方角、下流は太陽の沈む方角を指しているため常に太陽の日差しが差し込み日中は谷の中でも暗がりとなることはない。
こんな田舎の村などさっさと出ていって街で一旗揚げたいという同年代の幼馴染もいるがハリスにはそんな気はこれっぽっちも生まれなかった。退屈でも幸せは感じられる。それに、少し遠出すればこんなにも美しい場所があるのだから......。
夏の陽気は心地よい風を運び、岸に座って魚を待つハリスを転寝にさそう。その度にハリスは自分の頬を抓って自力で目を覚まさせる。食い逃げなんて絶対にさせない。
「今日はやけに食いつきが悪いなあ……」
普段なら今頃、小さな魚の四五匹は釣れてもよい頃合いである。だが、今日は違ったのだ。しかし、そんなことなど気にも留めずにハリスは糸を垂らしたままにして釣りを続けている。
それにしても今日は異常な暑さだ、さらに場所が場所なのだから湿気て蒸し暑くなるのも当然だ。ハリスは白いシャツをパタパタと揺らして服の中に篭った熱を外へと逃がしていく。なんなら、目の前の河に飛び込んで水浴を楽しみたいくらいだ。
そんなことを考えながら空を見上げると崖同士に挟まれた隙間から真っ青な空と視界の端に太陽が見えた。雲一つない快晴だ。
ハリスはそっと目を閉じると鼻を空に突き出して思いっきり深呼吸をする。
その時だ。
ハリスの顔に影が落ちた。まさに刹那の出来事だった。
目を閉じていたハリスにもその影が自身の頭上を一瞬にして通り抜けたことに気が付いた。
ハリスは慌てて焦るように辺りを見回す。川の上流、下流を交互に見渡すと下流の方を見てあるものがハリスの目を捉えた。
崖の隙間からちらりと見えた黒い影。全貌は見えなかったものの、ハリスは途轍もなく嫌な予感がしたのだ。すぐさま糸を巻き上げてズボンのポケットに仕舞い込むとハリスは一目散に来た道を引き返して走り出した。