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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

カノジョの愛は誰よりも重い

作者: 黒髪

三万文字程度の作品です。スゲェー長いです。

「おいっ!! 佐藤、お前は何度言ったら分かるんだぁ!?」

「来月必ず取り返します」

「お前は毎回口だけなんだよ。本当にやる気あんの? なぁー?」


 気付けば、俺は大人になっていた。

 子供の頃に思い描いた華やかな生活を送る自分ではなく。

 絶対になりたくないと思っていたブラック企業勤めの社畜に。


「あのさー。お前、営業職の意味分かってんの? 客を取るのが仕事だろうが。その癖に、お前は入社してから一度もノルマを達成したことないよな?」


 その後も上司からのネチネチ説教は続いた。

 上司自身も無能な部下を持って苛立っているのだ。


 無理もない。


 大学卒業からこの仕事に就いてもう五年。

 それなのに、俺はまだ書類ミスを連発する始末だ。


「お前さ、真面目に話聞いてんのか?」


 精神的に疲弊するだけなので、はいはいと適当に頷いた。


「今日は絶対に営業を取ってこい。取れないなら帰って来るな!」


 欺くして、俺は本日も飛び込み営業に向かうのであった。


***


「帰ってください」

「あー結構です」

「営業はお断りしてるんです」

「要らないです。もう来ないでください」

「またあなたですか……いい加減にしてください」


 百軒回った。出てきたのは五件のみ。

 全て失敗。

 営業は根気と言うが、果たして本当に上手くいく日が来るのか。


 顔を上げると、もう空は紫色に染まりつつある。

 今日も一日中ずっと頭を下げてたなー。


「はぁー。俺……絶望的に営業向いてないわ。早めに転職しよ」


 溜め息混じりに呟き、俺は近場の古本屋に入った。

 仕事で疲れた心を癒してくれる唯一の場所だ。

 店内を散策し、面白そうな小説を見繕う。

 と言えど、背表紙の値段シールを見て、購入を止めた。


「350円か……た、高い……」


 古本を買うのは100円まで。

 これが俺のルール。

 他の作品を探そうと思い、俺が踵を返すと。


「だぁーれだぁ?」


 後方からの声。

 俺の視界が突然真っ暗になる。

 誰かが俺の目元を手で覆っているのだ。

 仄かに漂う甘い香り。

 背中に当たる柔らかい感触。

 女性だと確信した。新手の美人局か。


「俺と誰かを間違えていると思うぞ」


「そんなはずないと思うけどなぁー」


「俺は平凡以下の人間だ。金なら他を当たれ」


「お金目的じゃないよ。昔の知り合いに出会ったから少しだけ話してみたく」


「昔の知り合いだと? 俺は女の子にモテない。人生の中で一度だけ告白されたこともあったが、もうアレは遥か昔の話だ」


 結局、カノジョと付き合うことはなかったけれど。


 当時の俺には好きな女の子が居たから。


 それでも、今なら思う。カノジョと付き合っていればと。

 そうすれば、もう少しはマシな生活があったのではないかと。


「もうー全然信じてくれないー。それなら私を見たら思い出すかも」


 俺の視界が明るくなった。

 視界を塞ぐことを止めた彼女の手は、俺の肩を叩き、こっちを向けと指図。

 自称昔の知り合いは自信満々だ。果たしてどんな奴だろうか。

 そう思いつつ、後ろを振り返ってみると。


「…………………………」


 ダークスーツに身を包んだ黒髪清楚な美女——俺の初恋相手が居た。

 決して忘れるはずがない、俺が大好きだった彼女が。


 十年前のあの日。


『好きです。俺と付き合って下さい』


 人生初めての告白をした俺に向かって。


『ごめんなさい。佐藤君と付き合う気はありません』


 何の躊躇いも無く返答してきた高音の花が。

 今、俺の目の前に居る。柔らかい笑みを浮かべて。


「久しぶりだね、佐藤一樹(サトウカズキ)くん」


「ひ、久しぶりだな。白川結奈(シラカワユナ)さん」


***


 白川結奈は、俺の青春だ。

 高校時代の俺は彼女に夢中だった。


 高1、高2までは一緒のクラス。

 何度か隣同士になったこともある。


 読書大好きでクラスに馴染めない俺に対しても、いつもニコニコ笑顔で接してくれていた。女の子とまともに喋ったこともない俺の胸は心臓バクバクだったが、白川結奈は俺の気など知らずに顔を近づけてきたっけ。


 本当、冴えない男に無自覚美少女は近寄って来ないで欲しい。

 コイツ本気で俺のこと好きなんじゃねとか思って、告白し、挙げ句の果てには振られる結末になっちまうから。ソースは俺だ。


「というわけで目的は何だ。マルチか? 宗教か? それとも絵画か?」


 古本屋で初恋相手に再会。

 その後一緒に食事を取ることになった。

 近場のファーストフードで済むと思いきや、まさかのフレンチレストラン。会計が心配だが、「どこでもいい」と言ってしまった手前、なけなしの貯金を使うしかあるまい。


 明日からはもやし生活確定だ。


 店内はお洒落なクラシック曲が流れ、社会人感満載な男女がワイン片手に語らっている。くだらん愛でも言い合ってるんだろ。


「食べないの? 折角、頼んだのに」


 ナイフとフォークを手にバクバクと白川は食べている。

 芸術性に富んでいるらしいが、俺としてはしっかりと肉や魚の上にタレをかけて欲しいと思っちまう。わざわざ何もない皿の上にタレをかけて、一体何をしたいんだか。


「ここで食べたら……もう逃げられないんだろ?」

「何か、私怖がられてる?」

「屈強なサングラス男共が現れ、俺は地下労働行きだろ?」

「あっはははは。そんなことないよ。私は美人局じゃないし」

「なら……も、目的は何だ。もしかして、狙いは俺の臓器か!?」


 学生時代の同級生から連絡がある際は、大体胡散臭い話ばかりだ。

 最初に俺の話を真摯に頷きながら聞き入れてから、「人生辛いよな」「もう生きることとか面倒だよな」などと言う全人類の半分以上が抱えてそうな悩みごとを呟き、奴等は面白可笑しい儲け話をするのだ。


『実はね、とっても儲かる話があるんだよ。土地を買わない?』

『とっても寝つきが良くなる布団があるんだけど買わない? これあたしも使ってるんだけど、もう本当に最高なのー。佐藤っちも使ってよー』

『この水、実は火星のなんだ。宇宙の力を感じるだろ。パワーが漲ってくるんだ。お前も欲しいだろー? あ、普通の水と——(割愛)』


「あのさー意地張ってないで食べなよ。ずっとお腹鳴ってるし」


 恥ずかしいことに、腹の虫はどこまでも正直だった。

 美味そうな香りが漂ってくるのだ。我慢できるはずがない。


「ほら、食べるっ!?」


 白川結奈がフォークを向ける。そこにはパセリが刺さっていた。


「私が食べさせてあげるから、ほら口を開けなさい!」

「食べさせるって俺は子供か!」

「ほら、社会人は沢山食べて力を蓄えておかないと!?」

「パセリ食いたくないだけなんじゃねぇーの?」


 図星だったのか、白川結奈の表情が若干引きつった。


「好き嫌いを言ったらダメ。パセリも食べないとダメでしょ」

「ちょ……お、お前……無理矢理俺の口にパセリを入れるな!」


 一度食ってしまうと、余計に腹が減ってしまった。

 ていうか、口の中がパセリ味というのは嫌だった。

 もう覚悟を決めるしかないな。

 欺くして、これが罠だと確信しつつ、俺は次から次へと運ばれてくるフルコースを平らげるのであった。


「流石は男の子だねー。凄い食べっぷりー」

「昨日の朝から何も食ってねぇーからな」

「……き、昨日の朝? ちょっとそれ……どういうこと?」

「節約だ。二日に一回なら食費を抑えられるだろ?」

「ちょっと詳しく教えてくれる? 佐藤くんの生活を」


 白川結奈の目的が何かは知らん。

 だが、金目当てなら、さぞかし俺が金を持ってないことを教えられる。

 これでもう、俺と白川結奈の関係は終わると思っていたのに。


「許しません」

「えっ……?」

「その生活を、私は許しません。絶対に」

「はい……?」

「私が居る限り、佐藤くんには幸せな生活を送ってもらいます」


***


「おい……俺の腕を掴むな。服が伸びるだろうが」

「佐藤くんが逃げようとするから悪いんだよ」

「お前に関わったら、嫌な予感しかしないからな」

「幸せにしてあげようと思ってるのに」


 膨れっ面だ。

 本人としては、良いことをしていると思いたいんだろう。

 言わば、俺は哀れな人間だ。恵みを与えて良い気になりたいのだろう。

 俺だって、誰かに優しくして良い気分になりたいこともある。

 だがな、ありがた迷惑だと言うんだぜ。

 とやかく本人以外が誰かの人生を語るのはうざいだけだ。


「お前さー本当に俺の家まで着いて来たんだな」


 俺たちの前に立ち塞がるのはオートロック。

 ポケットの中に手を入れ、鍵があることを確認。


「それはそうだよ。幸せにするって誓ったから」


 勝手に言われても困るんだが。

 絶対に離しませんと言わんとばかりに、手を握られた。

 それも恋人繋ぎだとか言われる感じの握り方だし。

 まぁー美人と手を繋ぐという状況を考えれば、悪くないが。


「俺は別に幸せにしてくれと頼んだ覚えはないんだが」

「なら、誰かが助けを呼ばないと、佐藤くんは助けてくれないの?」

「さぁーな。生憎、今の俺は自分のことで精一杯なんだよ」


 と、遠い目をしつつ、星が消えた夜空を見上げながら。


「あれ……? UFOじゃないか?」


 猿芝居をしてみると、案外簡単に白川結奈は騙された。

 どこどこと言いながら、頭上を見ている。

 あれだよ、あれと適当な指示をしつつも、俺は彼女との距離を取り、急いで鍵を取り出して、そのままマンション内へと逃げ込んだ。


「はぁー……た、助かった。アイツ、怖すぎる……」


 食事中に聞いた話だが、白川結奈は一流企業に勤めている。

 俺が逆立ちしても、絶対に入ることはできないだろう。

 そんな企業で働いてる女が、ちっぽけな三流企業に勤める俺に優しくするなど、怪しすぎると思うのは当然じゃないか。


 さっきの食事代もクレカでまとめて払ってくれたし、妙に人懐っこいてか、俺に対して馴れ馴れしいし。


 兎に角、気を緩めたら俺の人生は崩壊する。


 このまま家にまで連れ込んでみろ。

 借金の肩代わり。危険な白粉の運搬バイト。

 どんな要求をされるか。考えただけで恐ろしい。

 兎に角、美人との接し方は要注意が必要だ。


「何はともあれ……これでアイツとはもうお別れだ……な……?」


 ウィーンとオートロックが開いた。

 入って来たのは、勿論俺が一番来て欲しくない女だ。

 ヒールのカツカツ音を鳴らし、駆け足で俺の隣まで来た。


「もうー一人で先に行かないでよー。置いていかれるの嫌だよー」

「えっ……? どうして……お、お前、開けられたんだ?」


 焦る俺に対し、白川結奈は口元を僅かに上げながら。


「だって、私。このマンションの住民だもん」


 言う通り、彼女の手元には鍵が握られている。

 このマンションに住む人だけが持てるものだ。


「ねぇーそれよりもUFOはどこに居るのー? ほら、一緒に探そう」


 俺の腕を引っ張って、白川結奈は外に出そうとしてくる。

 けれど、足を踏み留めて、俺は当たり前のことを呟いた。


「居るわけねぇーだろ。そんなもん。嘘だよ、嘘」

「えっ……? し、信じてたのに……う、嘘だったんだ」


 酷い落ち込みようだ。どれだけ信頼されてるんだか。

 学生時代の俺たちは、それほど仲が良かったわけじゃないんだが。


「普通に考えて分かるだろ? UFOなんてありえないってさ。小学生でも分かるぞ。それなのに……お前はどれだけ信じやすいんだか」

「だって……だって……佐藤くんが……言ったんだもん」 


 上目遣いでさ、それも少しだけ涙を流しそうな瞳で見てくるな。

 俺が悪いことをしたみたいじゃないか。てか、嘘を吐いた俺が悪いってのは事実かもしれないけれど。


「悪かったな。騙すような真似をして」


 とりあえず、一つだけ分かったことがある。

 白川結奈は悪い奴じゃなさそうってこと。

 恩売りがましい奴ってのは事実かもしれないが。

 それでも俺みたいな人間の言葉さえ、素直に信じてくれるのだ。


「職業柄、人間の嫌な部分を見て来たからさ……」


 同級生に再会する度に、危ない匂いがプンプンする話を持ちかけられることも多かったし。警戒の目で見ていたのだ。


 彼女は俺に心を開いていたのに。俺は彼女に心を開いてなかった。

 でも、少しだけなら彼女のことを信じても良いかもしれない。

 だってさ、UFOが居るという話を、馬鹿正直に聞いてくれるんだぜ。


「もう絶対に嘘は吐かないでね。絶対だよ、寂しい気持ちになるから」

「約束はできない。だが、善処はするよ」


 俺が返答すると、白川結奈は飛びっきりの笑顔を見せた。

 その笑みが眩しかったので、思わず俺は踵を返し、エレベーターに乗った。また置いていかれると思ったのか、彼女も早足で乗ってきた。


「でも……私も佐藤くんに一つだけ嘘を吐いてるからお互い様かな?」

「ん? 何か言ったか?」

「やっと二人っきりになれたねって言ったんだよ」

「俺を誘ってるんなら止めとけ。ロクでもない男だから」


***


 「今更だが、俺を幸せにするってどういうことだよ」

「言葉通りの意味だよ」

「と言われてもだな……具体的には?」

「佐藤くんが何不自由ない暮らしを与えることかな」


 そこまでする義理は何もないと思うんだが。

 俺はコイツと久々に再会しただけだぞ。それなのに。


「てか、お前さ。本当に俺の家に上がるつもりなのか?」

「当たり前でしょ。佐藤くんの部屋片付けしないといけないから」

「頼んだ覚えはないんだが」

「ボランティア活動です」

「一方的な思い遣りは周りを不幸にさせるだけだぞ」

「困ってる人をそのまま見過ごすのはできません」


 頭上の赤ランプが『4』を指し示し、俺はエレベーターから降りた。

 すると、当然のように、白川結奈もニコニコ笑顔で付いて来た。


「多少はさ、警戒したらどうだ。一応、俺も男なんだぞ」


 と言いながら、403号室へと辿り着き、鍵を取り出した。

 ドアが開き「お前本当に入るのか?」と声を掛けると、白川結奈は口をぽかーんと開けていた。


「佐藤くん……ここに住んでるの? う、嘘でしょ……」

「一体何を言いたいんだ?」

「い、いや……そ、その私、隣人です」

「はい……?」

「だ、だから。私、402号室の住民です!?」


***


 高校時代に恋い焦がれた初恋相手に十年後再会。

 その上、隣同士に住んでいたが、今の今まで気付かなかった。

 こんな話ありえるのか?


「隣の家に住んでたんだ……これって運命かなー?」

「紛らわしい言い方をするな」

「でも、ロマンチックでしょ?」

「部屋の片付けをしている最中でもそう思えるのか?」


 ブラック企業に勤めて朝から晩まで働いていた。

 その影響で、家に帰ってからは飯食って寝るだけの日々。

 そんな生活を続けたせいか、部屋の中はコンビニの弁当箱やカップ麺で散乱していた。掃除しようとは思うものの、毎回途中で挫折してしまう。


「さて、佐藤くん。時計を見てください」


 電波時計を確認すると、とっくの昔に日を跨いでいた。

 というか、飲み食いした後のお片付けってどんなフルコンボだ。


「私達は社会人です。明日の朝には必ず出社しないといけません」


 白川自身も、大人としての自覚が芽生えているらしい。

 もう立派な社会の歯車であり、悪い言い方をすれば社畜だった。


「というわけで、提案があります」


 白川は額の汗を拭いながら。


「一つは掃除をこのまま続けること」


 この調子で行えば終わるのは日の出が見える時間帯だな。


「もう一つは休みの日に延期すること。どちらが良いですか?」


 嫌なことは後回しにする派の俺。勿論答えは後者である。


「分かりました。なら、泊まる準備をしてください」

「泊まる準備……? あのー何を言ってるんですか?」

「この部屋の掃除が終わるまでは、私の部屋に住んでもらいます」

「はい? あのーどんな思考回路でそんな結論が?」

「散らかった部屋に佐藤くんを置いていくのが無理なだけです」


 段ボールの中に捨てられた子猫が入っており、そのまま可哀想だと思って、放って置けないみたいな感じなのかな。何はともあれ、却下だ。


「許しません。今日は、私の家に来てもらいます。拒否権はありません」


 白川結奈の部屋は空っぽだった。生活感が無いと言うべきか。

 普通に生活しているだけで、誰にでも何となく生活感が出るものだ。

 それにも関わらず、部屋の中にはベッドとテーブル、隅の方に段ボールが二箱あるだけで、それ以外は特筆すべき点が全く無かった。

 と言えど、流石は女の子と言うべきか、調理器具の備えはあるらしく、キッチンには圧力鍋やホームベーカリーなどが置いてあった。


「先にお風呂入っていいよ」


 その言葉に甘えてお風呂を拝借した俺が部屋に戻ってくると、白川結奈はパソコンのキーボードをパチパチと鳴らしていた。仕事の資料作りでもしているのか。


「まだ仕事なのか?」

「あはは……大丈夫大丈夫。これぐらいは余裕だよ」

「こんなことを言うと、差別発言になるかもだけどさ」


 そう前置きして、俺は自分の本心を伝えることにした。


「白川ぐらいの美人なら男達も放って置かないと思うんだ。それならさ、さっさと良い男を捕まえて家庭を作った方がいいんじゃないか?」


 白川結奈は誰もが認める美少女だった。そして、美女である。

 実際に彼女が色んな男達に告白されているのを見たことがある。

 別段、誰かの人生に対してとやかく言うことではないと自覚しているのだが、それでも俺は彼女の生き方がイマイチ理解できない。


「なら、私からの質問が一つ。良い男ってどんな人?」

「高収入でイケメンで誰にでも優しくて……ええと、一途に一人だけを想い続ける人のことじゃないのか……わ、分かんねぇーけどさ」

「ふぅーん。それじゃあ、佐藤くんにとっての良い女って誰?」


 その言葉を聞き、真っ先に思い浮かんだのは目の前の女だった。


「顔赤くしてるけど、誰なのかなー? 気になるなぁー」

「べ、別に誰でもいいだろうが。俺はもう寝るからな」

「照れてるー。可愛いね、佐藤くんって」

「う、うるさい!! って……あの俺はどこに寝れば?」

「私のベッド使っていいから。グッスリ寝てよ。おやすみ」

「あぁーおやすみ。白川」


***


『好きです。佐藤一樹くんのことが大好きです』


 高校二年生の頃、生まれて初めての告白を受けた。

 相手は引っ込み思案なクラスメイト。

 名前はもう覚えていない。俺は白川結奈一筋だったし。


『ごめん……お、俺さ……他に好きな人が居るんだ』

『白川結奈さんですか……? あの女が好きなんですか?』

『わ、悪い……お、俺が好きなのは白川結奈だけなんだよ』

『白川さんよりも、あたしの方が絶対に佐藤くんに尽くせますよ』

『いや……尽せるとか尽くせないとかじゃなくてだな……』

『佐藤くんが差し出せと言ったら、あたし何でもするよ。体でもお金でも、求めるものなら全部全部渡せるよ。だからさ、応えてよ』

『無理だって言ってるだろ。俺は白川結奈が好きなんだよ』

『可愛いからですか? あの人が可愛いからですか?』


 それに引き換え、とカノジョは自嘲気味に呟いて。


『あたし……可愛くありませんよね。ブスだもんね……あはは』

『ブスって……そ、そんな言い方はしなくても』

『お前はブスだって、言い切ってください。もう自覚してるんで』


 カノジョは醜かった。

 目は細く。鼻は低く。分厚い唇を持っていた。

 身長はスラリと高いものの、横にも伸びており、見るからにぽっちゃり型だった。

 そんなカノジョは言った。ゆっくりと口を開いて。


『佐藤くん……あ、あたしの気持ちに応えて。好きだって言って』

『無理だ。俺は——』


 断りの言葉を入れた瞬間、カノジョは突然彫刻刀を取り出した。

 美術の時間で使用していたものだ。そんなものを何の為に。


『もうこんな世界……生きる意味ないよ……』


 色白の顔に向かって彫刻刀を突き立てる。


『この顔がいけないんだ。この顔が。こんな顔じゃなければ……あたしも白川結奈みたいに可愛ければ、あの女みたいに美しければ。それなら、あたしだって。あたしだってあたしだって』


——佐藤くんに好きになってもらえる——


 涙を流しながら、カノジョははっきりと呟いた。

 現実を恨んでいるようでもあり、救いを求めているようだった。

 常軌を逸したカノジョの元へと、俺は駆け出していた。

 そして、手に持っていた彫刻刀を叩き落とした。


『認めてくれた……佐藤くんが認めてくれた……佐藤くんが。あたし、生きてていいんだ。あたし……この世界に生きてていいんだ……佐藤くん、認めてくれたもん。あたし、佐藤くんのために生きるね。佐藤くんの為』


 何を言いたいのかさっぱりだったが、自殺は止めてくれたようだ。


『もう二度と馬鹿な真似はするんじゃねぇーぞ。分かったな?』

『うん。もう二度としない。佐藤くんの為に生きるもん』


 告白を受けた後、俺たちは一緒に教室へと戻った。

 で、教室に入る前の廊下で、カノジョは小さな声で呟いた。


『頑張るね。佐藤くんの為に、あたしいっぱい頑張るから』


 カノジョが最後に言い残した言葉はこれだった。

 何と、突然気が狂ったのか、カノジョが授業中に奇声を張り上げて、ハサミを取り出し、白川結奈へと襲いかかったのである。


 ——お前さえ居なければ、あたしは幸せになれたのに——

 ——お前があたしと佐藤くんの幸せを邪魔するんだ——

 ——お前が消えれば、佐藤くんはあたしのものなんだ——


 その後、カノジョは取り押さえられ、警察に連れて行かれた。

 どんな意図があってあんな行動を取っていたのかは知らん。

 何故ならこの事件を切っ掛けに、カノジョは高校を辞めてしまったのだ。精神病棟に居るとか、通信制高校に通ってるとか、噂話は絶えなかったが、正確な情報では無いことだけは分かった。


『わ、私を庇って……佐藤君。ごめんなさい。ごめんなさい』


 だが、カノジョのおかげで、俺は白川結奈に恩を売れた。

 一生を掛けても癒えない傷を作ってしまったが。

 白川結奈へと襲い掛かったハサミを、俺が自分の身を呈して守ったのだ。それから少しずつ彼女は気兼ねなく喋りかけてくるようになったし、何かある度に、俺に優しく接してくれることが多くなった。


『もうぉー。佐藤君ー、ここ間違ってるよ。数学苦手なんだねー』

『あ、佐藤君。先生が呼んでたよ。えっ……日直の仕事があるから行けない? それならここは私に任せて。先に行くんだ!?』

『私と一緒に放課後デートはできないと言うのか!! 佐藤君は!?』

『はい。今日は一緒にクレープを食べに行きます。拒否権はありません』


 時を重ねる度に、俺と白川結奈は仲が良くなった。

 俺と彼女が付き合い始めるのは時間の問題で直ぐに訪れた。


『好きです。俺と付き合ってください。白川結奈さん』

『私も佐藤一樹君のこと大好きだよ。これからもよろしくね』


 一世一代。初めての告白は見事に成功。

 欺くして、俺と彼女は普通の男女の如く付き合い始め。

 そして何の前触れもなく訪れた彼女との別れに涙を流した。


 白川結奈(しらかわゆな)——俺が世界で一番愛した彼女がこの世を去った。

 高校卒業後、一緒の大学に合格し、四月が待ち遠しい春の出来事だ。


『佐藤君。勿論、同棲するよね? 私達恋人同士だし』


 と、彼女が提案し、俺もその計画に賛成していたのに。

 それなのに、彼女は死んだ。

 交友関係が広い彼女は多くの人々を嘆き悲しませて。

 死因は交通事故。突然起きた不慮の事故だった。


***


 激しい動悸で目が覚め、ベッドから飛び起きる。

 視界は真っ暗闇。止まらない息切れ。


「ぁはぁはぁはぁはぁはあぁはかはぁははふぁは」


 落ち着かせようと心臓に手を当て、少しでも呼吸を整える。

 深呼吸を繰り返した結果、大分楽になってきた。

 と、思いきや、隣から声が聞こえてきた。


「どうしたの……? 佐藤くん、苦しそうだけど」


 白川結奈だった。心配そうな瞳で見据えてくる。


「い、いや……何もないよ。怖い夢を見たんだ」

「怖い夢……? どんな夢なの?」

「俺と白川が恋人同士で、でも俺たちは死に別れるんだ」


 理由もなく、俺は泣き出していた。

 ただの夢なのに。本当にどうしてなのか意味分からないけど。


「何を言ってるの? 佐藤くん、私ならここに居るよ」


 母性感溢れる笑みを浮かべて、白川結奈が抱きしめてきた。


「大丈夫だよ。白川結奈はここに居る。私ならここに居るよ」

「あぁーそ、そうだよな……結奈は……ここに居るよな。うん」

「安心していいよ。佐藤くん、私は絶対に一人にしないからさ」


***


 「ねぇー佐藤くん。真剣に掃除してるー?」

「あーしてるけど……寝不足なんだよ」

「私一人でするから寝ておきなよ。昨日も遅かったでしょ?」

「白川一人にさせるわけにはいかないだろ」

「私、一人にさせた方が早く終わると思うんだけどなぁー」


 土曜日。

 白川の宣言通り、本日は俺の部屋掃除になった。

 午前中から働き詰めなので、お昼までには終わりそうだ。


「はぁー。疲れたぁー。やっと終わったなぁー」

「私のおかげだね。私が居なかったらずっと汚かったよ」


 反論したいが、その通りだから何も言い返せない。

 白川が次から次へと的確な指示を出してくれたのだ。

 こっちは私がするから、あっちは佐藤くんがするんだよと。


「あ、そうだ。お昼にしよ。今日はサンドイッチを作ったの!」


 白川結奈は料理上手だ。

 数日間一緒に生活していたわけだが、毎日三食作ってくれた。

 今までコンビニ飯やカップ麺を食ってきたので、手作り感満載な味が俺の胃袋を掴んだと言っても過言ではない。


「ふふふ。もう佐藤くんー。慌てて食べなくてもいいんだよ?」

「白川が美味すぎるものを作るから悪いんだよ」

「も、もう……て、照れるじゃん」

「何か料理が美味くなる秘訣とかあるのか?」

「愛情だよ」


 白川ははっきりと答えた。

 その後、薄らと笑みを浮かべ、心底幸せそうに。


「佐藤くんが美味しいって言ってくれるのを想像して作ってるの」


 長い沈黙。

 時々、白川結奈は大胆な発言を述べてくる。

 まるで、俺に気があるみたいに。


「モテない男をからかうのはやめてくれ」

「本気だよ。私、佐藤くんのこと好きだよ」

「ほら……またからかう……やめてくれ」

「もうぉー。こっちは本気で言ってるのにー」


 唇を尖らせた後。

 あ、そういえばと思い出したように呟いて。


「ねぇー佐藤くん。これってさ、なぁーに?」


 白川が掴んでいるのは透明な瓶。

 その中には白い粉が入っていた。

 掃除中に見つけたと言うが、見覚えが全くない。


「そっか……佐藤くんも知らないんだ。もう捨てていい?」


 ゴミ袋へと入れようとする白い手を、俺は思わず掴んでいた。


「だ、ダメだ!!」

「えっ……? 何か大切なものなの?」

「わ、分からないけど……うん……た、大切だと思う」

「ふぅーん。佐藤くんが言うなら……仕方がないね」


 ポイっと投げ捨てるように、白川は瓶を渡してくれた。


「白川、今までありがとうな。俺は十分幸せになったよ」


 部屋掃除は終わった。

 もうこれで俺と白川の奇妙な関係は終わりを告げる。

 そう思っていたのに。


「何辛気臭いことを言ってるの? これからだよ」

「こ、これから……?」

「うん。まだまだいっぱい幸せにしてあげるね」

「俺は何も返せないと思うが」

「返してくれなくても大丈夫だよ。側に居るだけで十分だから」


 というわけで、と呟いて、日焼け知らずの肌を持つ彼女は言った。


「今からデートに行こうよ。ちなみに拒否権はありません」

「えっ……? い、今から……?」

「うん。そうだよ、社会人は休みの間に遊びまくるだよ」

「はぁー。俺は家でゆっくりと過ごしたいんだが」

「と言いながら、毎日家に籠るタイプでしょ?」


 簡単な身支度を終わらせると。

 玄関前の鏡で容姿を確認していた活発女が不満を漏らしてきた。


「早くー早くー女の子を待たせちゃダメなんだぞ」

「急遽決められたんだが……?」

「人生ってのは何でも唐突に起きるんだよ」


 白川結奈に腕を掴まれ、強引に外へと連れ出された。

 駅前を散策し、気になった場所を見て回るのだと。


「クレープとかどうかなー? 美味しそうじゃない?」


 やれやれと頭を掻く陰気臭い俺と、太陽にも負けない笑顔の彼女。


「今日は一段と元気だな」

「佐藤くんと初めてのデートだからね。とっても嬉しいもん」


 それにね、と付け加えるようにもう一度呟いて。


「佐藤くんと邪魔な女との思い出を全部全部捨てられたんだもん。嬉しくないはずがないでしょ? これからはずっとずっと私が一緒に居るよ」


「思い出……? 邪魔な女……? 白川、どんな意味だ?」

「ん? ごめん、声に出てた? 佐藤くんのこと大好きって意味だよ」


 問い質そうとしたが、完全無視。

 あーあっちのケーキ屋さんも美味しそうだよーとか、佐藤くんが好きそうな中古本屋さんもあるよーとか言われてさ。でも楽しかったし、それでいいや。別に気に留めるほどのことじゃないと思うし。


 欺くして、俺と白川結奈の関係は段々と深まっていった。

 毎日三食愛情が篭ったご飯を食べさせてもらい。

 お互いの休みの日には、デートに出かけたりもした(強制)。

 一見順風満帆な人生を歩んでいると思われるかもしれないが。

 仕事に置いては、俺の無能っぷりがここぞとばかりに発揮された。


「おい、佐藤!? お前は何度言ったら分かるんだ。このバカが!」

「簡単な仕事もできないんじゃ、社会人失格だな」

「お前の代わりなんてな、誰でもできるんだよ。この給料泥棒が」

「学生気分で仕事やってんじゃねぇーよ。さっさと辞めろよ、無能」

「お前さ、いい加減にしろよ。陰気臭いし、うぜぇーんだよ!?」

「さっさと仕事辞めてくれねぇーかな。マジで気持ち悪いだけだし」

「え、てか。どうして仕事来るの? 何も生み出せないのに」


 上司の罵倒は日に日に増していく。

 言い返す気力も勇気もない俺の心は蝕まれていく。

 自分にも向いてないと自覚していたものの、五年間続けた仕事。

 今更転職など無理な話だ。

 そう諦めていた頃、遂に最後の日が訪れた。


「佐藤一樹くん、キミに頼みがある。自主退職して欲しい」


 社長からの呼び出し。

 何だろうかと思い、扉を開いた瞬間にこれだ。

 何か悪いことでもしたのかと思いきや、まさかの反応である。


「これは社員全員の総意だ。是非とも会社を辞めて欲しい」


 言われる通りに辞表を出し、俺は会社を辞めた。

 自分でも向いてない職業だと思っていた。

 元々現実逃避したいからこそ入った業界だった。

 あれ、何から逃げたかったのだろうか。もう思い出せない。

 別に何かをするわけもなく、ただ街をぶらぶらと歩き。

 夕暮れ時になる頃に、帰路へと着いた。


「今日は早かったんだね。おかえりー、佐藤くん」


 見計ったのかのように、白川結奈が玄関から出てきた。

 エプロン姿で、尚且つお玉を握っている。

 何か料理でも作っていたのかもしれない。


「どうしたのー? 元気ないけど……って、ええ。仕事辞めた?」

「俺は無能だから周りに迷惑ばかりかける?」

「どうせ、白川だって……俺のことをバカにしてるんだろって?」

「バカになんてしてないよ、私は本当に佐藤くんの大好きだよ!?」


 白川結奈が抱きしめてきた。物凄く温かく人間味に溢れていた。


「佐藤くんは悪くないよ。全然悪くない。生きてるだけで価値がある」


 だって、私の生きる意味だもんと言い、隣人は腕に力を入れてきた。


「どうせ、白川は口だけで何もできない? そんなことないよ」

「なら、証明してみろって……本当に良いの? 喜んでするけど」

「もう訂正は無しだよ。後から何か言うのは、絶対禁止。約束できる?」


 俺が首を振ろうとしないので、無理矢理コクコクと動かしてきた。

 その後、ニタァと笑みを浮かべ、子供をあやすように俺の頭を撫で。

 終いには——。

 俺はベッドへと押し倒され、身動きが取れなくなっていた。

 お腹の上に跨る下着姿の美女。俺の初恋相手。

 事前準備を怠らないのか、勝負下着らしい黒紫色のブラとショーツに履き替えた妖艶な彼女は一際上気した顔で、少しずつ俺へと迫ってきた。


「頑張ったね。辛かったよね。今からいっぱい癒してあげるね」


 その宣言通り、彼女は極上の楽園へと連れて行ってくれた。


「うふふふ、佐藤くん。いっぱい出しちゃったね。イケナイ子だね」

「多分だけど……これで妊娠確実だと思うよ。生に出したのはマズかったかな? もっともっと二人だけで遊んでからが良かったかなー?」

「でもさ、どうせ……私たちは結ばれる運命だもん。先でも後でも一緒だよね。それに赤ちゃんできたら……佐藤くん、もう逃げられないし」

「愛してるよ、佐藤くん。だから、佐藤くんももっと私を愛して」

「もう佐藤くんは、私が居ないと生きていけないんだからさ」

「一生ずっとずっと二人は一緒だよ、どこまでもどこまでも」


***


「はい、佐藤くん。今日も行ってきますのチュウをしようねー」


 ノリノリな白川結奈にキスをせがまれ、俺は渋々了承する。

 それも仕方ないか。現在の俺は彼女に養われているのだから。


「もうぉー。何を暗い顔をしてるんだ。一緒に頑張ろう!」

「いや……本当にこんな生活でいいのかなって疑問に思ってさ」

「いいんだよ。佐藤くんにはお外は危険だもん。いっぱいいっぱい害虫が居て、佐藤くんをボロボロにしちゃうんだもん」


 だからね、と呟きつつ、俺の肩をガッシリと掴んできて。


「佐藤くんは、私の為だけに生きてくれたらいいんだよ」

「白川の為だけに生きたらいいの……?」

「うん、そうだよ。私がお金を稼いでくる。佐藤くんは、私のおかげで生かされてる。その関係で良いんだよ。ずっとずっと。私と一緒に居よ」


 俺は白川の為に生きたらいいんだ。白川の為だけに。


「良い子にしてないとダメだよ、佐藤くん。私以外の誰かが来ても、絶対にドアを開けたらダメだよ。悪い人ばっかりだからね。分かった?」


 コクリと首を動かすと、白い肌を持つ彼女はニコリと微笑んだ。


「それじゃあ、今日もお仕事頑張ってくるから。寂しくなったら、いつでも電話を掛けてきていいからね。じゃあね、佐藤くん」


 仕事を辞め、白川結奈に養われ始めてから半年が経った。

 養って貰う代わりに、俺は一つの誓約をすることとなった。


『私が佐藤くんを幸せにするから、佐藤くんが私を幸せにしてね』


 俺が差し出せるものなら全てを彼女に明け渡し。

 逆に、彼女も俺に差し出せるものなら全てを渡す。

 これが俺と彼女の約束で、何よりも俺たち二人を結ぶ契約だ。


『今日もしよっか? えっ……拒否権はないよ。佐藤くんには』


 毎週金曜日と土曜日は子作りデー。

 何度も何度も身体を重ねたけど、彼女は赤子を孕まなかった。

 検査機の結果を見る度に小さな声で、涙を流しながら。


『どうしてかな……? 二人は結ばれたはずなのに……どうして?』

『あの女がまた邪魔してるんだ。もう……死んだはずなのに……』


 日に日に苛立ちを増していく白川結奈を見るのは辛かった。

 彼女の笑顔が見たいと思った。どうすれば良いのか。

 俺はひたすらに考えて一つの結論を導き出した。


「俺と結婚しよう」

「えっ……? け、結婚してくれるの? わ、私と……? こんな孕めない私と……? 本当に? 良いの……?」

「もう今の俺に差し出せるものはこれしかないんだ」

「うん、私も結婚したい。佐藤くんと結婚したい」

「婚約届を取りに行かないとな……」


 俺が呟くと、待ってましたとばかりに白川が見せてきた。


「じゃじゃーん。もう実はあるんだー。ずっと私も次のステップに進まないとなぁーって思ってたからさー。あはは、楽しみだねぇー」


 婚姻届に名前を記入すると、彼女はさらっと自分の名前を書いた。

 『白川結奈』とはっきりと丁寧な字で。

 でもその後、直ぐにコーヒーを溢したと言われ、書き直しして欲しいと頼まれてしまったけど。何はともあれ、俺は世界一の幸せ者だった。


 結婚生活が始まり一ヶ月が経過した。

 遂に嬉しいことが起きた。何と最愛の妻が妊娠したのだ。


「待望の赤ちゃんだよ、一樹くん。嬉しいね、私たちの子供だよ」

「あぁ……結奈。ありがとう、俺の子を孕んでくれて」


 俺と白川はお互いに下の名前で呼び合うようになった。

 ただ……結奈と言う度に、何か懐かしさがあるのはどうしてか。


「ううん。感謝なら私の方だよ。あー楽しみだなぁー。早く会いたいよ」


 優しく自分のお腹を撫でる白川結奈に対し、俺は率直な意見を伝えた。


「なぁー。やっぱり家族に報告するべきじゃないかな?」

「意味分からないよ。二人だけで良いじゃん」

「いや……やっぱり子供ができたなら報告ぐらいはさ」

「一樹くんは……家族を選ぶんだね。捨てるんだ、私を」

「いや……捨てるとかじゃなくて」

「なら、もう良いじゃん。私だけをずっとずっと見ててよ」

「実はさ……母親から電話が掛かってきてるんだ。だ、だからさ——」


 言い訳がましいと思ったのか、白川結奈は冷淡な口調で。


「スマホ、貸して」

「えっ……?」

「早く、渡して」


 怖い顔で睨まれたので、手を差し出される。

 スマホをここに置けとの意味らしい。

 渡さないわけにはいかないと直感し、俺は渡すことにした。


「良い子良い子。佐藤くんは全然悪くないよ。悪いのは姑さんだよ」


 俺の頭をよしよしと撫でた後、白川はスマホを床に投げつける。


「えっ……? し、白川……な、何やってんだ?」


 言葉を掛けるも完全無視。

 一度集中すると、結奈は全く言うことを聞いてくれないのだ。


「幸せになるんだ。佐藤くんと一緒に……幸せになるんだ」


 手元にあった木製の椅子を持ち上げ、スマホへと何度も叩きつけた。


「誰にも邪魔させない。ここまで来たんだもん。だから、絶対に」


 私の幸せは誰にも壊させない、と彼女は小さな声で呟いた。

 液晶がバキバキに割れたスマホを手に取り、振り返ってきた。

 まるで、大将の首を討ち取ったかのように無邪気な笑みを浮かべて。


「安心して。私たちの幸せを壊すものは、全部私が消しちゃうから」


***


 「はい。これ、一樹くんの分だよ。いっぱい食べてね」


 今日も今日とて早起きした妻は満面の笑みで弁当を渡してきた。

 定職にも付かず、毎日家でダラダラと過ごす俺の為に。

 俺自身変わらなければならないと思うのだが、彼女は決して許してくれそうにない。何度か、俺も働きたい意思を伝えてみたけれど。


『想ってくれるのは嬉しいけど、変な女が寄り付いちゃうよ』

『えっ……どうしてって決まってるじゃん。世界一カッコいいもん』

『変わらなくていいんだよ。ずっとずっとお家に居ていいんだよ』

『もうね、何もしなくてもいいんだよ。私だけを考えてくれればそれで』

『欲しい物なら全部全部与えてあげる。ねぇー何が欲しいの? 言って』

『……そ、外に出たい? 何言ってるの? 絶対ダメ。私同伴じゃないと、外は出ちゃダメだよ。お外は危険がいっぱいだからねぇー』


 小腹が空いて近くのコンビニに向かったものならば。


『一樹くん、どうして家から出ちゃったの?』

『ふふふ、どうしてバレたかって顔してるね』

『全部バレてるんだよ。私を舐めないでよ』

『ねぇー私のこと嫌いになった? 私のこと……もう嫌い?』

『もっともっと尽くすから。だから何処にも行かないで』

『私、もっともっと頑張るから。頑張るから』


 何処にも行かないとの旨を伝えると。

 最愛の妻は爽やかな笑みを浮かべて。


『一緒にお風呂入ろっか? 汚れ落としてあげるから』

『えっ……もう入ったから大丈夫? 何言ってるの。いっぱいいっぱい臭うよ、薄汚い雌豚共の匂いがね。アルコール消毒しないと取れないよ』

『それとも——煮沸消毒の方が良いのかな? 一樹くんは』


 深く話を聞いた所、コンビニの女性店員が俺を誘惑したのだと。

 全くそんな素振りは無かったと思うんだけど。

 傍から見れば、妻の尻に敷かれる夫だと思われるかもしれない。

 束縛も人一倍、いや数倍単位で大きい。

 でも、ただ彼女は心配性なだけだ。

 俺を想うからこそ、彼女の愛は重くなったのだ。


「もうぉー。どうして月曜日が来るんだろうね」


 二食分の弁当を作り終え、ダークスーツに早着替えした妻は唇を尖らせて不満を漏らしてきた。


「日曜日が続けば……ずっと二人で居られるのにね」


 玄関前へと移動し、鏡の前で容姿をチェックする結奈。

 朝起きたばかりのパジャマ姿も可愛いけれど、大人の女性感が溢れるキャリアウーマンスタイルも悪く無い。

 身長も高く、手足が長いから、妙に様になっているんだよな。


「ごめん……結奈。俺が不甲斐ないばっかりに……」

「引け目を感じても何も良いことないぞぉ!!」

「そ、それでも……お、俺は……」

「一樹くんのお仕事は、私の帰りを待っててくれることで十分だよ」


 もうそろそろ行かないとと呟きつつ、結奈はヒールを履きながら。


「何かあったら連絡してね。いつでも大丈夫だよ」


 俺のスマホを壊した代わりにと、新たなスマホを買って貰った。

 キッズモードを使用しているらしく、基本的機能は全て使用不可。

 主な使用用途は結奈へ連絡する程度だろうか。


「何か欲しくなったら、直ぐ連絡だよ。有給を取っても良いし、お昼休みの時間帯に戻ってこれるから。私の心配はしなくていいからね!!」


 大きく手を振って、元気いっぱいな笑みを浮かべて家を出て行った。

 と言えど、何度も振り返り、俺の顔を確認してくるが。

 心配性なのだ。

 普段も一人で家に残る俺を心配し、何度も振り返ってくる。

 だが、今日という今日は何処か様子がおかしかった。明らかに。


「嫌な予感がする……悪いことが起きそうな気がする」


 一度エレベーターまで乗ったものの、直ぐに戻ってきた。


「今日は家に残る。邪魔な奴が来そうな気がするから」


 不安げな表情で。尚且つ切羽詰まったかのように。


「大丈夫だよ。絶対に家から出ないから。だからさ、安心して」

「分かった……一樹くんがそこまで言うなら……あ、分かった!?」


 眉毛を顰めていたものの、何か思い当たる節があったのか、結奈はポンと両手を叩いて。


「今日、行ってきますのちゅうをしてないんだぁー。偶数日は佐藤くんからだよー。ほらぁー、早く早く。待ち遠しいよ」


 何だよ、それと思いつつも、俺は愛する彼女にキスをした。

 終わった後、うっとりとした瞳で唇を抑えて、まだまだ物足りないよとアヒル口にして言ってきたが、甘やかしは厳禁。何より、仕事の時間だ。

 欺くして、|俺が白川結奈だと信じていたカノジョはスキップ混じりで会社へ出勤するのであった。桜が綺麗に咲き誇る街並みを通って。


 現実を知ったのは。

 いや、違うな。

 忘れたかった記憶(真実)を呼び戻されたのは。

 突然の訪問者が家を訪ねたことだった。


「家に来る時ぐらい連絡しろよ」

「なになにー。お母さんが来たらマズイことでもあるわけ?」


 一応連絡はしたらしいが、繋がらなかったのだと。

 元々持ってたスマホは結奈に壊されたし、連絡手段は無いわな。


「あれー? なんだなんだー。片付いてるじゃんー」


 帰れと言ったものの素直に応じるわけもなく、母親は部屋の中にズカズカと入ってきた。

 息子の部屋チェックと言わんとばかりに、辺りを見回した。

 その後、棚の前で立ち尽くした。

 通帳や鍵などの大切なものを置いている場所だ。

 もしかして母親の奴……俺の金が目当てなんじゃ……?

 と思いきや、眺めているのは全く違うものだった。

 結奈と一緒に片付けをした際に見つかった例の透明な瓶。


「か、母さん……?」


 呼び掛けると神妙そうな表情は早変わり。

 いつも通りのおてんばでおしゃべり大好きな母親に戻った。


「それに女の子の臭いがプンプンするんだけど。遂に新しい彼女でもできたわけー?」

「実はさ、結婚したんだ」

「はぁぁああああ!! どうしてアンタそんな大事な話を——」


 散々怒られた。相談しろとか。結婚式はいつするのかなどなど。


「はぁー心臓が飛び跳ねるかと思った。でもおめでとう。カズキ」


 心底嬉しそうに母親は頬を緩ませた。

 息子の結婚が嬉しいのだろう。まぁー当たり前だけど。

 学生時代から色恋沙汰とは関係ない生活を送ってきたわけだし。


「それでお相手の方はどこに居るの? 名前は何て言うの?」

白川結奈(シラカワユナ)、高校時代の同級生だよ、母さんだって——」


 言葉を止めた。

 先程までの嬉しそうな表情は何処へやら、母親は青ざめていた。

 信じられないものを見るような目でこちらを見据えてくる。

 何が何だか分からないが、俺はとんでもないことを言ったらしい。

 突然、母親は泣き出した。理由は定かではない。

 ただ、俺を哀れんでいるのだけは物凄く伝わってくる。


「カズキ……結奈ちゃんは亡くなったんだよ……」

「はぁ……? な、何を訳分からないことを。今日も結奈は仕事に」


 肩を思い切り掴まれた。力強く。

 泣きじゃくる顔を一切拭うことなく。


「カズキ……正気に戻って。もう居ないんだよ……結奈ちゃんは!?」

「結奈が居ない??」


 強烈な立ち眩み。

 ガンガンと頭に響く痛み。

 思わず、俺はその場でしゃがみ込んでしまう。


「今から丁度十年前かな。カズキと結奈ちゃんが大学生になる前の春休みのことだった。結奈ちゃんは交通事故で——」

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」


 駄々っ子の如く、俺は耳を塞いで言葉を遮断した。

 嘘だと信じているのに。嘘だと分かりきっているのに。

 それなのに。

 俺は耳を塞いで言葉を遮断していた。

 まるで、心の何処かでそれが真実だと知っているかのように。


「違うんだ。俺は結奈と結婚してるんだ。一緒に暮らしてるんだ」


 そうだ。俺と白川結奈は結婚して幸せな生活を送っている。

 さっき結奈を見送ったばかりだぜ。キスもした。感触があった。

 この現実が全て虚構だと言うのか。ありえない。

 全て……俺の幻覚などと言うのか。ありえない。

 絶対にそれだけはありえない。ありえるはずがない。


「それじゃあ、あれは何よ!? この中身が何か答えてみなさい!!」


 叱りつけるように、目尻に涙を溜めたまま、母親は棚をビシッと指差した。

 透明な瓶。中身には白い粉が入っていた代物。

 一体、何なのか分からないけれど、大事な物だと直感できるもの。

 その正体が分からず頭を悩ませる俺に対し、母親は悲惨な現実を突きつけてきた。


「正解はね、結奈ちゃんの遺骨だよ」


***

 「ただいまー。あーお仕事頑張ってきたー」


 いつも通り元気な声を出して、カノジョが帰ってきた。

 ぐだぁーと今にも玄関にも倒れ込みそうな勢いだ。

 ていうか、普通にバタンと倒れやがった。

 チラチラと頭を動かして見てくる。

 どうやら助けに来て欲しいらしいが、俺は動かなかった。


「もうぉー。労いの言葉さえなしですか……」


 床に手を付き、むくりとゾンビみたいに立ち上がった。

 ほっぺたを膨らませ、わざとらしく疲れたーと呟いてきた。

 だが、俺は何も言葉を掛けなかった。


「一樹くん……何か不満でもあるの? 何か私悪いことした?」


 自分の行動を振り返っているのか、目が斜め上向きになる。

 真剣に考えているのか、うーん、うーんと頭を捻らせて唸っている。

 それでも結論が出なかったのか、カノジョはキッチンへと向かい、手洗いうがいを行った。家に帰ると真っ先に行うルーチンである。


 本来ならば、玄関を開けた瞬間に俺に抱きつきたいんだと。

 でも、外で汚いものを触ってきた手では触れられないんだとさ。


 石鹸を泡だてゴシゴシと指と指の間まで洗い切ったカノジョは満面の笑みを浮かべて近寄ってきた。


 迷うことなく、一目散に。

 抱きしめて欲しい一心に。


 だが、真実を知った俺が受け入れるはずがない。


「触るな」


 両手を伸ばして迫ってくるカノジョの手を振り払う。


「えっ……?」


 もう一度両手を広げてくるが、抱きしめるはずがない。

 それから何度も何度も試みてくるが、結果は同じだ。

 バチンバチンと痛そうな音が部屋の中を包み込むのみ。


「どうしてイジワルするの? 私の楽しみを奪うなんて酷いよ」


 拒絶の意を示されるとは思ってもなかったのだろう。

 知らない土地に一人で立ち尽くす人みたいだ。

 と、カノジョは何か異変に気付いたのか、顔色を変えて。


「あれ……変な臭いがする。誰か家に入れたでしょ?」

「母親を入れたよ」

「どうしてそんなことするのッ!?」


 今までに見たことがないほどの怖い顔。

 睨むことは一切ないのだが、何か恐ろしいことを企んでそうな。

 得体の知れない恐怖。

 立ち竦む足を叩き、俺は逃げも隠れもせず、対峙することにした。


「お前は白川結奈じゃない。彼女はもう死んだんだ」

「生きてるよ、ここに居るじゃん。目の前に居るじゃん。抱きついて」


 そう言って、自称白川結奈は笑みを浮かべて腕を伸ばしてきた。

 が、徐々に崩れていく。笑みが。表情が。切羽詰まったかのように。

 自分が養ってきた男が全く動かない事実に対面してしまって。

 まるで愛していたペットが命令に反した行動をしたかのように。


「そっかそっかそっかそっか……全部バレちゃったんだ、あはは」


 はああぁーと深い溜め息。

 数秒間にも数十秒間にも聞こえた。

 それからカノジョは頭を抱えて。


「あはああはあははははははあはははははははあははあははは」


 狂ったかのように笑い始めた。

 耳に残る異様な甲高い声で。

 頭をガシャガシャと掻いて。

 手元にあったティッシュを何枚も何枚も引っ張り出して。

 空を舞う白い紙切れが全て床に落ちると。

 突然、笑いは止まった。何の前触れもなく、唐突に。

 カノジョはゆっくりと立ち上がり、小首をぐにゃりと曲げて。


「だから? 何か問題があるの?」


 そう吐き捨て、俺との距離を一歩進めてきた。

 あたかも何事もなかったかのように。


「はぁ……? お、お前……な、何を言ってるんだよ」


 顔が引きつる。

 指に感覚が殆どない。恐怖から来たものだ。

 肌に突き刺さるような謎の痺れ。

 震えは全く治らず、俺はもうたじたじ状態。


「こっちに来るな……ど、どうして……お前こっちに来てるんだよ」


 それでも、前方に立つ女は歩みを留めるはずがない。


「だって、あたしたち夫婦だもん。離れたらダメでしょ?」


 当然の如く、うふふと不気味に微笑むカノジョ。

 空気がどんよりと重く感じた。

 本能が訴えている。

 この場から逃げ出した方が良いと。


「狭い部屋の中で鬼ごっこでもするつもりなのかなー?」


 一人暮らし専用のワンルーム。

 時間稼ぎの為に、一番距離が取れる壁際にまで走った。

 と言えど、これで問題が解決したわけでない。

 逃げ場は何処にも無い。

 肌が異様に白い女の後方に玄関があるのだ。

 窓を開けて、飛び降りるのか。

 いや、無理だ。ここは四階だ。

 即死を免れても、後遺症が確実に残るだろう。


「お前は一体誰だ? 名前を教えろ、名前を」


 一番の疑問をぶつけてみると。


「白川結奈だよ」


 悪気を一切見せることなく、淡々と答えてきた。

 怒りを示す俺に対し、不思議そうな瞳で見据えてくる。


「違う。お前の本当の名前だ。一体何者なんだよ」

「————」


 俺の意図を掴んだのか、カノジョは本当の名前を教えてくれた。


『好きです。佐藤一樹くんのことが大好きです』


 カノジョ——生まれて初めて告白してくれた女の子。


『お前が消えれば、佐藤くんはあたしのものなんだ』


 そして、何はともあれ、俺と白川結奈が結ばれる機会をくれた人物。


「う、嘘だろ……ど、どうして……お、お前が……」


 数十秒間に及び黙り込み、そして思わず声を漏らしていた。

 目前に居るカノジョと、俺の記憶に蘇るカノジョが全くの別人だから。


「整形したんだよ。一樹くんに認められる為に。頑張ったんだよ!?」


 カノジョは、俺と白川結奈が結ばれることを望んでいたらしい。

 高校を退学する結果になったとしても、自分が大好きな人が幸せになってくれればそれで良いと思っていたそうだ。

 けれど、突如起きた不慮の事故。

 誰も予想が付かなかった白川結奈の死。

 それを機に、次第に壊れていく俺を見て、カノジョは思ったそうだ。


『あたしが……白川結奈になればいいんだ。あたしが幸せにすれば』と。


 元々、勉強だけは優秀だったらしく、現役で旧帝大学に合格。

 大学在学中に水商売を始め、終いにはお金を稼ぐ為に、自らの体さえも売りに出してしまったらしい。


 それもこれも白川結奈へと変わる為に。

 もう俺を悲しませない為に。俺を幸せにする為に。

 たとえ、カノジョの家族から絶縁を申し付けられたとしても。


『お願いします。白川結奈(彼女)みたいな顔にして下さい』


 欺くして、カノジョは整形し、新たな自分(俺の最愛の人)へと生まれ変わったのだ。


『だぁーれだぁ?』


 そして、俺の前に姿を現したのだ。白川結奈を名乗って。

 久々の再会を装って。更には、わざわざ隣の部屋までもを借りて。

 全てが運命だと主張するかの如く。

 全てを計算し尽くした状態でカノジョは俺に会いに来たのだ。


「狂ってるよ……お前は。イカれてるよ……普通そこまでするかよ」

「頭……おかしい? そうかな? 普通の女の子は好きな人が喜んでくれるなら、どんなことでもやってのけると思うんだけどなぁー」

「普通の女の子は成り済ます為に整形なんてしない」

「ただあたしは一樹くんが好きなだけ。一樹くんが笑ってくれるなら」


 この女は加減を知らないのだ。善意だけで動いているのだ。

 心の底から俺が喜んでくれると思って、行動しているのだ。


 それで——と続けるカノジョに向かって、俺は大声で叫んだ。


「俺が喜ぶと思ったか!! 嘘を吐かれ続けてずっと騙されてたんだぞ」


 白川結奈の死を受け止められなかった俺は自分の記憶を改竄した。

 自分の隣には居なくても、最愛の彼女が俺の知らない場所で俺の知らない誰かと共に笑顔溢れる平穏な暮らしをしている世界を夢想していたのだ。彼女が生きていると思い込みたかったのだ。


 だが、その隙を突かれた。


「騙したんじゃないよ。優しい嘘で一樹くんを包み込んだだけだよ」

「普通に会いに来れば良かっただろ……普通に励ましてくれれば」


 俺もカノジョも間違っていた。

 彼女の死を受け入れ、前へと突き進むべきだったのだ。

 そして、カノジョも白川結奈と名乗ることもなく、普通に俺の元へ会いに来れば良かったのだ。それだけで俺とカノジョは幸せになれたかもしれないのに。それなのに——。


「なら、ブスなあたしを愛してくれた? 選んでくれたの? してないよね? あのとき、あたしを拒絶したでしょ? 愛してくれなかったよね? 白川結奈が好きだからと言って断ってきたでしょ? あたしがブスだから、あたしが可愛くないから選んでくれなかったよね?」


 言い淀む。カノジョの言葉は図星だった。全て正しかった。

 当時の醜い顔だったなら、俺はわざわざ食事に付いて行っただろうか、わざわざ自分の部屋まで上げただろうか、何よりもカノジョと一夜を共にすることがあっただろうか。全て無かっただろう。


 暫くの間、長い沈黙が訪れた。

 先に切り出したのは、カノジョだった。

 ごめんね、と軽く謝ってきたのだ。

 それから何か言葉が続くのかと思いきや、今までのことが何も無かったのかのように平然と喋りかけてきた。


「それでさ、今日の夕飯はどうするー? 今週末はさ、一緒に水族館とか行くのはどうかなー? ねぇーねぇーどうする? 一樹くん」


「お、お前……な、何言ってるんだよ。普通……俺たち……」

「騙したと言われても仕方ないことをしたのは事実だけどさ」


 一度言葉を止めて、カノジョはニッコリと笑みを浮かべて。


「私と居て楽しかったでしょ? 幸せだったでしょ? ならそれで良いじゃん。何も迷うことないじゃん」


「お、俺は……き、記憶を取り戻して——」


 俺の言葉は呆気なく遮られてしまった。


「記憶が元に戻ったなら、もう一度記憶を消しちゃえばいいじゃないかなー? あたし、協力するよ。次はさ、もうあたしと一樹くんが最初から付き合ってたように自己暗示掛けようよ。大丈夫だよ、痛くしないから」


「俺は……俺は……白川結奈が好きなんだ……彼女が好きなんだよ」

「もう死んでるじゃん。アイツ、もうこの世界から居ないじゃん」

「そ、それでも……お、俺は……俺は……結奈が……結奈が……」

「良いことを教えてあげるよ。一樹くん」


 そう言って、カノジョは俺の首へと白い腕を掛けてきた。

 もう逃げられないようにと軽めに締めながら。

 尚且つ、端正な顔を俺の耳元まで近付けて。


「死んだ人間はね、生きてる人間を不幸にすることはあっても、幸せにすることはできないんだよ。だって、アイツら何もできないんだからさ」


 小馬鹿にする言い方だった。

 それから俺の顔を覗き込むように見つめてきた後。

 それに引き換え、と小さな声で呟いて。


「あたしなら一樹くんを幸せにできるよ。一樹くんが求めるなら、どんなことだって何でも頑張れちゃう可愛いお嫁さんだよ」


 目と目が合う。濁り切っていた。下水みたいだ。

 だが、カノジョは表情だけで笑みを作った。

 瞳は全く笑ってない青白い顔を近付け、そのまま無理矢理キスをしてきた。


「もう忘れちゃおう。あの女のことなんて。もうあたしに乗り換えてよ。

一樹くんが苦しむ姿は……も、もう見たくないんだよ。あたしが幸せにするから。あたしが一生掛けて面倒を見るから」


 だからさ、と呟き、カノジョは星空が消えた夜空みたいな瞳で縋ってきた。もう救いの手が、俺しか居ないみたいに。


「ねぇー選んで、あたしを。あたしも一樹くんを一人にしない。その代わり、一樹くんもあたしを一人にしないで……あたし、全部全部捨てたんだよ。家族も体も……全部全部捨てた。だからさ、愛して……あたしも愛してあげるから。あの女よりも、あたしの方が絶対に……絶対に……愛してあげるから……だ、だからひ、一人にしないで……お願い。頑張ったあたしを……今まで頑張ってきたあたしを……選んでよ。お願いだからァ」


***


「————は頑張ってるよ。ありがとう、俺みたいな男を愛してくれて」

「もう俺は————を一人にしない。絶対に幸せにしてみせるよ」

「白川結奈に出来なかった分まで、俺は君を愛すよ。例え、偽物でも」


 俺の選択はカノジョだった。

 死んでいる彼女と生きているカノジョ。

 どちらを選べば良いかなど誰にでも分かる話だ。

 今を生きることができるのは、生きている人間だけの特権なのだから。

 死んでいる人間とは、一緒に生き続けることなどできないのだから。


「ごめんな、君の気持ちに気付いてあげられなくて。君を悲しませて」


 ただこれからは——これから先はずっとずっと——どこまでも。


「俺はもう何処にも行かないよ。一生を掛けて、俺は君を愛し続ける」


 言わば、これは償いだ。

 カノジョの人生を狂わせてしまった俺自身に課す代償。

 俺を愛し続ける為に、俺を幸せにする為に、カノジョは自分自身の顔を捨て、家族を捨て、そして処女(初めて)さえも捨ててしまったのだから。

 もう俺に出来ることと言えば、カノジョと共に生きることしかない。


「その代わり、————も俺を愛してくれ」


 続けて、俺は口を開いた。カノジョの肩をガシリと掴んで。


「共に生きてくれ、この理不尽で生き辛いクソッタレな世界で」


 生きるべき人間が死んで。

 死ぬべき人間が生きている、いいかげんな世界で。


「一緒に幸せになろう。もう誰も苦しまないように」


 俺とカノジョが望んだのは、共依存だった。

 俺たち二人は欠陥人間。壊滅的に頭のネジが一本外れている。


 一人は最愛の人の死をきっかけに。

 もう一人は俺を愛しすぎたばっかりに。

 心に深い傷を負った俺と体に深い傷を作ったカノジョ。

 俺たちは支え合わないと生きていけない弱者。


「君は俺が居ないと生きていけない」


 言葉を聞いた後、カノジョはコクリと頷いて。


「一樹くんは誰かが居ないと生きていけない」


 ごもっともな意見だ。

 別段、俺はカノジョじゃなくても良いのだ。

 でもカノジョの愛を受け止めるのは俺の役目だと思っている。

 茨道を歩ませたのは俺の全責任なのだから。

 というか、俺みたいなダメ人間の面倒を見てくれるのは。

 カノジョしか居ないだろう。この世界の何処を探したとしても。

 ある意味消去法的な選択だけれど。それでも——。


「俺は君を愛し続けるよ、この命が息絶えるまで」

「あたしも愛し続けるよ。例え、本物じゃないとしても」


 欺くして、俺たち、社会不適合者は契約を交わした。

 お互いが傷付かないように。お互いが生きられるように。

 二人で共に幸せな人生を歩む為に。

 本物を失くし絶望した俺と本物に憧れ成り変わったカノジョは、弱者がお互いの傷を舐め合うように、自分たちの闇を共有し、互いが互いを支え合う道を選択したのであった。


佐藤一樹(サトウカズキ)は決して————を傷付けません。息絶えるその日まで一生守り続け、愛し続けることを認めます(血の拇印)』

『————は決して佐藤一樹を一人にしません。例え、本物じゃなくても、偽物として、佐藤一樹を誰よりも愛し、そして一生をかけて幸せにすることを誓います(血の拇印)』


※もしも契約に違反した場合、


***


 週末、俺とカノジョは白川結奈の墓参りに向かった。

 久々に戻ってきた地元は相変わらずの自然豊かで、現在住んでいる高いビルが立ち並ぶ都会とは大違いであった。

 わざわざ帰ってきたのには、理由がある。

 白川結奈にお別れを告げに来たのだ。もう二度と来ないと思うから。

 何よりも、愛し続けた彼女に最後の一言を掛けるべきかと思って。

 周りの墓が落ち葉やゴミで散乱している中、『白川家』と書かれているものだけは、タイルが擦れるほどに清掃されており、日頃から彼女を思う人たちが足繁く通っているのが一目見て分かった。

 それでも、大量に添えられた花々は既に枯れ落ちていた。

 原型だけは留めているものの、綺麗とはお世辞にも言えないほどのボロボロな姿。


「そろそろ腕を離してくれてもいいんじゃないか?」


 俺の隣に寄り添う愛する妻に訊ねてみる。

 だが、瞳を鋭くさせ、少しだけ怒ったように言い返された。


「ダメだよ。一樹くんが言ったんだよ。腕を掴んでてって」

「まぁーその通りだが……もう逃げ出さずに到着したわけだし」


 白川結奈の墓参りへは幾度も訪れようとしていたが、行く当日になって急遽予定を変更し、今の今まで行くことはなかった。

 彼女を思う気持ちがあるのならもっと早めに来るべきだったかもしれない。

 だが、俺は強い人間ではない。

 彼女の死を受け入れられなかったのだ。

 十年間以上も。一途に想い続けたと言えば、多少は格好が付くかも知れないが、傍から見ればただ重い人間だと思われていたかもしれない。


「安心しろ。俺が好きなのは————だけだよ」

「むふふふ……元カノの墓の前で言うなんて酷い男だね」

「元々、今日は別れを告げに来たんだからな」


 正直、辛い選択だった。

 俺にとって、彼女の墓場に行くということは、彼女の死を認めることに等しかった。十年前、彼女の死を受け止められず、葬儀にも参加しなかった半端な俺が、この場に来るとは思ってもみなかった。


「ありがとうな、これも全部————のおかげだよ」

「あたしは別に何もしてないよ。ただ、一樹くんの心からあの人の気持ちが綺麗さっぱり消えてしまったらいいなと思っただけだから」


 事前に俺が逃げ出す可能性を考慮し、絶対に逃げ出さないようにとカノジョには手段を頼んでおいたのだ。ここぞとばかりに本領発揮し、スタンガンをバチバチ鳴らされた時は「他の手をお願いします」と断ったが、加減を知らないカノジョらしいやり方に笑みが漏れてしまったけれど。


「一応ほうきとかちりとりとか掃除用道具持って来たのになぁー」


 汚れていると確信し、100円ショップで買い物を済ませて来たのに。

 何だか、一日掛かりでピカピカに磨いてやろうと思ってたのに、拍子抜けしてしまった気分だ。新作ゲームを買ったものの、数時間でクリアしてしまった感覚に近いかもな。


「それだけ、もうこの女と一緒に居なくてもいいわけじゃん」

「もしかして……嫉妬してるのか? 結奈は死んでるんだぞ」

「一樹くんの青春時代を奪った罪は大きいんだもんー」


 ぷくーとほっぺたを膨らませつつも、手慣れた様子で線香に火を付けている。風が強いのか、苦戦中だけれど。


「もうぉー。火遊びも得意な女の子だと一樹くんに教えようと思ったのにー。風のせいで……全然本領発揮できないよぉー」

「火を扱うのは料理だけにしとけ」


 自分に出来ることを考える。目線の先にあったのは枯れた花。

 生花だったらしく、もう干からびており、悲惨な状況になっている。

 俺は買ってきたばかりのホワイトピンク色の花——ネリネを手に取り、枯れてしまった花の代わりに、花立てに突き刺した。

 造花だった。人工的に作られ枯れることは一切無い偽物。

 造花を毛嫌いする人も多くけれど、いつかは壊れてしまう有限な花よりも、いつまでも綺麗に咲き誇る永遠な花の方が、俺には一段と魅力的に見えた。


***


 墓参りは無事終了した。

 太陽の光に負けたのか、カノジョは汗ダラダラ状態でぐったりとしつつも、墓の前で突っ立つ俺を黙って見守ってくれていた。


 最初で最後の墓参り。

 もう二度と訪れることはないだろう。

 別段、カノジョが「アイツの所に行っちゃダメ」と駄駄を捏ねたわけではない。俺自身の覚悟の問題だ。十年前に死んだ元カノを未練がましく想い続け、周りにも迷惑を掛けている自分自身に終止符を打ちたかったのだ。何よりも、心の底から俺を愛して忠誠に従うカノジョへ、俺も本気なのだという証明したいのだ。


 暫くの間、墓前で手を合わせ、目を瞑ったまま無駄に立ち尽くしていた。

 そして、俺は墓標に向かって言葉を吐いた。


「じゃあな、結奈。俺、やっと前へ進めそうだよ」


 水分補給を欠かさない妻へ視線を変える。

 一生を掛けて愛し続けると誓ったカノジョは既に帰る準備を終わらせていた。言葉は出さずにも、表情を見るだけで、その疲労感が伝わってくる。早く帰ろうと訴えかけてくる。


「ごめん……待たせたな。そろそろ帰ろっか?」

「ううん、全然待ってないよ。大丈夫だから」


 彼女と全く同じ顔を持つカノジョに手を引かれる形で、俺は駐車場へと戻ることになった。


 異変は突然起きた。

 涙が溢れ落ち始めたのだ。

 先程までは全く出なかったのに。

 わざわざ帰ろうとする瞬間に出始めるとは。

 止めようと思うのだが、止まらない。


「大丈夫? 一樹くん、あたしが居るから安心して」

「…………ご、ごめん……俺が好きなのは君だけなのに」


 理由は明らかだった。

 車へと戻る途中、脳裏に彼女の姿が思い浮かんできたのだ。

 涙を流せば流すほどに、過去の思い出がフラッシュバックしてきた。


 例えば、放課後の教室にて。

『佐藤君はさぁー、私が居ないと生きていけないでしょー?』

『えっ……どうしてって……逆の立場なら私が無理だと思うから?』


 例えば、大きな花火が打ち上がった夏祭りにて。

『来年も再来年もずっとずっと佐藤君と一緒だったらいいなぁー』

『…………結婚するから、当たり前だろって……ちょっと早すぎじゃない? で、でも……う、嬉しい……かも……』

『ていうか、今のって新手のプロポーズなの? ねぇーねぇー教えて』


 例えば、星空が見たくなって丘の上で観察会を開いたとき。

『ううう……さ、寒いねぇー……えっ? 良いの? 上着着ないと、風邪引いちゃうよ……わ、私が……風邪引く方が困るから良い……? それに元々……俺は体が強いから風邪は引かないって……もうぉー』

『佐藤君が風邪引かれた方が困るんだよ。ほらぁー一緒にマフラー巻こ』


 例えば、女の子が好きな男の子にチョコを渡す日にて。

『佐藤君はさ、モテないでしょー? えっ……もう既に何個か貰った? ちょっとどういうこと? 私という可愛い彼女が居ながら……え? 嫉妬じゃないです。これは彼女としての当然の怒りです』

『貰ったけど……全部返したんだぁー。へぇー、俺には最愛の彼女が居るから貰えないかぁー……ふぅーん、そんなカッコいいことを言ってくれたんだ。なら、ご褒美を上げなくちゃね』

『ほら、食べて良いよ。白川結奈の本命チョコを食べられたのは、佐藤君だけなんだから、少しは感謝しないとダメだぞ。それと彼女をもっともっと愛でてくれてもいいんだぞ……えっ? 美味しい……う、嬉しい』


 彼女と過ごした長いようで短かった思い出。

 一度頭の片隅に捨ててしまった記憶の数々が、俺を襲ってきた。

 まるでダムが崩壊したかのように。

 心の中が癒された。心の中が温かさで充満していた。


「ゆ……結奈……結奈……結奈……結奈……結奈……」


 何度も何度も彼女の名前を呟いた。

 すると、呼応するように、俺の名前を呼ぶ声が。

 正真正銘の本物。白川結奈の声だった。

 何処からと思いきや、声の主は俺の脳内に居た。

 涙を拭う度に、暗い視界の中で、彼女が現れたのだ。

 思い切って目を瞑ると——。


『久しぶりだね、佐藤君』


 妄想だと理解しつつも、彼女に会えただけで十分だった。

 藍と白を基調としたセーラー服。高校時代の学生服だ。

 姿形は十年前と全く同じだ。子供っぽさがあった。


『ごめんね、一人にして。もう何処にも行かないから』

『久々の再会だってのに……もうぉー泣かないでよ』

『あ、そうだ。突然だけど、私のこと一生愛してくれるよね?』


 質問が飛んできた。

 拒否するつもりが、俺の首は勝手に動いていた。

 予想通りの解答だったのか、結奈はクスクスと微笑んできた。


『ありがとう。流石は佐藤君。やっぱり両想いだね、私たち』

『これからもずぅーっとずぅーっと一緒だよ』


 生きている俺と死んでいる彼女。

 もう二度と出会うはずはないと思っていたのに。

 俺たち二人は出会えた。と言えど、俺の妄想で過ぎないが。


『でもね、条件があります。あの人と今すぐ別れて』

『浮気は絶対禁止だって、私と約束したよねー?』

『まぁー今回は特別許してあげる。私が居なくなって佐藤君もとっても辛い思いをしてたことは知ってるから』

『ほらぁ、私の手を取ってよ。もう一人ぼっちにはしないから』


 死んだ彼女に会えるのならば幻覚でもいい。

 そう思っていた時期が確かにあった。

 カノジョに出会う前の俺ならば、誘惑に負けていたはずだ。

 だが、今の俺は違う。


『んぅぅー? カノジョのお腹には赤ちゃんがいる? 俺は父親になるから、その提案には従えない?』

『大丈夫だよ、安心して。赤ちゃん、堕ろしちゃえばいいんだよ』


 嬉々とした声で言い放つ彼女には申し訳ないが、俺は提案を拒絶した。

 断られるとは思ってもみなかったのだろうか、彼女はボサボサと頭を掻き、お次には親指の爪を噛み、そして世界の全てを呪ってますとでも言いたげな瞳でこちらを睨みつけてきた。


 俺が愛した彼女とは似ても似つかない行動と言動。

 所詮はただの妄想だ。

 俺と共に将来を誓い合い、結婚を約束した少女は決して醜くはなかった。新たな生命を放棄しろなどと言うはずがない。そこまで落ちぶれた存在ではない。


『嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき、結婚しようねって約束したじゃん……そ、それなのに……それなのに……どうして? 忘れちゃったの? あれほど愛してくれてたのに……それなのに……どうして?』


 膝から崩れ落ちた彼女は頭を抱えて、髪の毛を毟り取った。

 まるで庭の草毟りみたいに、光沢のある黒髪が引っこ抜かれ、黒一色の世界に散乱した。

 流石は俺の妄想。幻覚である。何でもありだ。


『寂しいよ……かまってよ……私にかまって……一人は嫌だよ……一人は絶対に嫌だよ……髪の毛抜けたよ……佐藤君……私を助けてよ……一人にしないで……寂しいよ寂しいよ寂しいよ……助けて助けて助けてぇ』


 ボロボロと涙を溢れ落とし、救いを求めて手を差し伸べてくる彼女。

 いや、もう彼女では無かった。美しかった結奈の姿は何処にもなく、俺の目の前に居たのは、顔貌がドス黒い人型。


 もっとはっきり言えば、鏡を見たら反射して映る顔。

 そうだ、俺だ。

 厳密に言えば、白川結奈を思い続けると決めた過去の自分。


『過去に縋って生きよう。白川結奈は俺たちの心に生きている』

『もう現実なんて捨てろ。幸せな過去に溺れよう。俺と一緒に』


 白川結奈と過ごした日々は、俺にとって掛け替えのないものだ。

 人生の中で一番楽しい時間だったと胸を張って言えるだろう。

 それでも、今の俺には守り続けたい人が居るのだ。


『アイツは偽物だろ……? 何言ってるんだよ……結奈の紛い物だろうがぁ!? あんな奴、さっさと捨てろ。そして、結奈だけを想い——』


「あぁーそうだな。————は白川結奈じゃない。正直、俺自身もカノジョを本気で愛しているのかと聞かれたら、戸惑ってしまう」


 それでもな、と語りかけるように呟きつつ。


「俺はカノジョに生きて欲しいと願っている」


 俺とカノジョは社会不適合者契約を結んだ。

 この世界で共に生き続ける為に。

 だが、それにはペナルティも存在している。


※もしも契約に違反した場合、佐藤一樹と————は共に心中する。


 俺たち二人は愛し合う為に、お互いの命を賭け合ったのだ。

 常軌を逸した選択と自分でも承知の上だ。

 それでも俺は納得し、カノジョを愛すると誓ったのだ。

 例え、偽物だったとしても。

 何処にでも居る地味少女の人生を狂わせた罰を償う為に。


「悪いが、俺にはカノジョが待っている。じゃあな、過去の俺」


 暗闇世界に一筋の光が射した。

 多分だが、カノジョが俺を呼んでいるのだろう。

 俺はそこへ戻らなくてはならない。

 後方から『イカナイデイカナイデ』と嗚咽を漏らす声が聞こえてくるが、俺は完全無視で白い光の元へと急ぐのであった。


***


 気付けば、車の中に戻ってきていた。

 車内はクーラーをガンガン効かせ、寒いと思うほどだった。

 話を聞く限りでは、俺は突然倒れてしまったのだと。

 軽い熱中症状態だったのかも。水分補給はこまめに取らないとな。


「心配したんだよ……結奈……結奈……って呟いてたから」


 目を覚ました瞬間は、緊迫感溢れる顔をしていたのに、緊張の糸が解けたのか、現在のカノジョは顔をグチャグチャにし、涙をボロボロ流している。情けない男だな、俺は。カノジョを泣かせてしまうなんて。


「過去の俺と対峙してきた。白川結奈が死に、生きることに絶望していた頃の俺にさ」


 夢なのか、それとも俺の幻想なのか。

 どちらにせよ、俺の妄想内で何があったのかを説明した。

 闇世界で出会った白川結奈は、心の奥底に眠る彼女を想い続けた過去の俺が見せた紛い物なのだろう。

 決して彼女を忘れさせない為に俺に訴えかけてきたのだ。


「それで……遺骨はどうするの?」


 カノジョは訝しそうな瞳で覗き込んできた。

 本日の目的は二つある。

 白川結奈の墓参りと、彼女の遺骨を捨てることだった。

 粉末状態なので何処でもいいから捨てれば良かったのだが、如何せん人骨だ。それも最愛の人だったもの。ぞんざいに扱うなど無理な話。


「あー実はさ、結奈との約束を思い出したんだよ」

「約束……?」


 例えば、夜の浜辺へと向かい、海蛍を見たとき。

『もしもさ、私が明日死んだらどうする? えっ……結奈が死んだら自分も死ぬって即決しちゃダメでしょ。ていうか、私は許さないよ、そんなの』

『どうしてって……大好きな人が自分を追いかけて死ぬって嫌じゃん。私はね、佐藤君が長生きしてくれることを願ってるんだよ。私よりも長生きして欲しいんだぁー。だって私よりも先に死んじゃったら、残りの一生ずっと泣いてると思うもん。私、佐藤君が思っている以上に、キミのこと大好きだと思うよ。胸が張り裂けそうなぐらい』

『でも……私が先に死んじゃったら、海に遺骨を投げ込んで欲しい。と言っても、一部だけでいいの。パパやママが許してくれないと思うし。どうしてって……お墓の中って面白くなさそうだもん。ねぇ、お願い!?』


 白川結奈は、面白いか面白くないかで判断する人だった。

 毎度のことながら俺の手を引っ張って、どんな所へでも強引に連れて行かれたな。俺の有無などお構いなし。絶対に楽しいから一緒に行こうと、何処からその自信は溢れてくるのかと思う発言をし、読書大好き人間の俺を、未知の世界へと連れ出してくれた。



「へぇーここが元カノさんとの想い出の場所なんだぁー?」


 墓場から車を走らせて二時間。

 その後、近場の港港からフェリーに乗って、三時間弱。

 俺とカノジョが到着したのは、観光スポットとして有名な離島。

 と言えど、現在は夕刻を過ぎ、もう暗闇一色なのだけど。


「結奈と一番最初に旅行したのはここなんだよ」


『夏と言えば島一択だよね。というわけで、一緒に行くよ』

『日帰りかって……? ざんねーん、外泊だよ。もう予約したし』

『男と女の旅行は危険だと思うんだが……って私たちもう恋人でしょ? 別に問題は何もないと思うんだけどなぁー。逆に何か問題ある?』


 旅行したというか、拉致されたと言うべきかもしれないけれど。

 何はともあれ、彼女と生まれて初めての旅は最高に楽しかった。


「ふぅーん。そうなんだぁー」

「もしかして……何か怒ってる? 嫉妬してるのか?」

「別に何もしてないから。ほらぁ、さっさと終わらせるよ」


 カノジョに腕を引かれる。

 俺自身が言い出したことなのに、カノジョの方が案外乗り気だ。


「うわぁー。何これー?」


 隣を歩く妻が歓喜の声を出す先には、夜の浜辺。

 次から次へと押し寄せる波の音。

 それに応じて揺れ動く青白い光が幻想的に輝いていた。


「海蛍だよ。綺麗だろ?」

「こんなロマンチックな場所を知ってたんだね、一樹くんでも」

「どんな意味だ。結奈が教えてくれたんだよ」


 軽口を叩き合いながらも、目的地へと辿り着いた。

 そこで俺はポケットから透明な瓶を取り出した。

 俺が愛し続けた最愛の彼女——白川結奈の遺骨である。


『佐藤君……結奈の遺骨を貰ってくれないか?』

『娘からの遺言なんだ。君にどうしても持っていて欲しいと』


 結奈の父親から娘の頼みだと言われ、受け取った遺物。

 車に轢かれた後も、結奈の意識はまだ残っていたらしい。

 その間に結奈は俺へ最後の言葉を残してくれたのだとか。

 たった五文字。『アイシテル』だとさ。


「本当にいいの? 後悔しても遅いんだよ」

「あぁー頼む。俺にはもう君が居ればそれだけでいいんだ」

「分かった」


 そう嬉しそうに呟いたカノジョは瓶の蓋を開き、俺の手のひらに白い粉をゆっくりと乗せてきた。重さは殆ど無かった。

 暫くの間、両手を仰向けにした状態で、幾らか時間を待っていた。

 それでも全く結奈の遺骨が離れることはなかった。海近くなので、直ぐに風が起きるだろうと予期していたのだが。俺の予想は大外れみたいだ。


 けれど、その時は唐突に訪れた。俺がカノジョへと余所見した瞬間だ。

 山側から強い風が吹き渡り、そして俺の手のひらを確認すると、あれだけあった白川結奈の遺骨は綺麗さっぱり全て消えていた。


「じゃあな、結奈。ありがとう、俺、これからも頑張るよ」


 肉眼では視認できなかったが、空を一度舞い上がり、遥か遠くの水面下で、十年以上も前に彼女を構成していたものは、海の一部へと成った。


「じゃあ、帰ろうか? 一樹くん」


 欺くして、俺とカノジョは踵を返し、海を後にするのであった。

 隣を歩く最愛の人は邪魔者が消えて嬉しいのだろうか、終時笑顔を絶やすことはなかった。


 今後も俺はカノジョと共にこの世界で生きるよ。

 でも、もしもこの人生を全うできたならば。

 俺はもう一度、白川結奈(キミ)に会うことができるだろうか。


「俺、働くよ。君の為に頑張りたい。頼む、働かせてくれ」

「えっ……? いきなりだね。どうしたの?」

「————だけに苦労させるわけには男が廃るからな」


 そうだ、結奈。ネリネの花言葉って知ってるか?

 答えは——また会う日を楽しみに——


***


 遥か遠い先の話。

 多くの人が行き交う街中に、一人の少女が突っ立っていた。

 街中を歩く誰もが彼女の姿に注目している。


 無理もない話だ。

 彼女は他者を圧倒するような顔貌を持っているのだから。

 日焼けを一度も知らないような白い肌と、光沢のある長い黒髪。

 体付きは出るべき場所はメリハリがしっかりしており、女性が出てきて欲しいと願う部分は完璧なほどに出ていた。

 服装は白いワンピースを着ており、麦わら帽子を被っている。

 誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。


 と、そんな彼女の前を、一人の少年が横切った。

 髪の毛はボサボサで、如何にも読書大好きそうである。

 彼は少女が気になるのか、振り返る。

 だが、突っ立っていた少女はもうその場には居らず、歩き出していた。

 少年は妙な胸騒ぎを感じ、気付けば駆け出していた。

 そして、少女の肩を掴んで、名前も顔も知らない彼女を振り向かせるのであった。


 ——完結——


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― 新着の感想 ―
[良い点] 久しぶりに感動する作品で出会えました。 ありがとうございます!
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