#1 君のいない秋晴れ
登場人物
天野 響 (あまの ひびき) 24 男
神楽坂 ーー (かぐらざか ーー) 17 女
空野 悟 (そらの さとる) 24 男
霜月 楓 (しもつき かえで ) 女
君と音楽を辞めた日
第一章 君のいない秋晴れ
僕はずっと音楽をやってきた。初めて楽器に触れたのは5歳の頃だ。 たまたま母の鍵盤を叩いた際に鳴り響いたAマイナーは、その先の人生をどこまでも、どこまでも縛りつけた。その時のことを僕は未だ鮮明に覚えている。それが人生最初の転機だったからだ。しかし、次に訪れた転機のことを僕はどうしても思い出せなかった。確かにあったはずだった、僕の人生を変えた何か。それがまるで、霧のかかったこの釧路の夜のように、ぼやけて、色を失い、海馬に溶けてしまっていた。
だけど、僕はその忘却をここ数年一度も嘆いたことがない。通っていた音大を中退し、一人で 必死に生活費を稼ぐ日々を送る僕にとって、音楽に関する過去なんてどうでもよかったからだ。
*
「今度、先輩の家に遊びに行ってもいいですか?」
「いいわけがないだろ、俺はまだ逮捕されたくない。」
バイト先の喫茶店のバックルームで、僕は今年17になる少女と話していた。
「えー、どうしてもですか? 先輩、彼女いましたっけ。」
「どうしてもだ。未成年に手なんか出したら、ただでさえ終わりかけてる人生が本当に終わっちまうんでね。あとちなみに彼女はいない。」
それを聞いた少女はブフッと汚い音で笑って、その黒い短髪を揺らしながら言った。
「響さんって、もう今年24ですよね。もっと頑張ったらどうなんですか?」
「バイトなら充分頑張ってるだろ。今シフト週5だぞ。」
それを聞いた少女は、今度は笑わなかった。呆れ果てたような目でこちらを見る。
「冗談言う時はもっと笑ってくださいよ。先輩ちょびっとだけカッコいいのにな。」
「うっせ。んじゃ俺帰るから。締めの作業ちゃんとやっとけよ。」
「はいはい。おつかれさまでーす。」
こうして短髪の少女 —— 神楽坂…名前は知らない…の冷ややかな視線に送り出され、僕 —— 天野 響は店を出た。そうだ、過去に転機があったって、ゲームみたいにデータをロードして、そこからやり直せるわけじゃない。人生は狭く暗い、一方通行の裏路地のようなものだ。
「冗談言う時は笑って...か。」
笑ったつもりだったんだけどな、と誰に話すでもなく呟いた。
9月の釧路は、秋めいた冬だ。平均気温は15度ほどで、夜は12度ほどだが、海水との温度差によって生じた霧のせいか、体感はもっと肌寒い。ぼやけた街頭の灯りに照らされた表通りのゆるやかな傾斜を一気に自転車で駆け下りた響は、なんとなく自分の現状を省みた。
こんなはずじゃなかったんだ。描いた音楽は飛ぶように売れて、雑誌のインタビューでそれっ ぽいことを語って、そして...。
「そして?」
意味のない疑問であることは分かっていたが、それでも響は思った。そして、どうするんだ? 過去の自分は、確かに誰かのために音楽を描いていたはずだった。いたんだ。作った音楽を聴かせる相手が。しかしその記憶は、まるで鉛のカーテンにでも遮られているかのように、輪郭すら浮かぶことはなかった。
暫くして、住んでいるアパートに着いた響は、錆びれた階段をカンカンと登りながら、かつてど うでもいいと断じたはずの〝二度目の転機〟について考えていた。何故思い出せないのか、思い 出せないでいた。そのまま209号室の扉を開け、電気をつけて布団に飛び込むと、その傍の打ち込み用のキーボードが壊れていることだけは思い出して、
「...明日は機材でも買いに行くか。」
気怠さに負けて考えることを辞めた響は、ゆっくりと風呂のお湯を入れるために立ち上がっ た。
*
今日は9月9日。肌寒い昼の釧路を響はひとり歩いていた。パソコンで音楽を作るために必要なキーボードが壊れていたので、新しいものを見に行くのだ。ほどなくして行きつけの機材屋に着いて店内を回っていた響は、なんとなく目に入ってきた中古のキーボードを見た。CASIOのLK- 37...かなり昔の、子供が練習に使うようなものだったが、何故か響は目が離せなかった。
「それ、今ならお安くしときますよ。」
見ると、神楽坂に少し似た茶色い短髪の少女が立っていた。末月…すえつき、だろうか…という名札から、彼女が店員ということがわかる。
「ありがとう。でも、今日はMIDIキーボードを見にきたから。」
その言葉に反して、響はじっとLK-37を見続けた。中古の機材でごった返しているこの店で、なぜこいつだけがこうも気になるのか分からなかったが、とにかく見続け、
「...いくらなの?」
「500円です!」
「やすっ...」
定価は確か二万以上だったはずだぞ。昔の物とはいえこの店は儲ける気がないのだろうか。い やしかし、買ったところで使わないのは目に見えている。どうせすぐゴミになるだけだ。
でも...。
「気になるのであれば是非お買い上げください! 状態は良いはずですので!」
なんだそのヘタクソな売り込みは。というかコイツ、雰囲気が神楽坂に似てるな。生き別れの 姉妹とかじゃないのか? 呆れて息を吐いた響は、変わらず鎮座するLK-37を指差し言った。
「買います。」
後悔していないといえば嘘になった。一週間もすれば粗大ゴミ行きだろう。だが、僕の頭の中 には理屈じゃない何かがあった。運命的なものに導かれて、自分は今日あの店でLK-37に出会ったのだとさえ感じていた。そう感じる原因は、間違いなく〝二度目の転機〟が関係しているという確信もあった。おそるおそるLK-37の電源をつけた僕は、適当に再生する音源を選択して、 ゆっくりとAマイナーのコードを鳴らした。
「霜月 楓...」
気が付けばポツリと、その名前を口に出していた。
口に出しただけで何も思い出していない僕は、即座に自身の頭の辞書でその名前を検索した。誰だ。霜月楓とは一体誰だ。名前からして女だ。誰だ、誰だ、誰なんだ...。
「駄目だ...何も思い出せない。」
まるでひび割れた瓦礫から吹き漏れるからっ風のようにするりと降りてきた、霜月楓というあ まりに小さな記憶の断片。しかし。
「これが〝二度目の転機〟に関係しているなら、高校の同級生にいるはずだ、同じ名前の女が...。」
思わず独り言となって思考が口から漏れる。名前だけでもかなり大きな手がかりだ。僕は慌て て高校の卒業アルバムを棚から引っ張り出すと、震える手で乱雑にページをめくっていく。
「いた...この子だ...。」
それは修学旅行で撮った、クラスの集合写真に写っていた。写真の横に、クラス全員の個別の 顔写真が載っていたため、すぐ見つけることができた。少し茶色がかった長い黒髪が、赤いマフラーによく映えている。綺麗な子だ。楽しそうに笑う彼女の隣には、同じく満面の笑みを浮かべ た自分が写っている。んな馬鹿なことがあるか?
「こんな綺麗な...じゃない、こんな女の子と仲良くなった覚えなんてないぞ...。そうだ、悟なら 何か知ってるかもしれん。悟なら...。」
悟は高校時代の友人だ。金持ちになる、という漠然とした夢しかその時持っていなかったアイツは、いつも『音楽家になる』という僕の夢を羨ましそうに、そして何より楽しそうに聞いてい た。音大に進むと僕が決断した時も、迷わず背中を押してくれた。悟はたしか京都の大学に通っていたはずだ。音大を中退してから、なんだか気がひけて僕は徐々に悟と連絡を取らなくなっていった。そういえばアイツ、元気かな。霜月楓のことは当然気になったが、同じくらい悟の今も気になった。霜月楓への興味を原動力に、鉄のように重い指を彼の電話番号の形に動かした。 途端にスマホから明るい声が響いてくる。
「響か!? おいおい久しぶりだなあ。卒業旅行以来? 元気にやってるか?」
「悟、久しぶりだな。生きてはいるよ、何とか。」
なんだそりゃ、と悟は笑う。僕は続ける。
「...突然こんなこと聞いて悪いんだけどさ、霜月楓って女の子いたよな、3年の同じクラスに さ。覚えてる?」
「...あ、ああ。覚えてるよ。急に何なんだ?」
「あの子って、今何してるの?」
「何って...。」
言い淀む悟。僕は何故か急に緊張して、手の汗を布団で拭った。そして悟から告げられたのは、何より鮮烈な一言だった。
「死んだよ。」
「え?」
「自殺。大学でうまくいかずに、自分の部屋で首吊ったって...。知らなかったのか...。」
「マ、マジか~。ははは、怖いなぁ、人間関係かな?」
「いや、響...お前」
「な、なんだよ。いや、そんな連絡きてなかったから...。」
何故か声が震えた。しかし次の悟の一言は、そんな僕の不安定な心をさらに弾く。
「あんなに楓と仲良かったんだ、辛いだろ。なんかヘラヘラしてると逆に心配になるぞ。」
「なっ...」
間違いない。あの修学旅行の写真で隣だったのは偶然なんかじゃない。僕は彼女...霜月楓と間違いなく友人だったのだ。かつていたはずだった『誰かのための音楽、の誰の部分の人』とはおそらく、霜月楓なのだ。どうして、そんなに大切な存在を忘れてしまったのか。自分が信じられなかった。
「辛かったらいつでも話聞くから、また連絡してこいよ。」
「あ、ああ...ありがとう。」
鉄よりも重くなった指でなんとか電話を切る。布団に入ったまま電話していたはずなのに、興奮していつの間にか立ち上がっていた響は、そのまま壁に寄り掛かって大きくため息をついた。 ...これでもう、〝二度目の転機〟に関する手がかりは無くなった。おそらく霜月楓が関わっていたであろうその転機も、もう思い出す理由が無くなった。誰かのための音楽だった僕の音楽は、 再び誰のための音楽でもなくなった。きっとこの先も。
「もう...辞めようかな。音楽。」
何度このセリフを吐いたか分からないが、今回は少し意味合いが違った。何も価値のあるものを生み出せなかった自分が、これまでずっと嫌いだった。だから早く、心の積み荷を下ろしたかった。ずっと続けてきた音楽。良い思い出も嫌な思い出もあった。それら全てはやがて心に積まれたノスタルジーという名の重荷になっていった。響はその荷物を大切にしてきたが、生きていけばいくほどそれらは加速度的に重くなっていった。だから音楽をやめて、それらを家の庭にでも捨ててしまいたかった...が、響はその荷物を既に平気な顔でどこかに捨てていたのだ。霜月楓との転機という名の荷物は、速やかに忘却され、無意識のうちに捨てられていた。自分がこれまで拘ってきた信念が、こんなに軽く薄いものだとは思いもしなかった響は、もう自分の何も信じられなくなってしまっていた。突如襲いかかってくる、濁流のような疲労感。明日はバイトだ。
「くそ...週5は入れすぎたな、シフト...。」
響は、今度はいつの間にか布団にくるまって寝っ転がっていた。そしてそのまま、深い深い眠り に落ちていく。
その日 僕は夢を見た。夏だというのに涼しい風が窓から吹き込む放課後の教室、3年2組。
「響は、なんのために音楽作ってるの?」
「どしたの急に。」
空が夜に喰われていく夕刻。僕はひとりの女の子と、椅子を向かい合わせて話していた。
「うーん。セーブするためかな。これまでの自分を。」
「セーブって、ゲームみたいに?」
グラウンドでは、まだ陸上部が数人走っていた。
「人間が覚えていられることなんて、この瞬間だけで言っても一欠片くらいだろ?」
「そーだね。ひょっとしたら、今のこと全部、いつか忘れちゃうかもだし。」
彼女は儚げに笑った。
「だから、その時点のすべてを五線譜に刻み付けるんだ。まだ走ってる陸上部のアイツらのこと も、夕日のせいで切り絵にしか見えないあのグラウンドの木も、この夕方の風も...君のことも。」
「いつでも思い出せるように?」
「違うよ。」
ますます辺りは暗くなる。もうすぐ見回りの先生が来る時間だ。はやく帰らなければ。
「いつでも、その瞬間に立ち帰れるようにさ。」
「それって、思い出すこととは違うの?」
烏が飛び回って、雲の代わりをする。折角、霧のない良い日だったのに、台無しだ。
「違うよ。」
「へんなの! 響って、黙ってればちょびっとだけカッコいいのになぁ。」
「うっせ。」
それは無限に思えるほど緩慢に続いていた、どこまでも有限だった日々の夢。もう帰ることのない、釧路の路地裏のような毎日。このときの僕も今の僕も、まだ確かにその路地裏に立ってい る。
*
「お会計合計で687円になりまーす。」
「あ...1000円からで。」
今日は9月10日。夢を見ていたようで、まだ少し頭が痛い。朝から喫茶店のシフトが入っている僕は、最寄りのコンビニでエナジードリンクと朝食を購入していたところだ。
「おにーさん、なんかすごく疲れてますね...。大丈夫ですか? 今日は仕事お休みして、一日趣味に没頭したりするのもイイかもしれませんよ!」
...何だこの神楽坂の親戚みたいな奴は。すかさず名札を見る。つきこ、という名前だそうだ。 明るい髪色で、打ち合わせしたかのようなショートヘア。
「結構です。それじゃ。」
こんなところで体力を浪費するわけにはいかない。今日はまだまだ長いのだ。コンビニを出ると、冷たい木枯らしが頬を撫でる。まるで、かつて描いたあの曲のタイトルのような日だな、と響 は思った。確かタイトルは...。
9月10日午後8時、長かった喫茶店のバイトを終えてバックルームで着替えていると、ノックもせずに神楽坂がバンと扉を開け放ってツカツカ入ってきた。
「先輩! 今日の先輩の料理、なんというか...しなしなしてました。何かあったんですか!?」
「まずノックしてくれないか...。着替えてるの上だったからいいけども」
「あぁそれはすみません、でもそんなことより今日の先輩の料理...」
世界一感情のこもっていない謝罪に少し胸を痛めつつ、無理矢理はにかんで答える。
「レタス、今日までだったんだ。」
「.....................................................そっか。」
とても気まずい沈黙がバックルームを包み込んだ。何か不味いことでも言ったかな...。着替え終わり、そそくさと出ていこうとする僕を尻目に、神楽坂はポツリと呟いた。
「そんなにヘタクソなら、もう無理に笑わなくていいです」
「あ...」
僕は察して立ち止まる。だが、友達のことを綺麗さっぱり忘れていた挙句、その友達が自殺していたなんて話、バイトの後輩にできるわけがなかった。
「先輩...元気出してくださいね。」
「ああ、ありがとう神楽坂。」
「ナギ。」
「は?」
「私の名前ですよ。ど~せ私の下の名前なんかしらないだろうから教えたります。」
フンスと胸を張る神楽坂...ナギ。案外趣深い名前だな、と思った。
「明日はふたりでラストまでですね、ヒビキ先輩?」
私は下の名前知ってましたよ、と言わんばかりのドヤ顔を見せつける神楽坂...ナギは、それじゃお疲れ様ですと付け加えた。
「おつかれ」
僕は安心して喫茶店を出た。すると深い深い霧が眼前を覆い隠す。
「朝はあんなに晴れてたのになぁ...」
吐いたため息はすぐに霧に飲み込まれて消えた。
霧で不安定な視界に気をつけながら、僕はなんとかアパートまでたどり着いた。そして一階から二階にかけての、長いのか短いのか微妙な階段をカンカンと登っていく。その途中で僕は、今日ずっと考えていた命題の答えを無意識に口からこぼした。
「もう、音楽辞めよう。」
その瞬間だった。ずるりと足が滑り、世界が宙を舞った。足場が霧の水分で滑りやすくなっていたのだろう、と思った瞬間、宙を舞っているのは世界ではなく僕であるということに気付く。 そして鈍い音がして、暗転。 長い間霧に溶けていた物語は、今この瞬間に凝結し、再び進みだしたのである。
*
「ここはどこだ?」
目を覚ますとそこは、白を基調とした少し狭い部屋。見慣れたその部屋は、バイト先の喫茶店のバックルームだ。それに気付いた僕は少し安心する。
「あ、大丈夫でしたか? せんぱい」
神楽坂...いい加減ナギと呼ぼう。ナギに似た声色で、ナギに似た台詞を話したその少女は、しかしてナギではなかった。ナギとは違う、茶色い短髪。
「あんたは...機材屋の」
そこに立っていたのは、機材屋でLK-37を僕に買わせた店員の少女だった。
「お、覚えててくれたんだ。まぁ、あんま意味ないんだけどね。」
そういって指をパチンと鳴らすと、信じられないことが目の前で起こった。室内だというのに 突如として霧が少女を包み込み、少女はあっという間に見えなくなる。そしてしばらくして霧が徐々に薄くなっていき、ひとりの少女がひょこりと姿を見せた。そこに立っていたのは、今朝のコンビニ店員だ。明るい金のショートヘア。その少女もやはりナギではなかった。
「これは夢か?」
「その通り。」
「やっぱそうか。驚いて損した。早く起きないと...きっと外であのまま寝たんだな...。」
「だけど、現実だよ。君はここで起きたことを、夢のように忘れることはできない。」
いや、彼女のように、といった方が良かったかな? と少女はケラケラ笑った。
「君は誰」
ムッとして尋ねた。
「私の名前はノヴェンバー。世界の記憶、つまり因果律を記録する役割を賜わっているもの だ。」
全く意味がわからない。世界の記憶? 因果律? そんな言葉、小説の中だけのものだと思っていた僕は、混乱を隠しきれず一歩後ろに下がる。
「平たく言えば、世界の全てについて 日誌を書いて記録する人ってことだよ。」
「えっと...神様?」
「人間だけど、その通り。」
ノヴェンバーは笑いながら続ける。
「単刀直入にお願いしよう。天野響、君には過去に戻ってもらいたい。」
「過去に...戻る?」
今度は、意味はわかったが、本質を捉えられなかった。だって、人生は一方通行の路地裏みたいなものだろう? 引き返せないのが人生、それが当たり前だ。過去に戻るなんて…。
「私は世界を記録する上で、いくつか観測点を置くことにしている。点といっても、人だがね。観測点の見たものはそのまま私の目にも映り、感じたものはそのまま私の心にも響く。それらを編纂して、私は因果律を纏めていくのだよ。」
ナギのようなドヤ顔を浮かべながら、ノヴェンバーは続ける。
「私が世界に設置した観測点のひとり...それが君だ、天野響。」
...つまり、これまで僕が見てきたことや感じたものは、全てノヴェンバーも知覚してきたとい
うことになる。急にそんなSFチックな設定を語られても、反応に困るというものだ。
「だが、唯一観測点と共有できないものがあった。それは思考だ。因果律とは、ここではあくまで事象と事象の関係性のことを指している。その裏に根付いている各人の想いまで集積させることは出来ない。」
そこにこそ、君達の美しさが垣間見えるというのにね、と彼女は皮肉そうに笑った。
「だが...唯一、観測点の思考を集積させる手段が存在した。」
それはなんだと問う響に、ノヴェンバーは何故か切なげな表情で答える。
「音楽だ」
「君の作った音楽は、君という観測点の思考を介して、世界の事象が歌われていた。」
「それは私にとって、観測点が世界をどう見ているか知る、ただひとつの手段だったのだ。」
ノヴェンバーの話は終わらない。
「私はいつしか、君については音楽しか記録しなくなっていた。」
そんなに素晴らしい音楽を描いたつもりは無いが、どうやら光栄な事にこの神様は僕のファンのようだった。だが、今までに長々と語られてきた設定と、過去に戻る必要性が繋がらない。
「霜月楓という女を、覚えていないね?」
「なっ...その人が、今何か関係あるのか?」
「あるとも」
ノヴェンバーは一歩こちらに近づき、ズイッと顔を寄せてきた。思わずドキッとしてしまう僕に 追い討ちをかけるように口を開く。
「君はある日を境に、彼女のことを歌にしなくなった。失恋か、はたまた環境の変化がそうさせたのか...その結果、世界から彼女の存在が消えた。昼夜、春夏秋冬、喜怒哀楽、陸海空。君は全て音楽にしてきた筈だ。ある日以降の彼女以外の全てをね。」
「じゃあ何だ、霜月楓が死んだのは僕の所為だって言いたいのか? ふざけるな! そもそも何で音楽からしか記録取らないんだよ! ちゃんと仕事しろよ! …そんなの、レタスの無いサンドイッチを客に出すみたいなもんだろ…。」
僕はたまらず口を開いた。冗談じゃない、友達を忘れていたばかりか知らず知らずの内に殺していたなんて、信じられる筈なかった。信じたくなかった。
「...クレームは甘んじて受け入れるよ。この件については完全に私の落ち度だと思っている。だが、最早狂った因果律を戻すことは君にしか出来ない。」
「何故!?」
「...彼女と世界の間の因果律は、君の音楽にしか記録されていないからだ。」
そうだ。少しだけ、ほんの少しだけ思い出した。僕はいつだって、世界の全てと、対であるかのように孤立していた霜月楓を音楽にしていたのだ。それが使命であるかのように。
「彼女について記されていた最後の曲の名前は、〝六色の虹〟だ。覚えているかい。」
「覚えているとも。霜月楓のことまでは思い出せないけどね。」
六色の虹は、喧嘩した日の夕暮れ、〝君〟のいない時間に〝君〟の面影を見てしまった主人公が、たまらず交差点を駆け出して〝君〟に謝りに行くという主題の曲だ。BPMは183。ピアノが爽やかさを引き立てる、早めのギターロックナンバー。まさかあの曲中の〝君〟は霜月楓のことで、あの曲丸ごとが世界と彼女の因果律だとでもいうのか。
「今から君には、7年前の8月3日...六色の虹の生まれた世界へひとり回帰してもらう。」
「そして描く筈だった音楽を描き換えていくことで、彼女...霜月楓を生き返らせるのだ。彼女を離さず、世界と彼女の関係を歌に描き続けるのだ!」
それは僕にとって、千載一遇のチャンスであった。歩んでいた灰色の人生を塗り替えつつ、失った友達を救うなんて話は、それこそドラマや小説の中だけの話だと思っていたからだ。だが彼女は、これは夢であり、現実であると言う。乗っかってみる価値は、十分にあった。
「こちらとしても、君へのリスクは最小限に留めたい。因果律が書き変わった段階で、速やかにこの時代に帰ってきてもらう。...やってくれるかい。」
「...やるよ。」
僕はノヴェンバーに強い眼差しで応える。
話は変わるが、僕はもうひとつ思い出したことがあった。今朝の木枯らしが吹く晴天のような日を題材にした、その曲の名は。
〝君のいない秋晴れ〟
きっとその歌に、もう霜月楓は出てこない。だから僕は、7年前にタイムスリップする。あの日の秋晴れを、もう一度君と見るために。
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